探索・風の砦
「おはよ」
朝、戸棚からパンに塗るためのジャムを取り出していたチェシャは背後から声をかけられる。
「おはよう」
その声に返事を返す。
お互いにそれ以上は話さない。
いつも通り、席につき、合図なしになんとなくお互いのタイミングを合わせて無造作にパンを咀嚼し始める。
「いる?」
彼女なら使うだろうと用意したジャムを彼女に向けて滑らせる。確認をしておきながら、もう実行されている行為はともかく、口一杯にパンを頬張るアイスはそのまま頷く。
ジャムを塗った後にまたアイスはパンを頬張った。
彼女がジャムパンを頬張っている時はチェシャは話しかけない、彼女が至福そうに頬張るのを崩さない為に。
彼女の方がジャムを多く塗るのもいつも通りだった。
*
「しゃーせー。……いつもの所にいますよー」
ドアについているものが鈴に変わっていて、リンリンとその音に反応したシェリーが視線だけをそちらに向けた後、それだけを告げて作業に戻った。
ドアを開けのはチェシャとアイスで、いつもの所にいるのはボイド達三人である。
「おはよう」
「ん。来たか、行くか?」
「そうだね、行こ」
「口を白くしてるやつ、早くそれを飲み干せ」
白いひげを生やしたソリッドはクオリアの口元を見る。クオリアの口元にソリッドと同じものはない。
「あたしじゃないに決まってるじゃない」
クオリアのコップにはただの水が入っている。口元に着いたところで、それは透明だ。
「オレか!?」
「はぁ、気づいたなら早くしてくれ。もう行くぞ」
「ちょちょ、タンマ、タンマ!」
慌ててコップの中身を飲み干すソリッド。慌てているせいで口元がさらに白くなる。
「ふふっ」
その光景にアイスが笑いをこぼした。特に言及もされず迎え入れられたことは罪悪感を感じたが、ありがたいことこの上なかった。
「今日こそ風の砦の採取地点までには行きたいな、どのくらいの期間がかかるかも確かめておきたい」
「一月はかかるかしら?」
「さあな、だがこういう作業はなるべく涼しい気候の時に終えておきたい、もうすぐ炎熱の月だしな」
「炎熱?」
アイスには知らない言葉であるそれに彼女は首を傾げた。
「アイス君は知らないか、……じゃあ一年は分かるか?」
「一周?」
「そうだな、新緑、炎熱、収穫、寒冷。この四つの月を一周することが一年、一月の区切りは季節の違いの話だ。明瞭なあれはないが、まあ、深く考えることはない。月を節と呼ぶとか地方ごとに色々あるしな」
「そうなんだ」
説明しながら椅子を引いて立ち上がるボイドにアイスが漠然と頷く。
「つまるところ、暑くなる前に採取作業は終えたい。ということだ」
「すまん、もうバッチリだ!」
そんな話を終える頃にはソリッドが準備を終えていた。サムズアップするソリッドの口元も紙ナプキンで拭き取られている。
しかし、四人はソリッドに目もくれず、会計を済ませた四人が出ていったドアは既に閉まりかけていた。
「おーい! タンマって言ったじゃねぇかー!」
慌ててソリッドは鈴の音を騒がしく鳴らして出て行った。
「いやぁ、若いって良いねぇ」
裏から出てきたサイモンがソリッドを見てしみじみと言う。すると、シェリーが彼の横にすっと現れ、ぽつりと呟く。
「きも」
「父親に向かってそれは酷くないか?」
*
第二試練へとやってきたチェシャ達は全体図を記した地図を見ながら南西にある風の砦に来ていた。
「天然の要塞みたいだな」
「階段無いね」
そこは今までの様に地下に潜るのでは無く、上に伸びる大きな岩の砦、人工でないため形は歪で、返しがある訳でもない。強いて言えば凸凹の壁が返しと言うべきか。
「どちらにせよここから入るしか無いわよね?」
