震える視界と手
「如何でしょうか」
沈黙を破ったのは村長の使者であるコルだった。
「……この最終プログラムの中身は分かるか?」
「いえ、俺には何も。しかし、大陸もろともと言うのは冗談ではないとは聞いています。長曰く、厄災を誕生させるよりかはマシだとも」
スケールが異常だ。
街がいくつか。その程度ならまだ。まだ、理解できなくはないだろう。街一つ、都市一つなら、試練の番人や神の悪意の異常個体なら場合によっては為し得られる。
第二試練で突如現れたあの“紅”ならば城一つも容易だろう。国となれば多勢に無勢だ。
それを遥かに超えた大陸一つ。つまるところ、大陸中の戦略があっても勝てないと同義なのだ。
「これは私達が手に負える話なのか?」
ボイドは苦笑するしか出来ない。
クオリアも同様だった。
アリスとソリッドはまだこの話を咀嚼しきれずに黙っている。
「正直、俺も一党の探索者達だけでは無理だと思っています。これはもっと大きな所でするべき話です」
沈黙。
スケールの大きさを知らなかったからこそ、ここまで一種の無邪気さで突き進んできた旅路に現れた岐路。
そもそも、岐路ですらないのかもしれない。道は結局一本道。引き返すか進むかの二択。
しかし、踵を返し、来た道を戻ることも十分にあり得る選択しとして現れてしまった。
悩む彼らを後押しするように時を渡った少女が皮肉気に笑って口を開く。
「あは……だから……だから、言ったでしょう? この時代の人を巻き込む訳にはいかないって」
「アリス君、君はこれを知っていたのか?」
「全部じゃないわ。でも厄災の強さはスカーサハから聞いてたの」
アリスが伝えられていたのは厄災を解き放ってしまった時の結末。
”アリス”として目覚めた時のあの目を見た一同はそこであの目に込められた重圧の重さを知った。
そして、同時に手を貸した件の重さを実感した。否、その重さを人間一人が感じられるほど小さくなどない。けれど、感じられないというスケールの大きさが重さの証明だ。
話を知らないエマもだんだんと重く、重く広がる沈黙の雰囲気に押し黙る。
沈黙が場を支配し尽くし、この話を持ち込んだコルもまた申し訳なさそうに目を伏せ、エマがオロオロし始めた。
アリスについていくと言ったあの時の判断は正しかったのだろうかと、無責任ではないかと。そして、達成出来ないかもしれないと各々が考え込む。
アリスはその先にある結論を予見し、息を深く吐いて背もたれに身を預けた。
──彼は何というだろう?
隣の部屋なので話が聞こえているかどうかは定かでは無いが、いきなり鎮まったので不審に思っている筈だ。
アリスが助けを求めるように視線を隣の部屋のドアに向けた。
──ガチャリ。
ドアノブが回り、アリスの視線に応えるように沈黙の空間にチェシャが入って来た。
それはまるでバー・アリエルに来る時のような気楽な歩みで。
「とりあえず、その村長さんを倒しに行けばいいんでしょ?」
顎に軽く触れ、当たり前のようにそう言った。
「……話を聞いていたのか?」
「聞いてたよ」
あまりにも陽気なチェシャにボイドの声には怒気が含まれていた。
楽観的な声にクオリアとソリッドも眉を寄せる。
「でもさ、それくらい強い方が本の中の世界みたいで面白いよね」
アリスがピクリと体を揺らした。
「世界滅亡の危機に立ち向かう勇者、みたいな? ……かっこいいじゃん? ……燃えるじゃん?」
段々と声の勢いが増していく。どこか楽し気な彼の声は止まらない。
「それにさー、あの時調子のいいこと言って、やっぱり怖いから辞める──なんてかっこ悪いでしょ?」
「ふざけているのか?」
ボイドが少し苛立ったように問うた。
同時に、それ以上の疑問を込めて。
「ううん、真面目」
チェシャは首を横に振り、彼らの反応を少し観察し、暗い雰囲気を感じ取った。
彼は思案すると口を開く。
「まあ、どっちにしてもさ。来ないなら俺とアリスで行くだけだから、気にしなくて良いよ?」
ニッコリと満面の笑顔で、楽しそうに言い切った……彼は来た道を振り返ることなどしなかった。
その笑みはとても、挑発的だった。
彼の笑みにアリスは思わずへらりと顔を緩めた。
──これだから子供は……腹立たしい。
彼の言葉を聞いたボイドは顔を俯け、ギュッと、拳を握る。
ドンッ!
