渡るは遥か時の彼方
「──ふぅ……」
アリスが静かに息を吐く。
彼女の持つ魔力量はソリッドに比べれば見劣りするも十分な量がある。
しかし、ここまで大規模な攻撃はその残存魔力をそこに付きかねない勢いで消費していた。
「大丈夫?」
「もちろんよ。本番はここからでしょ?」
顔は見えないが、チェシャの腹に回されている力が緩んだことからアリスの疲弊を感じ取り、彼女の身を案ずる。
その心配の声を吹き飛ばすようにアリスはぎゅっと彼の腹に込める力を強め、笑って見せる。
「そっか。じゃっ、もう少しお願い」
勿論彼女はチェシャには伝わっていない。だが、心配の必要はないと思える気概を感じ取った彼は明るく務めた声を発して槍を握りなおした。
──アリスは、巻き込めない。
内に秘めた決意をより硬いものに変えて。
*
「どこまで近づくの?」
「……んー」
この槍を使えばどうなるか、俺も想像がつかない。クロウから言われたことも全部分かっていないし。分かっているのは何かしらの魔術が勝手に起動して厄災を消滅させるってこと。
あとは……何が起きてもいい覚悟がいること。
多分、この覚悟はこの槍が発動する魔術に巻き込まれることだと思う。
だからプロトグングニルは投げ槍として生まれたってスカーサハが言ってたんだ。
でも、あいつの魔圧じゃ投げた槍なんて途中で落ちるか、刺さった所で勢いを殺されて吹き飛ばされるのがオチだ。
「ギリギリまで近づく」
「分かったわ」
だからギリギリまで近づく。で、俺だけ行く。うん、完璧だ。
スレイプニルを走らせる。俺の心が読めるみたいで、思った方向へ進んでくれる。
空を飛んでる迷宮生物達はアリスが全部撃ち落とすせいで俺がやることはない。
最後だけ美味しく貰えるなんて随分楽な仕事だ。
たくさんの赤い流星が空を駆けていくのはとてもきれいだ。
もっといい言葉で表せたらいいけど、俺にそんな頭はない。
ともかく、流星群のお陰で俺は考える余裕がたくさんあった。
時空魔法。って言ってたっけ? それをクロウは魔術に格下げしたって。
未来に飛べるのかな? それなら、成長したアリスに会えると思う。
それとも過去に飛ぶ? それなら、成長した俺がアリスに会えると思う。
どっちに転んでも問題なし。
なら覚悟なんて初めから要らないよな。
……うん。嘘だ。アリスが死んでしまうほど未来に飛んでしまったらもう会えない。俺が死んでしまうほど過去に飛んでしまえばもう会えない。
俺にだって分かる簡単なことだ。
たくさん魔力があるなら遠くの未来か過去に飛ぶんだろう。
ああ、分かってる。覚悟ってようはそういうこと。
だったら──、アリスを巻き込んでしまえば二人で生きていけるかもしれない。
そんな暗い考えが浮かんだ。すぐに頭を振ってその考えを振り払う。
「チェシャ?」
「……ううん、なんでもない」
アリスに気取られるのは駄目だ。隠しておかないと。
そうだ。今のうちにこいつに頼んでおこう。そのうち、俺がこっから飛んで厄災に突っ込むからアリスを連れて帰れ……よし、頼んだぞ。
そっとスレイプニルの首筋を撫でながら俺は念を送る。
これで通じるかは分からないけど、やってくれることを願うしかない。
決意は固い。──はずなのに、腹に回されているアリスの手、その指にはめられた指輪を見てそれが揺らいだ。
情けなさに苦笑が漏れた。
俺は、これを振り払わないといけない。
いや、違う。俺は、アリスを置いていく。自惚れだと言われようと、俺は俺のことを好いてくれた人と二度と会えない選択をとった。
俺は勝手にアリスを引き留めておいて、自分はどこかへ行こうとしている。
あぁ、馬鹿みたいだ。人のことなんて何も言えないじゃないか。
矛盾してる。きっと他人から見れば何がしたいのか分からないと思う。
好きな女の子を助けるために腕を捧げておきながら、その子の一生を選択を自分に使わせておきながら、俺は手に入れたすべてを放り投げようとしているんだ。
うん。我ながら馬鹿みたいだ。
……でも、これはアリスがやったこととは違う。
アリスは自分が抱えた仕事をこなしただけだ。自分の意思は後からついてきただけ。
俺は違う。俺は、俺の意思で、アリスがこの先平穏に過ごせるような未来を作るために……俺のすべてを捨てるんだ。
そうだ。馬鹿なことをしているけれど、理屈はある。
それで十分じゃないか。俺が小難しいことを考えるのなんて似合ってない。
自分で考えこんで自分で解決した。何も問題はない。俺が吐き出さない限りこの悩みは誰も気付かない。
誰にも気付かれないまま俺は消えていく。問題なんて、ない。
……駄目だ。このままじゃ余計なことばかり考えてしまう。
槍を握りなおして、前を向く。いつの間にか顔を下に向けていた。
「もうすぐか」
「うん。魔力は持ちそう。ここからどうする?」
もう全力で飛べば厄災の元へ飛び移れる。あっという間にタイムリミットは迫っていた。
名残惜しい気持ちは早く捨てないといけない。……いけないのに、俺はまだスレイプニルを直進させていた。
──ブルルル……
スレイプニルが鼻息を鳴らす。まるで行かないのかって聞いてるみたいだ。
ってことはさっきのお願いは聞いてもらえてるっぽい。
じゃあ、あとは俺の気持ちの問題か。
周りに目を向ける。
