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01

 それが毒だと知っていた。

 飲み干せばどうなるかも解っていた。

 ──解っていて、敢えて飲んだ。

 もう、どうなってもいいと投げやりな気持ちと、この世に未練などなかったからだ。

 喉を通って流れ込んだ毒が体内を侵蝕する。

 吐き気が込み上げて視界が揺れた。

 倒れると思った瞬間、見知った顔が目に映った。

 今までそんな顔で一度も私を見たことなかった癖に。

 きっと私がいなくなれば喜ぶに決まっている。

 意識が飛んでいく中、私は願った。


 嗚呼、このまま目覚めることの無い世界に。

 どうか私を死なせて下さい……。




 ★★


 ケイシュトン公爵の長女、リリティア・ケイシュトンの世界は最初から灰色だったわけではない。

 生まれた時に母親を亡くしてしまったが、二歳年上の兄と彼女の父親がとても大切にしてくれた。

 おかげで、優しくて明るい活発な女の子に育っていた。

 リリティアが笑えばその場に花が咲いたように華やぐ──と、喜ばれるぐらい皆から愛されていた。

 しかし、リリティアが十歳になった頃、生活は一変した。


 父親が再婚したのだ。

 相手はリリティアと十三歳ほどしか年の離れていない、若い伯爵令嬢だった。

 紹介された時は、早くに母親を亡くしたケイシュトン公爵家の兄妹に同情し、もう二人には寂しい思いはさせないと柔らかな笑顔を見せてくれた。

 母親の温もりを知らずに過ごしてきたリリティアは、ミランダと名乗った彼女に期待を抱いた。

 だが、それが間違いだと気づいた時には手遅れだった。


 始めは些細な事だった。

 ミランダの持っていた宝石が無くなり、どういうわけかその宝石がリリティアのベッドから見つかった。

 もちろん盗んだわけじゃない。

 リリティアは知らないと言い張ったが、ミランダは「良いのよ、リリティアは寂しくて構ってほしかったのね」と微笑んだ。

 父親は「ミランダをすぐに母親と受け止められないのも分かるが、度が過ぎる悪戯はやめなさい」と言ってきた。

 なぜか、皆信じてくれなかった。

 それから似たようなことが起こるようになり、その度にリリティアを庇ってくれたのはミランダ本人だった。


 間もなくしてミランダは双子の姉弟を出産し、名実ともにケイシュトン公爵家の女主人として君臨することになった。

 ミランダは双子の子供達と一緒に、リリティアの教育にも口を出すようになった。

 これまで優しく教えてくれていた教育係は辞めさせられ、体罰を伴う教育方針に変わった。

 父親は仕事で屋敷に戻ってくるのも少なく、誰もリリティアの変化に気付かなかった。

 否、気付いて見てみぬ振りをしていたのだ。

 ミランダは反発した使用人を簡単に屋敷から追い出して行った。

 最初の頃と比べて、ミランダは派手な装いにきつい香水を振りまくようになった。

 少しずつリリティアの居場所は失われていった。

 唯一、救いになるかと思ったのは皇太子との婚約だ。

 ロヴァニア帝国の第一皇子であるライハルト・シェーン・ロヴァニアは、リリティアの兄ルシアンとも仲が良く、リリティアとも顔見知りだった。

 二人の婚約は大々的に発表され、リリティアは皇太子妃になるための教育が始まり、ミランダのいる屋敷から離れることができた。

 城では皆が良くしてくれ、体罰のない教育には怯える必要もなかった。

 リリティアは徐々に昔の明るさを取り戻しつつあった。ライハルトも城にいる時にはリリティアの元に足を運んでくれた。

 けれど、兄であるルシアンの態度は冷たかった。ルシアンは、嘘つきで手癖の悪い妹だと罵るミランダの言葉を信じてしまっていたのだ。

 幼い時は仲良く遊んでいたのに。

 しかし、ミランダはルシアンを味方につけるだけでなく、リリティアの精神まで支配しようとしてきた。


「貴女は自分のお母様を殺して生まれてきたのでしょう? 公爵家の皆は優しいから口にしないだけで、本当は貴女を恨んでいるのよ。それなのにいつも楽しそうに笑って過ごして、なんて罪深い娘なのかしら。もっと躾けないと分からないようね」


