番外編:沈黙する獣たち
王都から離れた領地の、とある村。
村から外れた森の中に近づくことを禁じられた屋敷がある。
晴れた日中でもカーテンは閉め切られ、中をうかがい知ることはできない。廃れた屋敷に、人の気配も感じられないことから、誰も住んでいないと思われていた。
しかし、村人の一人が食糧などを載せた荷馬車が出入りしているのを偶然見かけた。それは月に一度、朝の早い時間に出入りしていることが分かった。
村の男たちは好奇心から屋敷を訪れたが、出迎えてくれた者はおらず気味が悪かった。
──刹那、屋敷の中から断末魔のような悲鳴が聞こえてきた。
この世とは思えない叫びに男たちは震え上がり、村の者たちは屋敷のある森には二度と足を踏み入れることはなかった。
中で何が起きて、何が行われていたのか。あの悲鳴は同じ人間が発したものだったのか。それとも、飼われた獣だったのか。
真相は屋敷の者たち以外、知ることはできなかった。
「──これを、私の息子に」
男は皺だらけの手から万年筆を離して、書いた手紙を封筒に入れた。病気を患っているわけでもないのに、年々やせ細っていく体は手紙を書くだけでも一苦労だ。
……それも最後になるが。
この屋敷に移り住んでから、十年──。
ケイシュトン公爵家の当主だった男は、昔の面影もないほどやつれ切った顔で、その封筒を使用人に手渡した。
「ご主人様は……」
「私は、ここに残る。お前はこれを届けたら、ルシアンに仕えるように。それも手紙に書いてある」
「でしたら、私もここに残って……」
使用人の男は手紙を受け取るも、自らもここに残ると言い出した。しかし前公爵は、自分以上に痩せ細った男を見つめ、静かに首を振った。
「もう終わりにしよう。……ちょうど、十年だ」
そう言って前公爵は、手元に置かれた燭台の蝋燭に視線を落とした。
虚ろな双眸に映るのは、ゆらゆら揺れる小さな火か、それとも在りし日々の残像か。
家庭も地位も投げ捨てて、前公爵が選んだ道は「復讐」だった。
──その相手は妻だった。
後妻として屋敷に招き入れた女は、前公爵の娘に酷い虐待を繰り返し、娘が自ら毒を飲むまで続いていた。
何も知らなかった前公爵は、そんな女を妻にしてしまったことを激しく後悔し、自らの手で制裁を加えることにした。他にも、女から酷い仕打ちを受けた者たちに声をかけると、多くの者たちが前公爵の呼びかけに応じた。
そして、娘が虐待に耐え続けた十年──それと同じ年月を、妻だった女に与えたのだ。
同じ痛みを、同じ苦しみを、同じ絶望を……。
どんなに泣き叫び、助けを求めても、終わりのない恐怖が女に襲いかかった。
しかし、その復讐が本当に正しかったのか、今ではもう分からない。
十年が経った今、最初は憎しみから拳を振り上げ、鞭を振るってきた者たちも次第に変わっていった。
ある者は我に返り、いたたまれない気持ちになって屋敷を去った。
ある者は狂気に走り、酒に溺れ、他の者たちにも暴力を振るようになって撲殺された。
ある者は心を病み、近くの木で首を吊っているのが見つかった。
最後に残ったのは、前公爵と、女の弟だけだった。
「私を支えてくれたように、今度はルシアンの傍についてあの子を支えてやってほしい。そして、我が公爵家を最後まで見届けてくれないか」
「……畏まりました」
妙なめぐり合わせだが、二人の間には確かな信頼関係ができていた。何もなければ仲の良い義理の兄弟として過ごすこともできただろう。
男は受け取った封筒を懐にしまって、深く頭を下げた。
ひとつの仕事を終えた前公爵は椅子から立ち上がった。立っただけでふらつく前公爵を、男がすぐに支える。彼がどこへ行こうとしているか、すぐに分かった。
隣の部屋に続くドアを開くと、中から強烈な悪臭がした。
「ああ、ミランダ……怖がらなくていい」
前公爵がベッドに近づくと、それは血と汚物に汚れたシーツの上で飛び跳ねた。
両目は抉り取られ、舌は引き抜かれ、両手両足は切断された、女であった何か。白かった肌は赤黒く変色し、暴力の痕が隅々まで広がっていた。
化膿した傷は塞がっても、また別の場所が化膿している。女を十年間生かしておくのは、とても大変だった。男にとっては実の姉だが、もはや姉とは思えなかった。
それは呼吸をするだけの肉の塊にしか見えず、憎しみも哀れみも感じなかった。
「ミラ姉さん、屋敷を出ることになったよ。だから、お別れを言いにきたんだ」
「──ンググ、ヴーッ!」
散々喚いて、叫んで、悲鳴を上げ続けた女の喉は随分前に潰れていた。
最後に謝罪の言葉でも聞ければ、これまでの嫌な記憶からも解放されるかと思ったが、男は残念そうに眉尻を下げた。
そうしている間に前公爵がベッドに這い上がり、妻に寄り添うように横になった。
「ミランダ、もう十年だ。……よく耐えてくれた」
それが何を意味しているか、ミランダにも伝わっただろう。
虐げられてきた娘が最後に求めた救いが「死」であることを、誰もが知っていた。すると、ミランダは小水を漏らしながらも大人しくなった。
まるで、ミランダもまたそれが救いであるかのように。
男は寄り添い合う夫婦を見届けた後、静かに屋敷を出た。
後日、森の中にあった屋敷から火の手が上がり、炎に包まれながらすべては闇の中に葬られた……。
読んでくださり、ありがとうございます。
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