ギブアンドテイク
アリスのお悩み相談の翌日。
木製のドアが軋みながら開く音、それと共に鳴るベルの音。
「しゃーせー。あっ、チェシャさん。どうぞどうぞ~」
「うん、ありがと。何の用? シェリーさんが俺を呼ぶなんて」
カウンターからエプロンのまま出てきたシェリーはチェシャを先へと案内した。
それに従ってついていくチェシャは疑問を口にする。
「とりあえず座ってくださいな。お水持ってきますので」
そう言うやシェリーが否や小走りで裏へと去っていった。
「……?」
チェシャはとりあえず言われるがままに席をつきぼんやりと肘をついた。
シェリーはトレイに水の入ったグラスを二つ乗せてチェシャのいる机まで運び、グラスを置いた。
「で、話って?」
チェシャは鞄から取り出した紙をひらひらとさせた。
その紙には”アリスさんの事でお話がありますのできてくれますか?“と簡潔にかかれている。
「はい、昨日アリスさんに会ったのですが、何やら落ち込んでいた様子でしたので何か知っていないかと思いまして」
「……アリスに聞くことじゃないの? それ」
「いつものチェシャさんなら真っ先に答えを言います、是非は関係なく。濁すのは言いたくないことが有るのですよね?」
確信に満ちた顔でそう言ってのけるシェリー。
どう考えても失礼な言い分に、さしものチェシャも顔を険しくする。
「……何が言いたいの?」
「心当たり、あるんですよね?」
「あるけど。それが何さ、突っ込んだことを聞くんだね」
チェシャは心底不機嫌そうにそっぽを向いて言った。
心当たりなど、勿論あった。しかし、それをアリスに言いたくはなかったし、情けないところを見せるのは嫌だった。
「それに関してはすみませんとしか言えません。身近な人につい言ってしまう性分でして」
ペコリと頭を下げてから話を続ける。
彼女が悪い人でないことなど、チェシャもよく知っている。彼とアリスを案じてこの話をしていることもよく分かってはいた。だが、納得はしていない。
「ですけど、アリスさんはチェシャさんを信頼しているわけで。チェシャさんには悩みがあって、アリスさんはそれを手伝いたいわけですよ。ある意味当たり前だと思いません?」
チェシャは眼孔を開いて口を僅かに開けた。彼はその考えに至れていなかった。確かに、彼がアリスの立場なら似たようなことを考えていたことと確信できる。
しっかりとしているようだ、まだまだ、少年に過ぎないチェシャを見て、シェリーは微笑みながら話を続ける。
「まあ誰にだって触れられたくないことってあると思います。でも何も言わずに駄目としか言わないのはダメですよ? 頼れる時には頼るべきです」
「──やっぱり知ってるじゃん」
「あくまでアリスさんから聞きましたからセーフですよぉ。別に言い触らしたりしてませんからご心配なく~」
「……はじめてシェリーに苛立ったかも」
チェシャは机の上に置かれている手で握り拳を作って言った。
「流石に踏み入りすぎましたね。もうやめておきます。ですが、彼女のことも分かってあげるべきですよ?」
「うん。正しいのは分かってる」
「人ってのは本当に仲の良い人とは自然にギブアンドテイクをしますから。一度貰えば何処かで返そうとするんです。自分の利益とは別にね」
「──本当に……うざいね」
チェシャは苦笑いを浮かべて言った。そして、シェリーにはかなわないと自覚した。仲が良いと思ってくれている相手に怒れなどしない。机の上の握り拳はもう力を失っていた。
「それはどうもありがとうございます」
シェリーは丁寧にお礼を返し、椅子を引いて立ち上がった。
「話はいじょーです。お時間取らせてすみませんね」
「いいよ。腹立つけど、いいものもらったから」
チェシャは鞄から財布を取り出してそこから銀色の硬貨を一枚取り出すと指で弾いた。彼は水しかもらっていない。代金などいらないはずだった。
「代金はこれで」
「ウチにはチップ制度は有りませんよ?」
それを両手で受け止めたシェリーは首を傾げて言葉を返す。そんな彼女にチェシャはにっと口端を吊り上げて笑う。
「ギブアンドテイクだよ」
「そーですか。ならありがたくいただきます」
*
チェシャが皿を洗い、食器が鳴る音と水音だけが響く居間。
食後の暖かいお茶口に含んだアリスが満足そうに顔を綻ばせ、椅子からやや体を滑らせて脱力する。
彼らが出会ってから役割が入れ替わるだけで、何度も繰り返された光景だ。
