マンションの女
友人たちとの飲み会は案の定盛り上がり、終わったのは日をまたいでから随分経った後だった。
だから、その日僕が自宅のあるマンションの前に辿り着いたのは、夜中の3時は過ぎていたように思う。
深夜遅くだけあって、周囲は無人で静まり返っている。
6階建てのマンションの他に周辺には大きい建物はなく、他の家々はいずれも灯を落としていた。
そのマンションだけが、各階の部屋の前の通路の蛍光灯がくすんだような明かりを灯し、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
僕の部屋は4階にあった。
エレベーターの前で呼び出しボタンを押し、来るのを待つ。
このマンションのエレベーターは、外と内いずれの扉も網ガラスの窓が付いたような作りになっており、扉が開く前に外からエレベーター内部の様子が、あるいは逆にエレベーターの中から外の様子が分かるようになっていた。
だから、その時もエレベーターが来た時点で、僕には扉が開く前に中の様子が分かったのだった。
女が1人で乗っていた。
見た瞬間に、僕は、やばい、と思った。
雰囲気からして、異常な感じがしたのだ。
黄色いワンピースを着た女。
そのワンピースはあちこちに妙な赤黒いシミがこびりついていた。
肌は病的なまでに白く、露わになっている両の腕は枯れ木のように細い。
長い髪に隠されて顔は見えない。
そんな女が、乗っていたのだ。
僕はその女を目にした時点で、エレベーターの前から飛びのいていた。
本能的な動作だった。
まずい存在であることが本能的に理解できていた。
まともなモノではない。
多分、人間ではないモノだということが、何となくわかっていた。
チン、という音がして扉が開く。
けれども、女はいつまで経っても降りてこなかった。
エレベーターの中にいる。
まるで僕が乗るのを待っているかのように、扉を開けたまま、ずっとその場で待っている――。
自分の部屋のある階まで、彼女と狭い密室に2人きりでご一緒するという選択肢は、まずありえない。
けれども、この場で睨み合うように、ずっとこのままということも避けたかった。
幸いにも飛びのいた先のすぐ右手、エレベーターの脇には階段があった。
僕は階段を駆け上がって、現状からの脱出と自室への退避を行おうと考えたのだった。
冷静ではなかったのだろう。
予期せぬ存在と対峙して、動揺していたのだ。
走って逃げるなり何なりして、その場から離れるべきだった。
少なくとも、上に逃げるという、逃げ道の無くなる選択肢は適切でなかった。
階段を駆け上り始めてから、そんな風に思った。
今更ではあるが。
◆
2階に辿り着く。
エレベーターが動いている様子はない。
1階に留まっているようだ。
少しほっとする。
不幸にもあんな存在と遭遇してしまったが、幸いにも僕を追ってくるほどの執着心はなかったらしい。
女がエレベーターで追って来ていたらどうしようかと思っていたが、心配は無用だったようだ。
そんな安心感は脆くも打ち砕かれることになる。
何気なく向けた視線の先。
階段の踊り場から延びる通路。
2階の各部屋への入り口が連なるその通路の奥の突き当たり。
そこに居たモノを見た途端に。
女が居た。
黄色いワンピースの女。
さっきの女が、通路の奥の突き当たりに立っていたのだ。
僕は固まった。
息が詰まるのを感じる。
エレベーターは動いていないのに、一体何時の間に……。
完全に、人間に出来うる移動ではなかった。
ぞわぞわと恐怖が背筋を這い上がるのを感じる。
女は、僕を追いかけている。
通路の奥の女は直立したまま、ぴくりとも動かない。
相変わらず顔は長い髪に覆われていて見えないが、僕をじっと見つめているのが何となく理解できていた。
女と僕との間には距離がある。
距離があるが、既に人間離れした移動を見せてきた相手に、そんなものがどれほどの意味を持つかは疑問だった。
どうする……?
どうすればいい?