クオリアが入り口を見つける。大きな城の入り口ようなそれは風の砦と冠する迷宮の入り口にはふさわしい。しかし、風と冠するものがここには見当たらない。
「でも、風?全然感じないけど」
クオリアと一緒に入り口に立つアイスは腕をゆらゆらと仰ぐ。
「入ってみたら分かるだろ、いこーぜ!」
ソリッドが意気揚々と入って行こうとするのをボイドが首根っこを掴んで止める。
「イタタタっ! 何すんだよっ!?」
「馬鹿か、後衛が先頭切ってどうする?」
「うっ、すまん」
「分かればいい、風の、なんて付くぐらいだ。私も中身は気になっているさ」
ぐうの音も出ない正論に項垂れるソリッドの背をボイドが軽く叩いて慰めた。
新たな迷宮に期待を膨らませ、五人はクオリアとチェシャは先頭に探索を始める。見えるのは一本道の通路。それをしばらく歩くと、彼らは広間に出た。
「迷、宮?」
そこは吹き抜けで、迷宮というよりは天然のアスレチックの様な広間だった。
「これを、登るのか?」
「階段にしては不親切ね」
心底嫌そうにボイドが顔を歪め、重装備のクオリアも同意を示す。
上に向かって登るためなのか怪しい段差や窪みのある壁が小さな広間を経由しながら上にまで伸びており、吹き抜けなので下から上を覗くことができる。
大広間の中央には太い柱の様なものが伸びていて、周りはところどころ抜けた不完全な螺旋階段がある。本来はここを通じて上に登れたのだろうか。
登れなくなった螺旋階段の代わりに段差や登れそうな凹凸のある壁から上の階へと登れそうだ。
「ボイドー、これ外してもいいかー?」
段差に左手をかけるソリッドが右手の錬金砲を揺らす。
「ちょっと待ってくれ、風の意味がまだ……」
ボイドがそう言いかけた直後、どこからともなくそよ風が五人を撫で始める。岩の壁に覆われているはずなのにどこから吹いているのか分からない風に五人が首を傾げた瞬間、ゴオォォッと彼らを撫でていたそよ風が暴風へと変わった。
「きゃあ!」
アイスがバランスを崩したのを近くにいたチェシャが支える。
しかし、彼自身も体幹の良さと槍を突き立てて耐えてはいるが、その顔は歪んでいて苦しそうだ。
「わっ!」
登る気満々だったソリッドは壁から落とされ、強制的に地に背をつけられる。
クオリアは大盾を地面に突き立て、ボイドは重みのある鞄のおかげで引きずられながらも耐えていた。
暴風は数秒で止んだ。また暴風が襲ってこないかを確認した五人が腰を持ち上げて立ち上がった。
「まだ一番下だからいいが上から落ちたら……想像もしたく無いな」
「フクミソウは何処にあるの?」
クオリアはボイドが取り出した地図を覗き見る。アルマが写してくれたそれには採取物ごとに様々な印が書かれている。
「ご丁寧に印がされている。ここと、ここだ」
その地図は高さごとに分けられて書かれていて読み取りやすく、フクミソウがあるという印は一番上とちょうど真ん中あたりの高さのエリアに付けられていた。
「上は少しこの風の対策を考えてからにしよう、とりあえずここに行ってみるか」
「ボイドー、これ外していいかー?」
服を土で汚したソリッドがまた同じ体勢でボイドに問う。壁から落とされ痛いはずなのに意気揚々と壁に手をかけている彼にボイドは苦笑する。
「ああ、戦闘時に付けてくれ」
それを聞いたソリッドが留め具を外して腕からそれを外し、背の鞄にしまった。
「あっちからの方が良くない?」
チェシャが指さしたのは遠くに見えるこちらにある段差よりも階段らしい段差がある場所。段差と言っても、一段辺り人の身長ほどあるので、垂直な壁を登るよりかはマシな程度。
ボイドはチェシャの言う場所を地図と照らし合わせて、そのルートで目的地にたどり着けるかを確認する。
「……そこからでも目的地には行けるか、そちらから行こう」
ボイドは少し声が浮いていた。少なくとも、岩壁を登るよりは楽に違いない。
