02
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謁見の間──。
皇帝陛下が見下ろす先にリリティアの姿があった。
毒によって一週間ほど熱が続き、ようやく立ち上がって歩けるようになるまで更に十日がかかった。
その間、リリティアは陛下に保護される形で皇宮に滞在した。次期皇太子妃という肩書きが意外にも役立った。
また大きな事件であることから毒を盛ったメイドを含め、アイシャやライハルト、他にもリリティアと関わりのある人物の取り調べが行われているという。
それによってリリティアの元に家族が訪れてくることはなかった。
「……陛下のお気遣い、心よりお礼申し上げます」
「ふむ、そなたのことはペインより聞き及んでいる。我が息子のこともすまなかったな」
「とんでもないことでございます。私の方こそ力不足で陛下のお役に立てず申し訳ございませんでした」
「そう畏まるな。それより他に望むことはあるか?」
陛下は息子のライハルトとよく似ていた。金髪碧眼に、整った顔立ち。ただ、威厳に満ちた態度はライハルトにはないものだった。
少し前のリリティアだったら怖くて何も言えなかった。
でも今は、違う。
「それでしたら……」
恐れるものは、もうない。
真っ直ぐに視線を向け、望みを口にした。
きっとこれが陛下と話す最後の機会になるだろう、とリリティアは理解していた。
長くもあり、短くもあった陛下との謁見を終え、リリティアは護衛の騎士と共に廊下を歩いていた。
中庭は暖かな日差しに照らされ、美しい薔薇が咲き誇っていた。
いつも通っている場所なのに、どうしてこの光景に気づかなかったのだろう。
花を見る余裕すら無くしていたのだ。
リリティアは口元を緩め、軽くなった足取りで歩き続けた。
そこへ騒がしい声が聞こえて足を止めた。
後ろからついてきた騎士がリリティアの前に進み出る。
すると、二人の騎士に取り押さえられながら声を荒げるアイシャの姿があった。
彼女は取り調べに連行されるところだったのか、何度も「私は何も知らないわ! あのメイドが嘘をついているのよ! ケイシュトン公爵令嬢に会わせなさい!」と叫んでいた。
「……アイシャ様」
普段の、穏やかで明るかった彼女はどこにいってしまったのか。
つり上がった目に怒りを滲ませ、騎士を睨み付ける様はとてもリリティアの知っている彼女ではなかった。
唖然と見つめてしまうと、彼女はこちらに気づいた。
「貴女……っ!」
アイシャはリリティアの姿を見つけるなり、騎士の制止を振り切って向かってきた。護衛騎士がリリティアを守ろうとするが、リリティアは首を振って騎士を止めた。
すると、駆け込んできたアイシャはリリティアの二の腕を鷲掴みすると、捲し立てるように怒鳴ってきた。
「どうしてなのっ!? なぜ貴女が毒を飲んだのよ!」
「それは……」
「おかげで私が今どんな状況にあるか知っていて!? 貴女のせいで全てが台無しだわ!」
もしアイシャの計画通りに進んでいれば、二人の状況は大きく違っていた。皆から同情されたアイシャは、皇太子妃になれたかもしれない。それは子爵令嬢として夢のような立場だ。
けれど、やってもいない罪で裁かれるのは我慢できなかった。だって、どんなに違うと言っても、誰も信じてくれないから。
「いつも人形のように何も感じていないような表情をして、ライハルト様からも疎まれていたくせにっ! 貴女は皇太子妃になれなくても、どちらでも良かったのでしょう!? だったら大人しく私に譲れば良かったのよ!」
「────」
人形のような人間──罪を背負った子供は、楽しそうに過ごしてはいけないと言われた。
最初に笑うのを止めたら、あらゆる感情を表に出すのが怖くなった。けれど、決して感情がなくなったわけではない。
面白いと感じたら笑いたかった。悲しいことがあったら泣きたかった。嬉しいことがあったら喜びたかった。腹立たしいことがあれば怒りたかった。
今も、アイシャの放った言葉に様々な感情が渦巻いて胸が苦しい。
「何を騒いでいる」
その時、予想以上に響き渡っていたアイシャの声を聞きつけて、ライハルトが駆けつけてきた。
「殿下……」
「ああ、ライハルト様!」
数人の護衛を引き連れてやって来たライハルトは、立ち尽くすリリティアの傍に近づいて見つめてきた。
視線を合わせてくるなんて珍しい。
「皇宮の中で騒ぎ立てるとは。早くその者を連れていけ」
「なっ!? なぜですか、ライハルト様! 私は無実です、その女が勝手に毒を飲んだだけですっ!」
ライハルトはアイシャを鋭く睨みつけ、騎士に命じて彼女を捕らえさせた。リリティアから引き剥がすのは容易ではなかったが、結局力負けした彼女は連れて行かれた。
どこまでも聞こえてくるアイシャの泣き叫ぶ声が恐ろしかった。
リリティアは痛む二の腕を擦り、溜め息を溢した。
なんとも後味の悪い。
「大丈夫か、リリティア?」
「はい、大丈夫です。助けてくださり、ありがとうございます」
顔に影を落としたリリティアに、ライハルトが声を掛けてきた。
リリティアは素直にお礼を口にして頭を下げた。
「いや、君が無事で良かった。もっと早く会いに行きたかったんだが、君の容態が悪いと聞いて」
それはきっとリリティアが誰にも会いたくないと拒否していたからだ。もっとも、お見舞いに来てくれた人がいたかどうか。
ライハルトは婚約者として義務を果たそうとしたのだろう。そういう人だ。
「──本当にすまなかった。君を蔑ろにしていたつもりはないんだ……。彼女とは友人として付き合っていたが、君が誤解していたなんて」
「殿下、もう過ぎた話です」
「リリティア……」
疎ましい相手でもエスコートして、ファーストダンスを踊ってくれた。ライハルトは最低限のことはしてくれたのだ。それだけで十分だ。
そして、ライハルトはその義務から解放される。
「先程、陛下と謁見いたしました。このような事態を招いてしまい申し訳ありませんでした。私と殿下の婚約はすぐに解消されることでしょう」
「……なん、だと?」
「不甲斐ない婚約者だったこと深くお詫びいたします。暫くすれば私も皇宮から出て行きます。どうかお元気で」
決して良いとはいえない再会だが、おかげで別れの挨拶ができた。リリティアは下げた頭をゆっくりと持ち上げ、ライハルトに向かって柔らかく微笑んだ。
最後くらい笑顔で別れたいと思ったが、ライハルトは久しく見なかったリリティアの笑顔に衝撃を受けたようだ。
しかし、ライハルトが驚いている間に、リリティアはその場から去っていた。
二度と会うことはないだろう。
一時は惹かれていた婚約者だが、今となっては未練も後悔もなかった。
残していくのは少ない方が良い。
リリティアは覚悟を決めた顔で廊下を歩いていった。