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若草を手折る

作者: ましこ

なるべく「会話」を避けて描写しました。


個人的に好きです。

 ひとしきり考えたあとに、何もかもが嫌になって頭をかきむしりたい仄暗い気持ちになった。心臓のある上の方を叩いたり、無性に手首を切ってしまいたいと思ったり、心は虚空を描いたままで、そこには存在しないかのようだった。その子供は、何もかも人間のものさしでしか考えることができない自分が、途端に恐ろしくなったのだ。

 その幼子には「官介」と仮に名前をつけるとした。名前もなく、身よりもないというのだから、呼びようにも困った。誰々の子と呼びかけるわけにもいかない。下手に情愛を持つような名前を与えても、私の気持ちが一方的にこの子に溶け込むだけだ。人は誰のものでもなく、また己だけの自分である。所有をされぬ自由さを持つものが人間なのだから。だからこその仮の名前が必要だった。官介はいわば一時的なもので、太郎や花子、ポチやタマと変わらないものである。



 私は彼に、できるだけ多くのものを分け与えたいと思った。少なくとも、自分に価値と呼べるものが一つでもあるとするのならば、全ては彼のものだと言い聞かせてひとつひとつを労るように心の帯を解き始めた。誰もは最初、他人なのである。生まれ出る前から慈しんでくれるのは、父母だけのような世の中。私に何ができるのかと、指折り時を数えながら考えた。



 雪月花という言葉がある。もとは白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君」による語からくる、雪と月と花の三語、自然の美しい景物を指す語であった。四季折々の風情の美を讃える一説から、私の名は与えられた。もとは官介のように名もなき、歴史にも名を刻めぬような私ではあるが、「礼を受け取らぬは、正当な対価を受け取らぬことと同じである」 と主君から言葉を受け、拝命した身に余る名であった。



 私が物心覚えてから、件の少年に出会うまで暮らしたのは、山奥の秘境のような場所にある薬師塔と呼ばれる里であった。当時にしては珍しい背の高い木造の建物がいくつもあることから、そう呼ばれたという。まじないが流行している頃、薬草での治療や針や刃物を用いる治療は忌み嫌われていた。医学の心得を持つものは自らを薬師と称して、この隠れ里に命を守るために身を潜めたのだ。揃いの純白の衣をまとい、医術を後の世に伝えるために代々受け継がれてきた。私はその一人の子孫であり、薬草を主にして学んできた。



 しばらくして新しい特効薬を探すのが里での役割になった。箪笥のように引き出しがいくつもある薬箱を背負い、里を出て村や街を練り歩いた。取り扱いが難しい激薬は、からくり仕掛けにしてある場所に保管しておく。よく使う万能薬は取り出しやすい場所に収めるなど、考えられた作りになっていた。今はかけがえのない仕事道具となっている薬箱は、旅の途中に出会った棟梁に頂いた唯一無二の一品であった。男女関係なく己の志に合うもの学び、切磋琢磨して仲間とともに過ごしてきた。自然豊かな野山に、そびえ立つ無数の塔。決して高いとは言えないその屋根のふもとには、清潔な布が風になびいている。その光景を見るのが、たまらないほどに好きだった。まぶたに焼き付くほどに鮮明で自然豊かな景色は、そう安々と忘れさせてはくれない。また再びその地を見るまでは死ぬことはできないと、己を奮い立たせてくれる。そんな志の主軸にもなる素晴らしい場所が、私の故郷であった。



 そして官介と出会ったのは、私が雪月花という大名を頂いてから少しあとのことである。相棒の薬箱を作ってくださった棟梁からの依頼を受けて、私は花街を訪れていた。花街とは色街とも呼ばれる、いわば花柳である。この世一番の繁華街、夢のような場所である。それがすっかり廃れてしまったと伝え聞いてはいたが、百聞は一見にしかず。見たこともない場所を手に取るように語るわけにもいかない。



 しかし、私が見た花街の状況は言葉にすることも憚られるほどに、劣悪だったのである。過去の栄光はどこへやら。置屋としての質が下がるほどに、遊女や妓女達の扱いも荒んでいく。棟梁からの文には、その場所に住まう胡蝶という遊女を訪ねてほしいと記されていた。夢なのか現実なのか、それさえも分からなくなるほどに美しい、郭の中でも位の高い女性のことであった。過去に彼に連れられて、一度だけ胡蝶の顔を見たことがある。瞬きをする間も躊躇うほどに、彼女の姿だけを見ていたいと思う心が、自身の心の中にあることをその時初めて知った。誇り高き誉の故郷が、一瞬にして霞んでしまったのだ。