「えー、まあいっか」
錬金砲を外していたソリッドは少し声を落としてそれを付け直した。
「アイスちゃ……危ないっ!」
四人が揃い、それに合流しようとしたアイス。クオリアがアイスの方を向くといきなり盾を構えてアイスの背の方に立ちはだかる。
クオリアの盾が揺れ、反作用を受けて弾かれていったのは狸。
「化け狸……!」
「アイス! 逃がさないで!」
短く飛ぶチェシャの声。
言われるがままに銃を構えて撃つ。
弾かれて体勢を崩した狸は腹を貫かれ、その場に崩れた。
それをチェシャが躊躇なく腹を刺し貫くと間もなく霧散した。消え去った狸から槍を抜いたチェシャは辺りを見渡して他にもいないかを確認する。
「一匹だけ?」
「みたいだな……にしても思ったよりも厄介だ。クオリア、今気付けたのは何故だ?」
「あたしがアイスちゃんを庇う頃にはもうただの狸だったわよ。いつからいたから分からないわ」
構えていた大盾を一度おろしたクオリアが首を振る。誰も化けている状態の狸を発見できていなかった。
「む、そうか。あいつだけならば問題ないが……他の迷宮生物と一緒の場合は面倒もしくは致命傷になり得る。対策が欲しいな」
「でもよ、こんな岩やらなんやらあっちゃ無理だぜ?」
砦の名がついているとは言え、ここは迷宮。
探索の邪魔をする様に辺りには岩が転がり、積もっている。化け狸が隠れられる場所は腐るほどあるだろう。
「俺が先行して、クオリアが殿につく?」
「それが無難ね」
「ならアイス君はチェシャ君の後ろに着いてくれ、ソリッド、火炎瓶は渡しておく。クオリアの補佐を」
「既に一個貰ってるぞ?
ボイドがソリッドに火炎瓶を手渡そうとするが、すでに鞄に一つ持っているソリッドがそれを見せた。
「念のためだ、中身は零すなよ」
「任せな!」
危険なためあまり預けてもらえない火炎瓶を二つも預かる。それはボイドからの信頼を意味していた。言外の信頼を受け取ったソリッドはにっと口端を持ち上げて声を上げた。
「私は地図を見る関係上あまり周囲を見れない、負担はかけるが宜しく頼む」
「うん」
「りょーっかい!」
二人がそれぞれの得物を揺らす。
相談を終えた一行は警戒姿勢で遠くの階段の様な段差に向けて歩みを進ま始める。
「──っ!」
前方を歩くチェシャがアイスを押し下げながら右方向の岩石の影に向けて槍を水平に薙ぐ。
響くのは硬いもの同士がぶつかる高い硬質な音。
「カマイタチっ!」
チェシャが叫ぶ。
逆手に持った短剣の様に小さいてから伸びる鎌を持つ鼬。それが威嚇するように鋭く鳴いた。チェシャは睨み合いながら槍を短く持って対応力を上げる。
アイスはそのチェシャの影に隠れながらも銃口を鎌鼬に向ける。
睨み合いが終わったのはクオリアが駆けつけた瞬間。アイスの守りをクオリアに預けてチェシャがカマイタチに向けて槍を水平に振るう。
カマイタチはそれを後方に飛ぶことで避ける。しかし、槍を短く持つチェシャは素早く槍を引き戻し、間髪を入れず突きを入れる。
その槍を鎌で逸らしながらチェシャに詰め寄るカマイタチ。前進してくるカマイタチに合わせてチェシャが顔面に蹴りを入れた。速いが故に軽いカマイタチは容易に宙に浮き上がる。
それをアイスが逃さず追撃の発砲。
しかし的が細長いカマイタチに瞬時に狙いをつけるのは難しく、カマイタチの右前足の鎌部分に命中し、薄い鎌は折れて弾け飛ぶ。
鎌を一本失いながらも体勢を整えて着地したカマイタチは今度はチェシャを無視してアイスに向かって駆け出した。
いきなり無視されたことでチェシャはカマイタチを通してしまう。アイスも迎撃のために二発の銃弾を放つが素早く左右に揺れながら駆けるカマイタチには当たらない。そのままの勢いでアイスの前に立ちはだかったクオリアを飛び越えようとカマイタチは地面を踏みしめ宙へと飛び上がる。