冷静に考えられる状態ではなかった。
一刻も早く視界からこの女を排除したいという思いも強かった。
結局僕は、最初と同じ選択肢――つまり、階段を駆け上がっての上階への逃走を選択したのだった。
◆
3階。
階段を全力で駆け上がったことで、息を切らしながら辿り着く。
辿り着いて直ぐに踊り場から通路の奥に視線を向けて――僕は絶望の呻き声を上げる。
女が居た。
黄色いワンピースの女が、2階と同じように通路の奥の突き当たりに立っていたのだ。
相変わらず人間には出来得ない移動。
2階の時の焼き直しである。
困った。
勘弁してもらいたい。
僕は泣きそうだった。
女は直立したままぴくりとも動かない。
これも2階と一緒だった。
これは、まず、あれだろう。
多分どの階に行っても、同じように女がいるのだろう。
そんな気がした。
どうすればいいものか……?
僕は女と見つめあったまま(2階の時と同様に女の顔は髪で見えないが)今の状況について考えを巡らす。
次の階は4階、僕の部屋がある階である。
僕の部屋は4階の中でも最も階段寄り、エレベーターを挟んで直ぐのところに位置していた。
女が現れるであろう通路の奥の突き当たりからは、最も離れた位置にある部屋である。
階段を駆け上がって直ぐ、即座に鍵を開けて、部屋に逃げ込むというのはどうだろう?
さっきから女と見つめあっているが、この突き当たりに出現した女は全く動いていない。
少なくとも、僕が見ている前ではこの女は出現位置から動くことはなかった。
ひょっとすると、僕が見ている間は動くことが出来ないのではないだろうか?
人間離れした移動も、決まって女が視界に居ないときだけである。
であれば。
4階に上がったら、突き当たりの女から目を離さない。
そして、そのまま動かない隙に、手探りで鍵を開けて、部屋に逃げ込んで施錠してしまうのだ。
幸い、僕の部屋は女が現れるであろう位置から、最も離れている部屋であるし。
鍵は用意しておいて、階段を駆け上がって直ぐ、女から視線は逸らさないままに、部屋の扉に飛びついて、一気に開けて逃げ込む――。
僕は決意を固めた。
このままこの女に付き合ってなどいたくはない。
力技ではあるが――。
やれないことでは無いはずだ。
相変わらず女は動かない。
僕はそこから視線を逸らすと、一気に階段を駆け上り始めた。
◆
4階に上がって、僕は困惑した。
女が居ないのである。
突き当たりの出現位置に。
慌てて周囲を見回す。
静まり返る通路、階段。
何処にも女の姿はない。
突き当たりに目を向けたまま、自分の部屋の前まで移動する。
依然、女の姿は欠片もなかった。
諦めたのだろうか。
何処か釈然としないながらも、居なくなったならそれに越したことはない、と安堵する。
そのまま部屋の鍵を開けようとした。
チン、と。
そんな時に、その音は鳴り響いた。
エレベーターの扉が開く音。
つまりは、エレベーターが動いていた。
僕は慌てて振り返る。
僕の部屋のすぐ隣。
エレベーターの扉が開いていた。
それは、1階に留まっていたはずのエレベーターが、4階に来たという事だった。
つまりは。
居るのか。
乗ってきているのか。
あの女。
僕の視線はエレベーターの出入り口から離せなくなった。
横からなのでエレベーターの中の様子は見えない。
だから、この位置からでは女が乗っているのかは分からなかった。
扉は開いたものの、開いたまま、一向に誰かが下りてくる様子はない。
扉が開いたまま、ずっとその場で待っている――。
1階の焼き直しだった。
ふと、悪寒がした。
何かを見落としているような、猛烈に嫌な予感がしたのだ。
僕はその予感に従うように、咄嗟に後ろを――つまり、通路の突き当たり側を振り返った。
女が居た。
黄色いワンピースの女、あの女が立っていた。
ただし、立っていたのは、2階や3階の時と同様の、通路の奥の突き当たりではなかった。
それよりもずっと近く、それこそ僕の部屋から2部屋分くらいしか離れていないほどの、ずっと近くに女は立っていたのだ。
僕は気付いた。
あのエレベーターは、陽動だったのだと。