ボイドが机に拳を思い切り叩きつけ、
バシンッ!!
自分の頬を思い切り叩いた。
突然の行動に皆が目を白黒させる。それに構わずボイドは堪えきれないように笑い出す。
「くくっ、あー……完敗だ。……全く、どうして君達はそんなにバカなんだ」
君達。その言葉にチェシャは疑問符を浮かべたが、無視して切り返す。
「バカと天才は紙一重ってやつじゃない?」
「石橋を叩こうとは思わないのかい?」
「虎穴に入らなきゃ虎子なんて得られないからね」
「虎なんて矮小なものじゃないんだぞ?」
ボイドは大きく腕を広げた。バサッと白衣が翻り、いつもの彼よりも大きく見える。
「獅子身中じゃなくて、厄災身中の虫かな。コソコソすればバレないかもよ?」
「大馬鹿だな」
「褒め言葉だね」
打てば響く応酬。
速球のキャッチボールの内にとっくに沈黙など消え去っていた。
ボイドは肩を竦めるとコルの方に体を向けた。
「……コルさん、だったかな? 第四試練の大迷宮の案内を五人分頼めるかい?」
コルがハッと顔を上げる。
「ちょっとぉ? まだ行くなんて言ってないわよー?」
「そうだそうだー!」
そう文句を垂れるソリッドとクオリアの顔は口にしている言葉とは真逆だった。
「ッ……」
アリスが顔をうつむけて腕で顔を拭った。そうでもしなければ、彼女の感情が嬉しさや申し訳なさを含んだ多種多様のものではち切れてしまいそうだったから。
「ん」
チェシャが横からハンカチを差し出し、それを受け取って顔を再び拭う。
涙で埋まった視界で、チェシャの腕が震えていた。
「分かりました! 一時間後に伺いますので、準備をお願いしますっ!」
コルは深く一礼し、早足でエマの家を出て行った。
「さぁ! さっさと準備を始めてくれ。……時間はないぞ」
その言葉を皮切りに各々が自らの準備を始めたのだった。
*
「チェシャー?」
アリスがチェシャを寝かせていた小屋に入る。クオリアの荷物はすでに運ばれている。
チェシャは一番最後に起きたので、あまり荷物を整理せずにボイド達に顔を出したせいで準備は何もしていなかった。
「んー?」
アリスが見たのはチェシャを中心に様々な小道具が散りばめられている。
黒騎士の時に使った閃光爆弾や洞窟の探索、崖上りに使った杭を始めとした彼のウエストポーチや取り出しやすい鞄の上層部分に詰められているもの達。
アリスの鞄は弾薬と応急処置用の物しか入っていないので、彼の道具の量で驚きながらも、それらを散らさないように離れた所に丸椅子を置いて座った。
「凄い量だね」
本来の目的を忘れて彼の道具を見回した。
「備あれば憂いなしって言うからね」
散りばめられている小道具は一見煩雑に並んでいるように見えるが、種別ごとに分けられていて、チェシャがそれらを鞄とウエストポーチに仕舞い始めると詰まることなくスルスル入っていった。
あっという間にチェシャの周りの物がなくなり、アリスは小屋に入る前よりも部屋が広く感じた。
「これでよしと。……何かあったの?」
ボイドからは準備が出来たらエマの家に集まるようにと伝えられている。
わざわざチェシャの所に来たということは要件があるはずだと彼は察した。
「改めて、お礼を言いに来たの」
「お礼?」
「うん。やっぱりわたし一人で行かなくちゃって思ってたから」
不意にチェシャが立ち上がり、アリスの座る丸椅子まで近づいてくる。
「?」
何事かとチェシャの顔を見上げると、アリスの目の前には強く溜められたデコピンの構えが。
パチンッ!
快音がした。
「ッたぁぁ~! 何するのっ!?」
「“相棒に怯えるなんてそんな馬鹿のことするわけないでしょう?”……相棒なんて言っておいてよく言えるね?」
アリスが以前言った言葉と一字一句違わぬその言葉。
彼女の言葉はチェシャにとても染み渡っていた。
彼が仲間の前で、絶望への反抗をさも当然のように振る舞う。
そんな虚勢を張る程度には。