「いけー!! ぶっ飛ばせー!!」
「お願いです! 倒してください!」
「がんばれぇ!!」
いつの間にか悲鳴ばかり聞こえていたセントラルから活力に満ちた声が聞こえてくる。
そのどれもが希望にも満ちている。多少の違いはあっても、間違いなく絶望から離れた声だ。
俺の意思の話だったのに、いつの間にか余計な重荷が増えている。
正直、辞めて欲しい。でも、仕方がない。
アリスを止めてしまった時点でセントラルを巻き込んでしまって、その責任は俺にある。
だから、俺は責任を果たさないといけない。
でも、これは俺の意思じゃない。胸を張ってアリスと別れるために、この理由は似合わない。
「……チェシャ?」
「……っ! ん、そうだなぁ。もう少し上に行きたい。まだいける?」
「大丈夫!」
アリスの声に合わせてスレイプニルがまた鼻息を鳴らし、さらに上空へと駆ける。鳴らした鼻音が今度は少し低い。
多分、呆れてるとかそういうやつ。
日和ってしまった自覚はある。でもこれは必要な時間だ。
俺にとって、じゃなくて。
アリスのために。
高度を上げるだけだから時間はかからない。
もう目的地点はすぐそこ。だから俺の準備もすぐに整えないといけない。
一度、黒騎士の鎧を解除する。
そして、顔だけを後ろに向けてアリスの顔を見た。
「……どうしたの?」
アリスが小首をかしげて心配そうに尋ねてくる。
ほんのりと歪んだ眉。不安の色を隠さず、小刻みに揺れる瞳。風に乗った甘く小さな囁き。
あまりにも愛しい彼女のどれもが俺の決意を揺るがせて、同時に固めてくれる。
「……あいつに槍を届かせるためには俺が直接行かないといけない」
嘘だ。スレイプニルのもとは俺の血を持つ黒騎士だ。俺と同じ程度には耐えられる。
だが、それだと、アリスが危ない。だからこれはアリスをここに残すためのいい訳。
「……だから?」
黒色の瞳が強く揺れた。声に揺らぎが混じった。
「俺は行くけど、アリスはここで待ってて」
「……嫌」
駄々をこねるようにアリスが首を力なく横に振る。
多分、俺が何かを隠しているのを悟っているんだと思う。じゃないと、無理やり後ろに乗ってこないから。
「この馬じゃ厄災の目の前までは行けないんだ」
「いや」
即答したアリスの瞳に涙が浮かんでいる。揺れる顔と合わせて亜麻色の髪が揺れている。
今すぐ置いて行かないと言ってあげられればどんなに良かっただろう。
「お願い」
「いやぁ………」
アリスが銃を持っていた右腕も俺の腹に回してくる。そして、腹にぎゅっと力を込めた。
それはずるいと思う。……俺もこんなこと言いたくないのにさ。
でも、仕方ないことだから、俺はアリスの指を一本一本丁寧に離していく。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。右手を剥がした。
左も同じように繰り返して、途中で触れてしまった指輪を見つけて──思わず目を逸らしてしまう。
「……ごめん」
色んな謝罪を込めた。
嘘を吐いたこと。置き去りにすること。アリスと似たようなことをしてるくせに俺は止まらないこと。
たくさん込めた。
──あとは、最後だから。
乱れた亜麻色の髪をそっとかき分ける。数日家から離れていたのもあって少し痛んでいる。
髪を梳く手に抵抗を感じながら整えてあげた。
「──」
「~~~ッ!!?」
準備を整えて──名残惜しさも晴らすようにアリスの唇に自分の唇を重ねた。
余りにも近いせいでアリスの表情は完全には分からない。でも、綺麗な黒い瞳が困惑に震えているのはよく分かった。
何気に初めてのキス。緊張もあってか、感触はよく分からない。
多分、柔らかい。なんとなく、アリスに抱き寄せられたことを思い出した。
いつまでしていたかは分からない。一瞬だったかもしれないし、数秒だったかもしれない。
アリスと示し合ったようにそれとなく唇を離す。
アリスの驚愕に染まった表情は少しおかしくて笑ってしまいそうになる。
そうだ、別に堪える必要はないんだ。むしろ笑っていた方が良いに違いない。
だから精一杯の笑顔を浮かべたつもりでお別れを告げる。
「じゃあ──また後で」
いつか会えればいいなという願望を込めた別れを口にして、俺は飛びたつ。
残り少ない魔力で黒鎧を纏って、かき集めた魔力で厄災の元へと突貫する。
「──ッ! チェシャ!? チェシャぁぁぁ!?」
後ろは見ない。自分の名前を呼ぶ声が、悲鳴が、聞こえたような気がするだけだ。
声は遠くなっていく。スレイプニルは俺の言う通りにしてくれたらしい。
それにホッとしながら龍よりも大きい巨体へ槍を振るった。
すると、槍から光が迸る。
槍──グングニルを中心に青く光る大きな魔術印が描かれていく。
いくつもの光芒を掛け合わせたような紋様が編まれて、何がなんだか分からないほどいくつもの線が刻まれた。
それに合わせて、厄災の体が一気に小さくなっていく。
魔力を消費しているんだ。
いつの間にか厄災の体は槍近くに集まっているものだけで、大鹿ぐらいの大きさに縮まっていた。
あまりにもあっさりしすぎて、拍子抜けだ。
今までの苦労を返して欲しい。
そう思った瞬間。
視界が青と白に染まった。
これにて九章は終了です。
明日の土曜日、朝の7時にエピローグを投稿します。