バー・アリエル
くたくたになりながらも、チェシャはうろ覚えの道を辿ってハルクの家へ辿り着いた。
缶を蹴り飛ばすような乱暴さで玄関の戸を開け、雪崩れ込むように寝床のある二階へ進む。
さして長い時間迷宮に居たわけではないが、狩りとは違う長時間の臨戦態勢だけでも彼の体力を大きく削いでいた。
部屋に入るや否や防具を外す。
雑に放り投げられた防具が畳で転がるのにも構わず、彼は眠りにつく。一分も立たぬ内に寝室からは穏やかな寝息しか聞こえなくなった。
暫く静寂を保っていたが、戸が開く音共にハルクが入ってきた。
彼は二階へと上がりチェシャがぐっすりと寝ているのを確認した後、再度一階に降りて居間の机で羽ペンを取り紙に何かを書き出す。
そう長くはない文章を書いたハルクはその紙が無くならないように文鎮を乗せてまた家を出ていった。
紙には、
“すまないが今日と明日は留守にする。決して一人で探索はしないように。”
と書かれていた。
翌日、早朝に目を覚ましたチェシャは家の裏手にある井戸から水を汲み、その水で顔を洗う。
その他一通りの身支度を終えた彼はハルクが残した紙に気がついた。
紙を手に取り内容を読んだ後少し考え込むそぶりをすると、自室に戻った。
探索が出来なければすることはない、故に入り口付近でもいいので探索に行きたかったのだ。
乱暴に放り投げていた防具を拾い上げて順に着用し、槍を背中に担いだチェシャの姿が外に出ようとしたが、何か別のことを思い出したかのように急に止まった。
チェシャとしては迷宮に行く気満々だったが、ハルクだけでなくアルマにも一人での探索に行かないように言いつけられている。
葛藤するように右往左往して、肩を落として自室に戻る。
その後、自室から出て来たチェシャの服装は平服。少なくとも迷宮に向かう探索者の姿ではない状態で外出した。
*
探索者組合の資料室で何かをしている少女と女性の二人。
「クシャトリア先輩、小鹿の踊り場に生息する迷宮生物はこの四種で大丈夫ですか?」
「ええ、基本はそれで大丈夫よ。後これも見せておいてね」
手持ちの資料を見せる少女の職員アルマ。
資料にはチェシャが子熊の遊び場で戦った大ネズミと毒アゲハ、それに加えてツノの生えたウサギのホーンラビット。
小鹿を思わせるリトルディアーなどの絵とその下にさまざまな文章が箇条書きで書かれている。
アルマの見せた資料に頷きを返したクシャトリアは一番上の棚からもう一枚の資料を手渡した。
紙にはビッグディアーと書かれていた名称と、成体の鹿よりも二回り大きい鹿の絵が描かれていた。
「小鹿の踊り場にはビッグディアーは生息していなかった筈ですよ?」
疑問を浮かべるアルマ。
「ええ、だけど疑問に思ったことはない? 貴方のもつ四種の資料の迷宮生物は、まだ新人の探索者パーティが簡単に全滅するほどの強さではない。だけどこの迷宮の死亡率は第一試練の大迷宮よりも高いことに」
目を見開き、実に分かりやすい表情を浮かべるアルマ。大迷宮での死亡例は新人のままでは容易に力負けする迷宮生物が多いから。
しかし、小鹿の水飲み場での死因は“神の悪意”に分類されるビッグディアーが殆どで、新人死亡例としても殆どだった。
「小鹿がいるなら親がいたっておかしくは無い。そうよね? でも新人は第一試練の迷宮生物の中で比較的殺傷力の高いホーンラビットが居なくて、入口からも近い子熊の遊び場から経験する。リトルベアの存在はすぐに知るけど親が居るとまでは考えない。私も考えなかったから仕方ないけどね」
そう言うと何かを噛み締めるように顔を歪めるクシャトリア。