 城から戻ってくるのが遅かった日、ミランダはリリティアの部屋にやって来てそう言った。

 手には鞭を持って。

 けれど、鞭で叩かれた痛みより、ミランダの放った言葉のほうが辛かった。


 これまで周囲から愛されて育てられたと思っていたのに、それら全ては偽りで、ずっと恨まれていたのだと。

 兄からも、父親からも。

 だから皆、味方になってくれなかったのだ。

 その日を境に、リリティアは笑うことを止めた。顔の表面に薄い仮面を被って、笑顔を見せることもなくなった。



 笑顔を失ったリリティアに、好んで近付いてくる者はいなかった。

 皇太子妃の教育は続いていたが、いつからか婚約者であるライハルトも姿を見せなくなった。式典などの有事の時だけ、彼はリリティアの前に現れてエスコートをしてくれた。

 ファーストダンスも踊ってくれた。

 でも、それだけだ。

 ライハルトはルシアンと肩を並べ、年頃の女性に囲まれることが多くなった。その表情は楽しそうで、リリティアの存在など忘れてしまっているようだった。

 そんな中、ライハルトととくに仲良くしている女性がいた。

 アイシャ・ムクチャードという子爵令嬢だ。

 爵位は低いものの、ピンク色の髪にオレンジ色の瞳を持った愛らしい容姿に加え、笑顔の絶えない女性だった。

 美貌で言えば、黄金のように輝く髪に紫色の瞳を持つリリティアも負けていなかったが、アイシャのように人を惹き付ける魅力は持ち合わせていなかった。

 いつしか貴族の間では、リリティアはお飾りの皇太子妃になり、アイシャが愛人として迎え入れられるのではないかと噂されるようになった。

 ロヴァニア帝国では皇族の血を絶やさない為に愛人の存在が黙認されている。

 まだ、婚姻もしていないのに……。

 リリティアは公の場に出るたびに聞こえてくる数々の噂話に耳を塞ぎたくなった。

 そこへ追い討ちをかけてきたのはアイシャだった。


「ごきげんよう、リリティア様」


 教育のために城を訪れていたリリティアの前に、待っていたかのようにアイシャが現れた。

 にっこりと笑った彼女は、表面だけの優しさを見せた継母と似ていた。

 挨拶を返したリリティアは、アイシャに用件を訊ねた。


「ええ、近頃良くない噂が流れておりますでしょう? それで、リリティア様が心を痛めてないか心配になりましたの。ライハルト殿下も私ではなく、貴女と過ごされたほうが良いとお伝えしましたのよ」


 それでも今日、城を訪れていたのはライハルトと会う為だろう。

 彼が彼女を呼んだのか。

 それとも彼女のほうから会いに来たのか。

 二人が想い合っているなら、もう仕方のない事だ。


「左様ですか。ご心配されずとも、私は殿下のお心に従います」


 例え、お飾りの妃になっても。

 ミランダのいる屋敷よりマシだ。

 顔色一つ変えず答えると、アイシャは一瞬だけ鋭くリリティアを睨み付けると、その場から去っていった。

 リリティアは溜め息をつき、自分は目的の部屋へ向かった。

 その日の授業が始まって帝国の歴史を頭に詰め込んでいると、突然扉が乱暴に開かれて激しい剣幕のライハルトがやって来た。


「どういうことだ! アイシャに何を言った!?」

「…………」


 ライハルトはリリティアの腕を掴み、整った顔を歪めて怒鳴ってきた。

 掴まれた腕は痛かったが、リリティアはやはり表情を崩すことなく訊ねた。


「何のことでしょうか?」

「とぼけるな! アイシャに、私の愛人になれと進言したそうだな! 彼女は私の友人だぞ!?」

「……薦めた覚えはございませんが」


 リリティアは否定したが、ライハルトは聞き入れてくれなかった。

 皆、そうだ。

 誰も自分の言葉に耳を傾けてくれない。

 結局、騒ぎを聞きつけた騎士や従者に宥められて、ライハルトはリリティアから離れていった。

 二人の間に、大きな溝を残して。



 ★★


「我がケイシュトン家に泥を塗るつもりか、恥を知れ!」


 同じ屋敷で暮らしつつも、兄のルシアンはリリティアを避けるようにして生活していた。

 そのルシアンが急に訪ねてきた。

 同時に、怒りを含んだ目を見てすぐに理解した。

 挨拶するまもなく、ルシアンはリリティアの頬を叩いて「恥を知れ」と罵った。

 きっと友人であるライハルトから、事の経緯を聞かされたのだろう。

 そうやって真実は曲げられ、誰も聞く耳を持ってくれなくなるのだ。


「よりによって皇太子の友人に愛人を薦めるなど……! この話が広まればアイシャは傷物扱いされ、婚約や結婚が難しくなる。お前は危うく、彼女の人生を台無しにするところだったんだぞ!」

