収穫祭・3
「おなか、いっぱい……」
チェシャは家のソファでごろりと横になり、膨れ上がった腹をさすっていた。非常に満足そうな顔である。
アリスはまだ帰ってきていない。
時刻としては日がようやく落ち切るぐらい。
彼は最後に食べた白身魚のムニエルの味を反芻しながら、人の波に揉まれた体をソファに預ける。
ご飯を作る必要もない。
お風呂のお湯は沸かしてある。
魔力器具が扱えなかったチェシャは魔力でお湯を溜める装置が使えず、アリスに投げていた。
しかし、第四試練を攻略し終えてからは魔力の扱いが何となくできるようになったおかげで風呂が沸かせるようになったのだ。
でも、今は入るつもりはない。
流石に汗をかいていたので、それだけ流してはいたが、チェシャは動きたくないと呻く体を休めたかった。
付け加えるなら、風呂は基本的にアリスが先に入る。
それもまたアリスが沸かしていたからであって、今となっては関係ないが、ルーティーンのなったそれを崩すのも、なんとなく、嫌だった。
「ううーん……」
暇になったチェシャは手を伸ばしてソファ横の低いテーブル。ソファに座っている高さだと使いやすいそれに乗っている本を適当に引っ掴んだ。
手に収まった本はアリスの物。
読書はチェシャの趣味ではあったが、本は高い。
故に、共通資産さながらに二人は本を貸しあっている。部屋から借りるのは面倒だからと彼らの本はそれぞれの部屋ではなく、空いている部屋の本棚に全てしまうほど。
本棚があるのは二階。
リビングは一階。
リビングで読んだ本を元に返すのが面倒になって、ソファ横のテーブルには本が常に何冊か積まれている。そのせいで一階にも本棚を置こうと考えていた。
「これは、なんだっけ」
表紙がどこかでみた事があったので、おそらく一度読んだ物。違うものにしようと、積まれている本に目を向けず、手だけを伸ばして手に取り、代わりに今持っていた本を積む。
「これも見たやつ、か」
基本的にチェシャが趣味などの娯楽に励むことが出来るのは夕方以降。昼以降は迷宮に潜るし、朝は大体身体を温めるために素振りやランニングをするからだ。
その夕方が暇なのも早めに探索を切り上げた時ぐらい。
暇らしい暇はないし、あったとしても話し相手がいるのだ。
家族ではない男女が一つ屋根の下。
稀な状況であるそれに、チェシャは慣れてしまっていた。チェシャからすれば、アリスは妹のような存在でもあったからだ。
「早く帰ってこないかなぁ」
チェシャの脳内にいるアリスは今日巡った甘味処を嬉々として話す姿。
さらに言えば、目はキラキラと輝いているに違いない。
そんなことを考えているうちにチェシャは柔らかなソファに横たわり、睡魔に襲われた。
ガラララ。
木製の横開きのドアが開く音。
浅い眠りに落ちていたチェシャはその音で目を覚ます。すぐに微睡みから目を覚まし、身体を起こした。
「おかえ──」
ドアが開き、チェシャの先手を打つように出た挨拶は途中で消え去った。
アリスの顔は泣き腫らしていて、祭りの夜とは思えないほどに意気消沈している。
「……」
がさりと抱えている紙袋を鳴らすと、スタスタと二階に行ってしまった。
どう声をかければいいか分からず、呆然とするチェシャ。
「え、と。お風呂、沸いてるよっ?」
口から出たのはそれだけだった。しかも疑問系。
「……ん」
アリスは半身を振り返り、こくりと頷き階段を登っていった。
「……えーと?」
困惑。動揺。
どうすれば。彼の頭の中でぐるぐると回る。
そっとしておくべきか。声をかけるべきか。
今が夜でなければ誰かに聞きに行きたかったが、出来やしないことを考えても仕方がないとかぶりを振る。
「向こうだって、やったから、いいよね」
言い聞かせるように呟き、チェシャは二階へと上がる。取った行動は声をかける。
踏み入りすぎかもしれない。そんな考えは当然チェシャにもあった。けれど、彼女だってこっちに沢山踏み入っているのだ。全幅の信頼を預けていると言っても過言ではなかった。文字通り命を預ける中、勝手に意気消沈されてはこちらが困る。だから──。
コンコン。
アリスの部屋の扉をノックする。
返事はない。
「元気、なさそうだけど、何かあった?」
「……何も、ないよ」
「嘘でしょ」
「うん、うそ」
「じゃあ、何があったの」
「いろいろ」
「そのいろいろって?」
「言う必要、ないもん」