「この迷宮はね、具体的な数は分からないけど、リトルディアーが何匹か討伐されるとこのビッグディアーが迷宮を駆け回り出す。」
リトルディアーを倒した探索者に向かってね。と付け足した。
有り体に言えば子を殺された親の復讐か。まるで罠のようだが、もし仮にビッグディアーに感情という概念があるのならそれは妥当な結果と言えた。
だから、その結果子供を殺した探索者が同じ末路を辿るのも妥当だった。
「……初めて目撃された時はまだ最前線の探索者でも器の強さが強い人が居ないからどうしようもなかったわ。何人かの犠牲を払ってようやく倒せたの」
少し息を吸ってまた吐き出し始める。
「何が強かったかって、時々してくる咆哮? のようなもので錯乱状態みたいになる事だったわ。後に専用の耳栓が出来たから良かったけれど、当時は同士討ちが起こって大混乱よ。そこを角で突かれるわ、体当たりで吹き飛ばされるわ。蹄で踏み潰される、蹴飛ばされる。散々だったわね……」
「大変だったんですね……」
それは経験したかの様な具体的な話だった。クシャトリアの過去を察したアルマは同情する様に言う。
「そうね……。話が逸れてるか。ともかく、ビッグディアーについてはしっかり説明しておいて」
「分かりましたっ」
そう言った後に少し話しすぎたわ。と言いながら資料室から出ていった。
残されたアルマは頬を両手で軽く叩く。気を入れ直して小鹿の踊り場の地図を持ってくると、机に広げて書かれている内容を反復して唱え始めた。
*
そこらの町人とさして変わらぬ服装で出歩いてるチェシャ。曲がり角を見つけると曲がるかどうか思考するを繰り返して当てもなさそうに歩いている。
己の気まぐれのまま町を出歩く彼は、未知の場所に心を躍らせる子供と同じだった。
気まぐれな散歩を繰り返すうちにチェシャは人気が少ないところまでやってきた。
ここまで来ると店なんて物はなく、人が住んでいるかも微妙な明かりのない建物ばかりが並んでいる。
そんな所に周りに明かりがない分一際目立つ明かりのある建物が鎮座していた。ドア前には“open”と書かれた掛け板がある。
「へんなの」
こんな所にいるチェシャにも刺さる言葉を呟きながら、明かりに吸い寄せられてドアを開けた。
ドアの上には“バー・アリエル”と書かれた看板があった。
カランカランとドアの裏に取り付けられていた鳴子のようなものが寂しく鳴り響き、店内にチェシャの入店を知らせる。
「──しゃーせー」
寂しく響いた鳴子に負けない気怠げな挨拶。声の主は青色の髪を後ろで束ね、眠そうに半分だけ開いた碧の瞳でチェシャを見ている。
多少の幼さが感じられる女性だった。整った顔立ちを持っていたが、しわが放置された服の上から同じくしわのついたエプロンを着ているせいで美人には見え難い。
おそらく、身なりを整えるだけで多くの男の目を惹くに違いなかった。
「こぉらっ!」
「──……??」
その女性は後ろから来たパンダナを巻き、髭を生やした黒い短髪の男性に頭を叩かれた。
あまりに遠慮のない叩きっぷりに来店者の方が言葉を失っている。
「いったぁ!? 何するんですかぁ?」
頭をさすりながら叩いた男性を恨めしそうに睨みつける青髪の女性。ゆったりとした口調はあまり恨めしそうには聞こえない。むしろ煽っているようにも見えた振る舞いに、短髪の男性は呆れて肩を竦める。
「何って、お客さんにその態度はないだろうよ。常連しか来ないからって腑抜けすぎだっつの」
男性が厳しい口調で叱りつけ、申し訳なそうにチェシャへ頭を下げる。
「すいませんね、しっかし、ここには何も有りませんよ? 見たところお酒を飲む様な年齢にも見えませんがね」