「……申し訳ありません、お兄様」


 子供の頃は優しかったお兄様。

 寂しくなった時はずっとそばにいてくれたお兄様。

 ──貴方は一体いつから、味方ではなくなってしまったのでしょう。

 頭を下げて謝罪を口にしたリリティアに、ルシアンは「これまで以上に行動を慎め」と言い残し、部屋から出ていった。

 兄は多忙な父親に代わって公爵家の仕事に携わっている。妹のリリティアの言動を咎めたのも、次期当主としての責任感からだろう。

 リリティアは叩かれた頬を指先でなぞり、唇を噛み締めた。

 ──やはり、恨まれているのだ。母親の命を奪ったから。

 それはどんなに謝罪しても償うことはできない。これ以上罪を重ねないために、自分ができることは兄の前で笑った顔を見せない事だ。

 どんなに辛くても助けを求めてはいけない。

 愛されたいと望んではいけない。


「──……」


 リリティアは勉強をしていた机に戻り、おもむろに横の引き出しを開いた。

 中から取り出したのは、手のひらに収まる白い陶器装飾のシリンダーオルゴールだ。蓋には金髪の少女が躍っている姿が描かれ、ルシアンがリリティアの誕生日にプレゼントしてくれた物だ。

 仲がこじれる前の、最後の贈り物。

 リリティアはそれを抱きしめながら、心の中で泣き叫んだ。涙を見せることは許されず、表に出ることのない感情だけが、彼女の中で蓄積されていった。




 リリティアとアイシャが顔を合わせてから程なく、ライハルトやルシアンとの関係も修復できないまま、皇帝陛下の誕生日を祝う式典が行われた。

 リリティアはライハルトにエスコートされたが、一度も視線が重なることはなかった。このまま婚姻して夫婦になったところで、幸せになれるのだろうか。

 もし、彼が一度でも笑いかけてくれたら、リリティアの選択は違っていたかもしれない。

 その日もファーストダンスはライハルトと踊ったが、言葉を交わすこともなかった。

 指先からライハルトの手が離れていく。

 目の前から遠ざかっていく背中を見つめ、リリティアは瞼を伏せた。


「邪魔者はすぐに消えますので……」


 リリティアはそう呟き、ホールの中央から端に移動した。

 しばらくすると、そこに豪華なドレスを着たアイシャが近づいてきた。

 彼女のドレスはライハルトがお詫びの品としてプレゼントした物だ。子爵家では買うことのできない、上品で美しいドレスだった。

 すると、アイシャはドレスを摘んで挨拶してきた。

 持ち上げた顔は自信に満ち溢れ、勝ち誇った表情を浮かべていた。

 ライハルトは彼女を友人と言っていたが、アイシャはきっと違う。

 リリティアから婚約者という立場を奪って、ライハルトと一緒になることを望んでいた。

 皇太子妃としてどちらが相応しいか、アイシャは己の方だと思っている。


「皇太子妃になられる方がこんな端におらず、皆さんが集まる場所に行かれては?」

「教えてくださり感謝致します」

「折角のお祝いの場ですもの、リリティア様も楽しまれた方が良いですわ」


 そう言ってにっこり笑ったアイシャは、近くにいた給仕のメイドを呼んでシャンパンを運ばせた。

 メイドは銀のお盆に二つのグラスを載せ、リリティアとアイシャの前に差し出してきた。

 リリティアは迷わず手を伸ばし、グラスを手に取って中のシャンパンを飲んだ。

 ──その中身が何なのか、分かっていたのに。

 飲んだ瞬間、体内に衝撃が走った。

 アイシャに視線をやると、信じられない顔で唖然としていた。

 それもそうだ。

 本来なら、この毒はアイシャが飲むものだったのだから。

 それを知っていて、リリティアは自分を終わらす為にその毒を飲んだ。



「それ」は偶然だった。

 アイシャの件で怒らせてしまったライハルトに、リリティアは後日謝罪に向かった。

 皇太子妃の教育が始まる前、城の中を歩いていたリリティアは、中庭でアイシャの後ろ姿を見つけた。

 今日も来ていたのか。

 彼女の姿に、ライハルトの元へ訪れるのは止めようと足を止めた所だった。アイシャが去った後、一人のメイドが現れた。

 メイドは真っ青な顔で紫色の小瓶を持っていた。リリティアは視界に入った小瓶の色を見て息を呑んだ。

 あれは、毒だ。

 皇太子妃になる者として毒の知識も持っている。耐性も少しだがある。小瓶はアイシャから渡された物だろう。

 一体、誰に使う気だろうか。──考えるまでもない。


「私、だわ」


 ただ、それが本当に合っているか定かではなかった。リリティアは急いでメイドを追いかけた。突然呼び止められたメイドは酷く狼狽した。