「そこっ!」
クオリアは剣の腹で面積を広くして上を通ろうとするカマイタチをはたき落とした。
「ないすっ」
追いついたチェシャがはたき落とされたカマイタチに串刺しにして絶命させた。
「黒虎よりも速く、耐久性が脆いが殺傷性が高いと……注意されるのも頷ける」
速さに対応できなかったボイドとソリッドが三人の元にやって来る。
「地面焼いたら止まるか?」
「無駄だろう、炎は駆け抜けるだけなら意外と行けるものだぞ?」
「ふーん、──それよりっ! 鎌落ちてた!」
ボイドの返しをどうでも良さそうに流したソリッドはいつの間にか拾っていたそれを掲げる。薄手の鎌は光沢が良くわずかに入って来る日光を反射して輝いている。
「売れるかしら?」
「相場は知らんが迷宮生物の素材というだけで多少の価値はある。持っておこう」
ボイドは鋭い刃に注意しながらそれを鞄にしまった。
カマイタチを倒した彼らは目的の段差に到着。手を使いよじ登る様な段差ではなく、まだ足だけで登れるものだった。身軽なチェシャが軽やかに登り、上の警戒。それにすぐに追いついたのは元気あふれる少年少女組、アイスとソリッド。
重鎧ではないが一番装備重量が大きいクオリアと運動が苦手なボイドはやや遅れていた。
その遅れた二人をまた吹き荒れ始める暴風が襲う。風は上から吹き込み、彼らを打ち付ける。
「またかっ」
運悪く段差にいたボイドは近くの凹凸に手をかけ、クオリアは盾を打ち付けて耐える。少年少女組は安定した場所にいることもあって地面に屈み込むことで苦無く耐えている。
「やべ」
急にチェシャが風の中立ち上がり、槍を構える。槍の先には暴風に乗ってこちらへと急降下してくるカマイタチの姿が。
「何かいたのっ!?」
風のせいでまともに目が開けられないアイスが声を上げる。
「カマイタチ! ソリッドっ、止めるから焼いて!」
「おうよ!」
吹き荒れる暴風の中、チェシャは吹き飛ばされない様に腰を据えて、風に乗って襲いかかってくるカマイタチを見据える。踏ん張ることに力を使っているので、下手にチェシャ以外を狙われると彼にはフォローが出来ない。故に、槍を構えて全力で威嚇する。
「っ!」
彼の狙い通り、チェシャを狙って突撃してきたカマイタチ。偏差を狙って振るわれる槍、しかし、風に乗って舞うカマイタチは寸前でするりと舞うように回避し、彼の槍は届かない。
そして、再び体を細めて下降してくるカマイタチと振られる鎌。
それをチェシャは飛び込み前転でギリギリカマイタチの下を潜り抜けた。薄い鎌が空気を割く音が彼の耳に聞こえる。寸前で漂う死の気配に怯まず、チェシャがカマイタチの尻尾を掴み叩きつける。ピキィと甲高い悲鳴がカマイタチから鳴った。
「燃えなぁ!」
カマイタチに向かって放たれる火炎放射、チェシャはすぐさま飛び退く。
風はもう止んでいた。カマイタチの戦場はもうない。
炎は軽いが故に耐久性のないカマイタチを容易に焼き尽くし、その身を黒く染めさせた。炭化した死体が残され、霧散する。
軽く息を吐いたチェシャは静かに槍を下ろした。
「あの鎌、怖」
そして、小さく呟く。先程の寸前の回避は彼も心臓が締まる思いだった。
「さっすがぁ、ナイスキャッチ!」
チェシャの肩に腕をかけるソリッド。チェシャはその勢いに体が前のめりになる。
「ごめん、風が吹いてる時は上手く動けないわ」
「私に至っては飛ばされないので精一杯だ」
「まあ、何とかはなりそう。それより、次の風が吹く前にフクミソウの所まで行こ」
申し訳なさそうに段差を登ってきたクオリアとボイド。チェシャが問題ないと首を横に振った後、皆を急かす。五人は会話を辞めてすぐさま目的地へ向けて歩き出した。