「昼間は何してたの~?」
アリスは力の抜け切った声で皿洗いをするチェシャに尋ねた。
チェシャは振り向かずに答える。
「ちょっとアリエルに行って、買い物してきただけかな。後は昼寝。最近昼寝できなかったから。……アリスこそ朝から居なかったけどどうしたの?」
全ての皿を洗い終えたチェシャは手を拭いてからグラスにお茶を注いでアリスの対面に座った。
「クオリアと最近できたケーキ屋さんに行ってきたの! すごくおいしかった!」
「そいつは良いね。でも俺、甘いもの食べないからなぁ。ケーキって美味しいの?」
「もっちろん! ほっぺた落ちるくらいっ!」
「……」
チェシャは無言でアリスの頬を軽く引っ張った。柔らかい彼女の頬が餅のように伸びる。思わず、その犯人であるチェシャがくすっと声を漏らして笑った。されるがままに目を細めたアリスが、チェシャの手を抑えて、抗議する。
「いひゃい。離して」
「これが落ちるのか……」
何度か軽く引っ張るチェシャにアリスも流石に抵抗して抑えていた手でチェシャの手を引きはがす。
「ただの比喩よっ! わざとやってるの!?」
「くく、ははははっ!」
頬を膨らませて抗議するアリス。
堪えきれなかったように吹き出すチェシャ。ますますアリスの眉が顰められる。
「ごめん、ごめん。……」
「……?」
チェシャが思案顔になったのを察してアリスが疑問符を浮かべる。
「アリスは、さ」
「……うん」
突如ぽつりと離し出したチェシャにアリスは戸惑いながら相槌を返す。
「俺のこと、信頼できるの?」
「え、急にどうしたの?」
真剣な顔で問うチェシャにアリスは笑みを崩した顔で尋ねる。
「なんとなく」
「なんとなくは嘘でしょ?」
「うん」
「そこ頷いちゃ駄目じゃない?」
即答に苦笑いを浮かべながらアリスは突っ込む。そして、やや間を置いて自分の考えを整理する。
──突然変な名前を付けて、素性も分からない自分を連れまわして、頼りになる背中を見せてもらって、そのあとすぐに自分を慰めるようと下手な話を始めたり、きっと物語のような素晴らしい人間じゃないけれど……。
「初めは……信頼はそこまで出来なかったけど、この人なら頼れそうって感じはしたの。それは第一試練が終わる頃にはね、確信できた」
「ん」
チェシャが静かに相槌を打つ。
「それに。獣王の声を聞いてダメになっちゃったわたしを、みんなを信じてくれたのはチェシャでしょ? なら、わたしも返さなきゃって思ったの」
グラスの中の水を飲み、喉を潤してからアリスは話を続ける。それほど話を考えていなかったものの、自然と言いたいことが彼女の口から溢れ出す。
「今だって、わたしの都合に付き合ってくれてる。クオリア達もそう。だから、わたしも、ね」
それ以上は言うまでもない。と、チェシャに微笑みかける。
「そっか。でもさ、そんなの。……たまたまだよ? 俺にとってちょうどいい目標が出来たから。それだけなの──」
話の途中のチェシャにアリスは机から体を乗り出して彼の額を勢いよく指で突く。
チェシャには予想外だったのかまともにそれを受けて顔を仰け反らせた。
「ちょうどいいだけで命をかけれるが”それだけ“って。それに、仲間、なんでしょう?」
「でもさ──」
「でもじゃないの。信頼できるから、助けられたから、自然に助けたいと思うの! チェシャが聞いたんだよ?」
「……」
面食らったようにチェシャは瞬きを一つ。
──人ってのは本当に仲の良い人とは自然にギブアンドテイクをしますから。一度貰えば何処かで返そうとするんです。自分の利益とは別にね。
昼間聞いた話を思い出したチェシャがぽつりとつぶやく。
「自然に……。あぁ、そっか」
「……?」
「いいや、ごめん」
「いえ、いいの。チェシャだってチェシャだもん」
満面の笑みで言い切るアリス。チェシャの行動理念はアリスに理解できない。しかし、そんな彼にアリスは十分に救われている。信頼に足る──恩を返すべき人物であることは彼女にとって変わらないのだ。
「ちょっと意味わからないよ?」
しかし、そんな内心などチェシャには分からない。眉をひそめて苦笑する。
「えー?」
「ともかく。……頼みがあるんだけど、いいかな?」
「また振り出しに戻す気?」
「ごめん」
「いいから言って」
「ん、俺の──」
二人のいる部屋を月は淡く、けれど暖かく照らしていた。