 そして持っている小瓶を訊ねると、メイドは顔面蒼白になって床に平伏した。


「わっ、わた、私は頼まれた、だけで!」

「分かっているわ、話を聞かせて」


 戸惑うメイドを連れて、二人で話せる場所に移動した。

 メイドはそのままリリティアの前に両膝をついてガクガク震えていた。リリティアはメイドから小瓶を受け取り、次期皇太子妃という立場を利用して話を強要した。

 こういう時の「いつも何を考えているか分からない」と言われる無表情の顔は大いに役に立った。正直なところ、毒を持っている手は震え、恐ろしくて倒れそうだったのだ。

 メイドはリリティアに怯え、洗いざらい喋ってくれた。


 メイドはとある大臣と不倫関係にあり、アイシャに知られたことで脅されたのだと言う。

 最初は身の上話ばかりされて、なかなか肝心の毒について聞くことができなかった。

 それでもリリティアが根気強く訊ねると、メイドは泣きながら口を割った。

 毒はアイシャから渡された物で、彼女が飲むために用意された物だと言った。なぜ、彼女自ら危険を冒すのか。それは次の言葉で分かった。


「飲み物に一滴だけ垂らして軽く口を付ければ死ぬことはない、と。そして、その毒は……リリティア様に命じられて入れたのだと、証言するように仰いました」

「……そう。それはどこで?」

「こ、皇帝陛下の誕生祭です……っ」


 毒を使用するのは皇帝陛下の誕生日を祝うパーティーだと教えられた。多くの貴族が集まる中、アイシャは自ら毒を飲んでリリティアを陥れようというのだ。

 リリティアは小瓶に入った毒を見下ろし、目を細めた。

 どこまで邪魔者扱いされれば報われるのだろうか。

 例え皇太子妃になったところで、リリティアに自由は訪れない。

 それなら、いっそ。


「……分かったわ。それなら予定通り貴女はこれを使いなさい。でも毒を飲むのは彼女ではないわ」



 パーティー当日、リリティアはメイドが運んできたシャンパンを飲んだ。

 アイシャはさぞ驚いたことだろう。毒を飲むのは自分だったのだから。

 リリティアの持っていたグラスが床に落ちて割れる。その音に気づいた者達が一斉に振り返った。倒れる瞬間、誰かの悲鳴が聞こえた気がする。

 しかし、倒れた衝撃と体内に広がった毒で意識が遠ざかった。

 最後に願ったのは、死という自由だった。



 ★★


 夢を、見た。

 屋敷の中庭で二人の子供が楽しそうに遊んでいた。

 二人は仲の良い兄妹だった。

 兄の背中を追いかけていた妹が転んでしまうと、兄はすぐに駆け寄ってきてくれた。優しい兄だった。

 そこへ二人を呼ぶ声がした。

 父親だ。

 二人は手を繋いで父親の元に急いだ。

 すると、部屋のテーブルにお茶やお菓子が用意されていた。それからソファーには、穏やかな笑みを浮かべた母親が二人を待っていた。

 偽物の母親ではなく、肖像画でしか見たことがない母親だ。

 二人は躊躇なく母親の胸元に飛び込んだ。


 嗚呼、なんて幸せな夢なんだろう。

 これは死んだはずの母親が最後に見せてくれた夢だろうか。

 命をかけて産んでくれたのに。

 きっと怒っているに違いない。

 でも、何かに期待することに疲れてしまったのだ。

 誰からも愛されず、このまま邪魔者扱いされるのは死ぬより辛い事だ。

 存在を否定されるくらいなら終わらせる方がいい。

 死が。

 死だけが、自由にさせてくれる。

 だから、どうか願いを聞き届けてください……。





「──……お目覚めですか、リリティア様」


 そう強く願ったのに、現実は残酷だった。

 息を吹き返すようにして目覚めてしまったリリティアは、しばらく見慣れない天井を見つめていた。


「……私、生きているわ」


 ここは、どこだろう。

 声のしたほうへ視線をやると、白髪の老人が椅子に座っていた。

 彼は皇宮医で、皇太子妃の教育にも携わってきたペイン・ロード男爵だ。彼がいるということは、ここは皇宮の一室だ。

 ペインは椅子から立ち上がり、リリティアの額に手を当てた。


「まだ熱っぽいですが、落ち着いたようで良かったです」

「…………」

「生きていて残念、という顔をしておられますね」


 心を見透かされたように言われて、リリティアは目を伏せた。

 残念……確かに残念だ。

 死ぬつもりだったのに、まさか生きているなんて。

 リリティアの視界は涙で霞んでいた。


「今回の件ですが、毒を盛ったメイドが全て話してくださいました」

「あのメイドが……」