「明後日にはまた迷宮に行くんだよ。そんな調子じゃ困る……みんなが」
「……」
淡々とした会話が止まる。
暫しの沈黙。チェシャは何も言わない。彼女はきっと考えているのだから。
「……入って」
返答は入室の許可。
「ん」
ドアを開けてアリスの部屋に入る。
以前にあの“紅”と会ったときに入ったアリスの部屋とは違い、端的に言えば、女の子の部屋になっていた。
ぬいぐるみを始め、使われた様子は少なそうだが、化粧台もある。家具も全体的に花柄など可愛らしい柄で統一されていた。
アリスはベットでクッションを抱えて横になっていた。
「椅子、借りるよ」
チェシャは机の前にあった椅子を引っ張ってベッドの近くまで持ってきて腰掛ける。
アリスも身体を起こし、クッションを抱えたまま、ベットに膝を三角にして座った。
「で、どうしたの?」
チェシャが問いかけた。
「……わかんない」
「え?」
「でも、チェシャのせい」
「お、俺!?」
チェシャには予想外の事にたじろぎ、困惑する。
今日一日、彼自身は一切アリスと関わる事が無かったのだ。そう思うのも当たり前だった。
「でも、チェシャは悪くないの」
「え?」
もはや意味が分からない。
アリスの表情はチェシャからは見えない。俯き、クッションが盾になるせいで、彼が分かるのは彼女の苦しそうな声色のみ。
「だから──」
「だから?」
「明日」
「あした?」
「分からせる」
初めてアリスは顔を上げた。
顔色は悪かったが、晴々とした、そしてどこか決意を秘めた──そんな表情だった。
その爛々と光る強い輝きの瞳は初めてチェシャがそれを目にした時から彼を惹きつけているものだった。
「ん。明日、か」
彼女の顔をみて、安堵したチェシャは立ち上がり、椅子を元に戻した。
「りょーかい。楽しみにしとくよ。……お風呂早めに入ってゆっくり休みなよ?」
「分かってる」
「ならよし」
チェシャはアリスの部屋を出た。
*
翌日。
チェシャは先に準備を終えて、朝刊を読んでいた。
アリスはまだ一階に降りてきていない。
二日目の始まりを示すオーケストラはまだ動いていないので焦る必要もないが、いつもならとっくに起きている時間。
「寝れなかったのかなぁ」
チェシャはポツリと呟く。
昨日の彼女の様子はどう見ても普通ではなかった。
心配になった彼がソワソワし出した頃、誰かが降りる音がした。
ハッと、チェシャはそちらを向いて、硬直した。
「おはよっ」
「お……はよう?」
チェシャの口をついて出た返しは詰まった言葉。
「どしたの?」
アリスは小首を傾げた。彼女の髪が両肩で揺れる。
「その、……格好は?」
アリスの格好は淡い青色のブラウスに、ブラウンの長いスカート。スカートはフリルにレースがあしらわれている。
活発に揺れるいつものポニーテールは紐解かれ、ロングヘアとおさげになって彼女の肩に垂れ下がっていた。
彼女の服の種類はあまり多い訳ではない。
勿論女性故にチェシャの数倍はあるが、少なくとも、ブラウスの袖がシースルーで肩部分の肌が見えるような服装は持っていなかった。
チェシャの硬直は突然大人っぽくなったアリスに対するもの。化粧も施され、いつもより白く見える肌、薄紅の唇もその一因だった。
「ないしょっ」
淡い赤色の唇に人差し指を当て、微笑んだ。
チェシャは咄嗟に顔を逸らした。
「どうして顔を逸らすの?」
アリスはニヤリと笑いながら尋ねた。
非常に悪そうで、蠱惑的な笑み。彼女も分かっていて訪ねていた。
「気のせいじゃない?」
ぷいとそっぽを向いたまま言った言葉に説得力など無かった。
「こっち見ながら言ってよね」
チェシャが渋々とアリスと目線を合わせて、いつもとは違う艶やかな笑みにまた顔を歪ませた。
見惚れるのを通り越して、何かを崩してしまいそうなその笑みを見続けることにはある種の辛さがあった。
そんなチェシャの様子をみて満足したアリスは椅子に腰掛けるチェシャの手を引き、彼を立ち上がらせる。
「ほら、行くよ?」
「行くって? まだ──」
──ダンッ、ダンッ、ダッダッダダンッ!
楽器の音。
「ね?」
「……」
チェシャはただただ困惑するしかなかった。
同時に、アリスからなんとなく目を離せなかった。
「その服。どうしたの?」
口からついて出たのは疑問。
「ないしょだって」
チェシャの腕を引くアリスは顔を振り向き、また笑った。彼は怪訝な顔をするのみ。
自身の頰が熱くなっていることに気付かぬまま。