女は、やはり僕が見ている間は動くことができないのであろう。
ここまでの一連の流れから、それは間違いなさそうである。
そして、出現する位置もそれぞれの階の突き当たりという、決まった場所である。
となると、女はその出現位置から僕の方へ寄ってくるためには、僕がそちらに視線を向けていない必要がある。
だからこそ、エレベーターを動かしたのだ。
僕に見られている時には移動できない女が、そちらに気を取らせることで視線を切るために、陽動としてエレベーターを動かしたのだろう。
エレベーターを僕が見つめている間に、女は背後の出現位置から寄ってきていたのだ。
もし、あのまま気付かずにエレベーターを見つめていたら、女はそのまま僕の背後から……。
危ういところだった。
僕は思わず身震いをする。
だが、女の目論見はこれで外れた。
僕が見ている限り、女は動くことが出来ないはず。
実際、視線を向けてから、女は一切動くことはなかった。
僕がエレベーターに気を取られているうちに出現位置から今の位置まで近寄って来たのだろうが、そこからは僕が見ているため一歩も動くことが出来ないようだった。
相変わらず長い髪で表情は窺えないが、どこか恨めしそうにしているような気さえする。
僕は少し得意げな気持ちでさえあった。
姑息な陽動作戦を考え付いたようだが、僕はそれに気づいたのだ。
この女の作戦の、上を行ったわけだ。
僕が見ている以上、最早この女はこれからどうすることもできないだろう。
僕は女に視線を向けたまま、悠々と自室に退避すればいい。
そして朝までゆっくりと休もう。
流石にこのような存在は、朝になれば居なくなっているだろう。
マンション周辺は、日中は人通りが多い方であるし。
僕は女に視線を向けたまま、ゆっくりと部屋の鍵を鍵穴に差し込む。
がちゃり。
鍵が開く。
女に視線を向けたまま、部屋の扉を開ける。
女は、その場から動けない。
残念だったな。
そう言い捨てて、僕は自室に入って扉を閉め、がちゃりと鍵を掛けたのだった。
◆
中は真っ暗だった。
出かける前に電気を全て切っていたので当然であるが。
その闇の中で、僕はようやく一息吐いたところだった。
酷い目にあった。
そう思いながら、手探りで電気のスイッチを探す。
スイッチが手に触れる。
それを押そうとしたとき、ふと、頭を過ぎったことがあった。
真っ暗闇。
つまりは、女から完全に視線が切れている、状況。
今まで何の根拠もなく、部屋に逃げ込めば大丈夫と考えていたが……。
そもそもあのような存在に扉や壁なんて意味があるのだろうか?
見ている間は動けない。
それぞれの階層に最初に出現する位置は決まっている。
確認できていたことはそれだけである。
視線が切れている間に、どのように移動しているかはわからないのだ。
あのような超常の存在が移動するとき、はたして扉や壁などの物理的な仕切りの影響を受けるのか?
すり抜けたりはしないのだろうか?
僕は前提からして間違っていたのではないだろうか?
電気が点いた時、あの女が目の前に立っていたりするんじゃないだろうか?
電気が点く。
僕が居るのは玄関の扉の前。
そこから部屋まで細い廊下が続く。
いつもと何も変わらない光景。
僕以外に誰も居ない。
玄関の扉に寄りかかる。
ふっ、と息が漏れる。
考えすぎか。
安堵が押し寄せ、脱力する。
やっと全てが終わったと実感した。
このままこの場に座り込みたいぐらいだったが、そうも言っていられない。
部屋に向かおう。
そしてゆっくり休もう。
歩き出そうとして。
体が前に進まないことに気が付く。
目線を下に向ける。
僕の胴体に絡みつく、白い腕。
病的なまでに白い、枯れ木のように細い腕。
それは玄関の扉をすり抜けて、僕の背後から突き出ていた。
扉のすぐ外には居るのだろう。
物理的な仕切りの影響を受けない、あの女が。
見ている間は動けない。
それぞれの階層で最初に出現する位置は決まっている。
恐らくはそれらだけが決まり事だった、逆を言えばそれ以外は何でもありだったのかも知れない、超常の存在が。