「もちろん自ら毒を飲んだことは公にされていません。逃げようとしていたメイドも、まさか貴女が死ぬつもりだったとは思わなかったんでしょうな。大人しく捕まりましたよ」


 毒を盛って運んできたメイドに、リリティアは逃走用の資金と馬車の準備をしていた。

 うまくいけば国から逃げ出せていたはずだ。

 だが、捕まってしまった以上、メイドには重い処罰が待っている。


「それは悪いことをしたわ」


 メイドを自分の我が儘に巻き込んでしまった。

 落ち込んで見せると、ペインは小さく息を吐き、暗い顔でリリティアを見下ろした。


「これほどに生きづらかったのですか……」

「なに?」

「いいえ。──しかし、貴女には伝えておかなければいけないことがございます。とても辛いことですが、今のリリティア様には希望にもなりましょう」


 そう言ってリリティアを見つめながら、ペインは重苦しく口を開いた。


「飲んだ毒が体内の臓器を蝕み、このまま生き続けることは難しいでしょう。正確な期間は申し上げられませんが……あと数年の命だと思っていただきたい」


 突然の余命宣告。

 ペインから告げられた命の時間に、リリティアは思わず笑いそうになった。

 嗚呼、神様はきちんと私の願いを聞き入れてくださったのだ。

 時間はかかりそうだが、死ぬと分かっている娘を皇太子妃にはしないだろう。遅かれ早かれ婚約は解消され、屋敷の中でもミランダの言いなりになる必要はなくなる。

 だって、あと数年すれば消える存在なのだから。

 リリティアは必死で笑いを噛み殺した。こんなに愉快な気分になったのは初めてだった。


「ユアナ、リリティア様の世話を」


 肩を震わせるリリティアに、ペインは寒くて震えているのだろうと思ったようだ。

 部屋の端で控えていた者を呼んだ。

 視線を向けると、髪は短く、ズボン姿の女性が傍にやって来た。歳はミランダと同じぐらいだろうか。男装の似合う女性だ。


「このような格好ですが、私の娘で、助手をしております。しばらくリリティア様の世話をさせていただきますので」

「ユアナと申します。宜しくお願い致します」


 熱のせいで汗が吹き出し、体が冷えていたことは確かだ。リリティアは着替えることになり、ペインは一旦廊下に出て行った。

 残ったユアナは手際よくリリティアの体を温かなタオルで拭き、新しい寝巻きに着替えさせてくれた。



「……貴女も、私を馬鹿な女だと思っているでしょうね」


 再び枕に深く頭を沈めたリリティアは、天井を見上げながら口を開いた。

 ユアナは横で忙しく動いていた。

 彼女はリリティアの体を見て気づいたはずだ。

 白い肌に刻まれた鞭の傷痕を。

 それだけ駄目な人間なのだと知った事だろう。

 自嘲気味に言うと、ユアナは水で濡らしたタオルをリリティアの額にあててきた。


「──いいえ、私はそうは思いません。こんな状態になるまで耐えてきた方に、何を申せるというのでしょう」

「…………」


 ひんやりと冷たいタオルが、リリティアの熱を吸い取ってくれる。

 ユアナの低い声色も心地良かった。


「ただ、ご令嬢が死にたくないと思えるほど楽しませるにはどうしたらいいか、今必死で考えています」

「……っ!」

「よく頑張りましたね」


 ユアナを見れば、柔らかな笑みを向けられた。偽りのない笑顔だ。

 刹那、リリティアはくしゃりと顔を歪めた。

 同時に胸の奥底から、これまで溜めてきた感情が込み上げる。

 本当は誰かに分かってほしかった。

 この痛みと苦しみを。

 一人でも良いから傍に寄り添って話を聞いてほしかった。

 認めてほしかった。

 よく頑張っていると褒めてほしかった……!


「……ふ、っ……うぅ……めん、さい……ごめん、なさい……っ!」


 ごめんなさい、死を選ぶことしかできなくて。

 もっと周りを見渡せば、他に方法があったかもしれないのに。

 リリティアは溢れてくる涙を堪えきれず、両手で顔を覆った。ユアナは「泣きたい時はしっかり泣いて下さい」と言ってきて、それが妙に可笑しかった。


 そうだ、私はまだ泣ける。

 笑える。


 ──生きている。


 そう実感したらまた涙が出てきて、リリティアは子供のように泣きじゃくった。


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12/23発売「邪魔者は毒を飲むことにした―暮田呉子短編集―」
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