不快な疾走
アリスがいつ嘘がバレないかヒヤヒヤしながら過ごした馬車の旅路は三日目を迎え、険しい山岳地帯、トンカ山脈の手前、タリナ村を出発した。
ここからは馬車が通るには少し不安な細い道が多く──。
「チェシャにーちゃん! あれ、すごい!」
アルフが指差すのは渓谷。加えて大きなな滝。
馬車は滝から落ちて谷底を流れる川の上の細い崖道を通っている。
第五試練の大河と巨大な滝を見たチェシャとアリスにとっては見劣りするものではあったが、自然界にあるものの中ではかなり大きな部類で、童心が騒ぐのも無理はない。
「あれ、セントラルの人達が飲んでる水だよ」
「え? セントラルはとっても遠いよー?」
ここまでの道で川などは見かけていない。
渓谷にある滝の水は流れ落ちて地下を進み、降り続けてセントラルの地下水になっている。
ハルクの家の井戸もそれを汲み上げているのだ。
それらをなるべく子供にも分かりやすいように簡単な言葉で説明するチェシャ。
「チェシャさんはあの歳で博識なのですね」
チェシャの中の童心に惹かれたのか、ここまででも仲良く話しているチェシャとアルフ。
ユリアはそれを微笑ましそうに眺めている。
「チ──、兄は本が好きなんです」
危なっかしい振る舞いのアリスはそう言った。
もうすでに、皆には何か事情があるとはバレているのだが、それには誰も触れていない。
二人とも悪人には見えないというのもあったが、ユリアと御者であるベリバンとルージュはロクショウの出自だとチェシャが言っているからこそ、危険な人では無いと判断していた。
マークスはさりげなくユリアに口止めされている。
一定以上知っている人はロクショウを下手な言い訳には使わない。アリスがロクショウの出自では無い事はすぐに分かる。慣習で村を出るのは男性だけだ。
そして、その男性が女性を連れて帰ることにも意味はある。
故に、チェシャ達と馬車に乗り合わせている皆は何も言わないのだ。むしろ、アリスが誤魔化そうとしているのは微笑ましくもあった。
「なるほど、やはり腕利きの探索者さんは見かけによらない、という事ですね」
滝の脇にある洞窟──イースラルに向かうために掘られているものの一つ──に向かって馬車は進んでいる。
「あ、聞いてみたかったのですが、第三試練というのはどのくらい寒いのですか?」
「えーっと、どのくらい……。説明するのが難しいです」
「身近な例え、もしくはどんな服を着ていました?」
「服……、毛皮のコートとかのあったかいやつをもう、全身に。ほんとに寒かったです」
滝の水に冷やされた空気と共に思い返した第三試練の記憶がアリスを身震いさせた。
大迷宮に至ってはさらに面倒で、あそこは思い出すのも億劫な寒暖差だった。
言葉の節々に感じられる心の底からの感情にユリアも少し気圧されながら頷く。
「何か欲しいものとかありました?」
「なるべく動くのを邪魔しないけど、あったかいもの?」
流石商人の娘というべきか、さらりと情報を求める。
対して、アリスの返答はあまり具体性はなかったが、閃くものはあったようで、ユリアはメモを取る。
「つまり、なるべく軽い防寒具や携帯できる補助暖房という事ですね」
「そう!」
自分の言いたいことをうまく言葉に変換してくれたので、アリスは調子良く返事した。
「ルージュさん、そろそろ呼びかけお願いできる?」
馬の手綱を握っているベリバンがルージュに顔を向けずに頼む。
「あいよー。……みんなっ、そろそろスピード出すからしっかり掴まっときなよ!」
馬車は滝の横を通っている。
水の轟音にも負けないルージュの声は馬車内によく響いた。
「どうして速度を?」
「アタシは聞かない方がいいと思うね。知らぬが仏、出来るなら目を瞑ったほうがいいくらいさ」
マークスの問いに対するルージュの答え。
ユリア以外の乗客は首を傾げた。
「アルフ、おいで」
「おかあさん、何があるの?」
「良いから」
アルフは特に言い返すこともなく、導かれるままにユリアの膝上に座った。
チェシャもアリスの横の木箱に腰かける。
「ねぇ、何が起きるの?」
「多分……。うん。目、閉じた方が良いんじゃない?」
アリスは小声でチェシャに尋ねたが、帰ってきたのさ煮え切らない答え。そこまで言われると怖いもの見たさもあり、アリスは暗くてよく見えない洞窟に目を向けてしまう。
馬車が洞窟に入り、滝の音も次第に遠ざかっていく。
その代わりと言わんばかりに聞こえてきたのは何かがカサカサと蠢く音。
「ひぇっ」
アリスはその気持ちの悪い音に思わずチェシャの腕にしがみつく。
「おかあさん……? 何かいるの?」
ユリアの手によって視界を隠されたアルフは聞こえてきた音に疑問を上げる。
パシンッ! と鞭が唸った。
鞭打たれた馬は駆け出し、馬車が揺れる。
蠢く音は勢いを増す一方、そして今度は何かがひしゃげて潰れる音も混じりだした。
アリスは直感的にその音の原因を悟ってしまった。
第四試練で似たような音──チェシャの斧槍に潰されている蜘蛛から鳴った──。
そこで彼女は反射的に思考を止めた。
視界は依然として暗いまま。
馬車は一本道らしい洞窟を駆け抜ける。
「ねぇ!? これどのくらい続くの!?」
不快感に叫ぶアリス。
下手に状況を理解してしまい、湧き上がってくる不快感を留めることが出来なくなっていた。
「分からないけど、行きに通った洞窟は短くは無かったと思う。こんな場所は知らなかったけどさ」
「どうしてそんな平気なのっ!?」
「人間が誰も来てない場所なら不思議じゃないからさ」
何かが潰れる音は鳴り止まない。
アリスは不快感に顔を歪め、せめてもの抵抗と耳を塞ぐ。右隣にいるチェシャにしがみつく為、塞ぐことができるのは左耳のみ。
耳を塞げば他の感覚が鋭敏になる。
既に視界は生きていない。夜目が効くのか、馬車の進行に支障は無いのはルージュの言っていたノウハウ故か。
ともかく、問題は鋭敏に感じる馬車の振動。
単に荒い道を通るのとは違う、変に滑らかな──。
「──っ!」
思わず想像してしまった馬車外の光景をアリスは頭を振って、払い除ける。
「……」
チェシャとしてはプラスの感情は抱かないが、マイナスでもない。アリスがここまで怖がる理由は分からなかった。彼の中にある一般常識はロクショウで培ったものが多くを占める。
──村のみんななら何も思わないよな……。
けれど、本の中で出てくるヒロインならば、納得はつけられる。勝手に頷き、チェシャは周りを見た。
チェシャのように平然としてるのは御者の二人のみで、他は不快そうに顔を歪めている。
「……」
一般的におかしいのは自分であることにチェシャは肩を落とした。その後、隣で体を強張らせたアリスを見て、何か出来ないかと考える。
少し考えた末に出た結論は諦め。下手なことをしてベリバン達の妨げになっては責任も取れない。
仕方ないと息を吐き、終わりが分かればマシになるかと彼は指を舐めて洞窟の終わりから吹く風を探すことに徹するのだった。