 胡蝶は小柄で、実際の年よりも遥かに若く見える愛くるしい容姿の少女だと誰もが口にする。どんな話でも初めて聞く話のように、何でも心躍るように返事をする、退屈さを感じさせない不思議な遊女であった。唄をよむのも琴を弾くのも、何をさせても一番。けれど高嶺の花と言うわけでもなく、側にいるとなぜだか昔から知っているような懐かしさがある。



__その木箱には何が入ってありんすか?ここのとこ咳が酷いんでありんす。せんせい、何かいい薬は……。



 真っ赤な牡丹の、華やかな着物を着ているというのに。



 真珠のような星の輝きを見せる瞳が、じっと私を見ているような感覚が花街の土を踏むだけで、ありありと見えてくる。もうここに胡蝶はいないというのに、今でも桜貝のような爪のある手が、私の帰りを手招くように小窓から揺れている。私が薬師を忘れるのは、あとにも先にも胡蝶一人のことに思いを馳せるときであった。



 ひと呼吸おいて、袂から棟梁からの文を再び取る。懐かしい胡蝶の名の刻まれた依頼には、彼女の息子を引き取ってほしいと記されている。妻も娶っていない私には、自らの研究した薬学を引き継ぐ弟子もいない。年季をあけることもなく、不治の病にかかり志半ばで亡くなった彼女に忘れ形見があることを知ったとき、是非とも私がと思わずにはいられなかった。心のどこかで部外者の自分が出てきたところでと思う気持ちが、無いわけではなかった。たとえ頼まれたとしても……と、思い悩む気持ちに歯止めは付けられなかった。せいぜい私にできたことは、頼まれごとだからと言い訳をすることくらいなもので。



 胡蝶は生前、何故か私に息子のことを託すよう棟梁に言付けをしてた。胡蝶が堕胎に失敗してから体を崩し始めたということは、内々に知らされてはいた。けれど色街は薬師が近寄りがたい場所である。私のような流浪の旅薬師が珍しいのであって、滅多に寄り付かないことは知っていた。もう何年と里には帰っていないが、子供を引き取ったことを機に、帰郷することを旨している。



 数多ある茶屋や置屋の中から、胡蝶の子を見つけるのは至難の業であった。花柳の中でも、胡蝶がいた場所は特に栄えていた繁華街だったのだ。いくら廃れていようとも星の数ほど店が立ち並んでいる。探し歩く道中、この行為に意味はあるのかと自分にと頂いたことがある。仕事ではなく、奉仕なのではないかと。もちろん棟梁は報酬を出すと語っていたが、私は彼の言う賃金がとても対価とは思えなかったのだ。個人的な認識としては、あくまでも添え物。それが変わることは、彼に会ったあとも変わることはなかった。



 私が仮に官介と名付けた少年には、申し訳ないことをしたと今も思っていることがある。ようやく見つけた彼に対し、胡蝶の面影を追い求めてしまっていたことだ。彼は彼としての一個人がある。そこに母とはいえど、別の人間の姿を重ねようとしているのだ。当然別の人間、齟齬が生じる。前述したとおり、私は彼に自分の足で立つことのできる人間になってもらいたいと願っている。いや、願わずにはいられないのだ。

 たとえるならば、胡蝶の花のような顔で四季を微笑み堪能することと同じように、官介にはこの世を美しいと感じる心があると私は信じている。



 置屋の隅で人形のように座っていた彼を見たとき、酷く心がいたんだ。名の通った女郎の息子であるということだけである、胡蝶に似た均整の取れた彼の顔を見れば、誰もが彼女を思い出すだろう。名前しか知らない母親のことを、自分の顔で思い出されることはひどく不気味で恐ろしいことであり、少なくとも母のぬくもりを知らぬ少年に酷なことであることは裕に推察できた。自分を指し示す言葉は母の用いていた名前。それはある種、記号のようなものであった。自分とは何なのか――そもそも自分とは存在するものなのか――と常日頃から思い悩むほどに、彼は繊細な子供だったのだ。



「私の名は雪月花。雪に月、そして花と書いて、人は私のことをそう呼ぶ。美しい四季の光景を指し示す言葉が、私の名前。そして、まことに急なことではあるが、私はあなたに官介と名を付けて息子として引取ろうと思っている」



 彼が私の手を取るか取らないか、それもまた彼の意志である。もし彼が私の手をとってくれるのであれば、私は彼に、私のできるすべてを授けようと思っている。私が行うことはあくまで依頼、つまりは仕事である。けれど私はそれを私への対価、施しのようにも考えられるのだ。きっと、彼に接することは私に与えられた労働であり、報酬である。

 桜貝のような爪をもつ手が、私の手を小さく握り返した。


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