「別に丁寧じゃなくていい。気楽でいいよ、偉くないし。……目的は無くて、何と無く歩いてたらここに来た」
頭から足までを俯瞰した男性にチェシャは首を振った。
「気楽でいいなら助かるね、でも、なんとなくか。ここはなんとなくで来れるほど近くも分かりやすくもない筈だよ?」
随分気まぐれな来店者だと苦笑い。実際この店の収入源はその猫のような奔放な人によって賄われている。
「ほんとに目的はない。ぶらぶらしてただけ」
「ハッハ。そうか、こんな所まで来たのにな。面白いね君、名前は?」
「チェシャ。でも、こんな所でお店やってる方が変だよ?」
すっと名前を述べて反対に疑問を返す。笑われたことに少し思うところがあったチェシャの疑問は棘のある言い方だった。
「人には人の考えってやつがあるのさ。俺にもここで店を続ける理由がな」
「そうなんだ」
少し遠くを見つめて言った。チェシャはそれを深くは考えなかった様で適当に相槌を打つ。
そんな彼横で青髪の女性がチェシャの背中にある槍を見て、ふと思いついた様にして気怠げに尋ねる。
「んー、もしかして探索者ってやつですかぁ?」
「うん」
「なおさら珍しいなこりゃ。とはいえ新人っぽいな、間違ってたらすまねぇが、合ってるかい?」
どっちにしても失礼な質問に気にする事なく頷くチェシャは改めてぐるりと店内を見渡す。
少し高い丸椅子が並ぶカウンターに、二人ずつが向かい合う四人席のテーブルが三組。
店の奥の空いているスペースの壁には大きなコルクボードがかけられていた。張り紙も数枚貼ってある。
「あれは?」
「ん? あれか、うちは基本的には昼間は喫茶、夜は酒場のスタンスなんだが、兼業的なやつで頼みごとの仲介をやってんのさ。この辺りじゃ頼れるものが少ないからな。見ればわかるさ」
促されて掲示板へ近づいてみると、物々交換をして欲しいと言うような物から、どれそれを代わりに買ってきて欲しいと言う依頼まであった。
迷宮生物の素材を欲する依頼も。しかもつい最近彼が手にしたことのあるものだ。
しかし、町民が欲しがるようなものではない依頼に首を傾げた。
「毒アゲハの鱗粉なんか何に使うの?」
「確かそれは……。うん、薬師の奴だ、最近の前線の方じゃ毒アゲハの鱗粉からできる毒薬を結構使ってるみたいらしい」
サイモンは頭を唸らせ、記憶を引っ張り出すように話す。
「何に使ってるからまでは知らんが需要が上がった結果こっちまで回って来なくて仕入れが出来ないとかなんとか。って感じらしい」
「……詳しいんだ」
「こんなのをやることになって色々と詳しくなっちまったもんでな」
内心少し馬鹿にしていたのか驚くチェシャ。彼の反応を見て、皮肉げに言う男性の口角は上がっていた。
「新人なら今は厳しいかも知れんが慣れた頃にはうちの依頼もこなしていってくれよ。そうしたらうちの知名度も上がるからな」
「……お人好しじゃなかったんだ」
「聞こえてるからな―。──っと、まだ名前言ってなかったな。俺はサイモンだ。で、こっちが──」
「シェリー」
後ろで何か作業をしていたシェリーが名前だけを言ってから作業に戻った。
「そんなわけで、良かったらまた来てくれ、そしたらついでになんか頼んでけ」
「うん、そうする」
悪い笑顔で述べるサイモンにチェシャは苦笑し、手を軽く上げて店を出ていった。
背中でまた鳴子が鳴ったのを耳に、少し伸びをしてから空を見上げる。空は曇っていた。雷雲と思わしき黒い雲は不吉そうだ。
なんとなく、胸がざわついた。
──ハルクは……迷宮に行ったんだっけ?
「やっぱり、行こう」
チェシャは一人呟き、路地裏の地を蹴っていった。