プロポーズ
「──俺と……結婚してください」
告白。
それが嘘偽りでないのは目の前の指輪からもよく分かる。
アリスは目の前で頭を深々と下げるチェシャを見つめたまま硬直していた。
見てくれは最悪だ。何せ右腕は飛んでいるし、応急処置の琥珀の塊はやけにアンバランスだし、彼の防具は何故か何かに焦がされたかのように黒ずんでいる。
綺麗とは対極に位置する有様。
だが、そのどれもがこの言葉と目の前の指輪をアリスに渡すためだというのなら、話は別だ。
「……どうして?」
きっと、チェシャの覚悟に対する返事として最悪なのはアリス自身も分かっていた。
それでも尋ねたのは開き直っていたから。嫌われて孤独に死ぬ覚悟を、今更どう思われようとかまわないという覚悟を決めていたからだ。
「……すべて片付くまで、俺はアリスのために生きるって決めたから」
彼らの年齢ならば人生の大きな岐路をここで消費していいのかすら怪しい。
その機会を惜しまない程度にチェシャはアリスに救われた。だからこの先の時間をアリスを助けるために使うと決めた。
そして、その動機とは別に彼はアリスのことを好いていた。
安心した時にへにゃりと笑う姿や、口元をへの字にして野菜を食べる姿。いつの日から彼に体重を預けて本を読むことに慣れて姿も。
そんな子供っぽいところがあるのに、慰めてくれた時に感じた包容力。
数え上げればきりがなく、一挙一動が愛おしいのだと、短いようで長かった彼女との時間がとても大切だったことを彼女と離れて自覚した。
もしかすれば、似たような感情を抱く日がこの先あるのかもしれない。
だが、まぎれもなくチェシャを最初に救ったのはアリスで、最初に彼が好きになった人も彼女なのだ。
そんな彼女が捕まえるための楔。
考え抜いた末にチェシャが思いついた答え、それがこの婚約指輪というだけの話。
「……そう」
チェシャの好意は痛いほどに理解できても、素直に受け入れることはアリスに出来ない。
彼の答えも何となく想像できていた。改めて言葉にされると嬉しいと思ってしまう自分自身に彼女は嫌気がさす。
それ以上の言葉が思いつかず、アリスが黙り込み沈黙が生まれる。
いつの間にか階下から聞こえていた戦闘音が消えていた。
ハルクが戻ってこない。ボイド達が勝ったということがすぐに分かってしまう。
正真正銘の敗北だ。
癪なのは、敗北したから告白を、プロポーズを受けるという情けない話。
今すぐ手の中にある指輪をチェシャの手で通して欲しいという願いをアリスは口にできない。
口にすれば、認めてしまえば、考えることが増えてしまう。あれだけ頑張って捨てたのに、あっさりと前よりたくさん拾い上げてしまう。
「──俺にも……背負わせてくれよ」
チェシャが、己の気持ちを吐き出す。彼の時も助けてくれたのはアリスだった。せっかく恩返しの時が来たというのに、一人でなんとかしようと言い出すのだから彼は寂しさすら感じていた。
切実な告白。
──何とも甘美な響きだろうか。
思わずゾクリと震えてしまうほど、その言葉は毒のようにアリスの体を蝕み、覚悟を溶かしにかかる。
負けた以上、ここでうだうだと駄々をこねるのはプライドではない。ただの我儘だ。
プライドは結果を出してこそ認められるものであって、結果の伴わないプライドはエゴでり、子供の駄々に過ぎない。
既にアリスの体には恋と言う名の毒が回り切っている。
とっくに、堕ちているのだ。
「──くふっ」
だから、こらえきれなくて声が漏れる。それは今更助けを乞うことの罪悪感、背徳感もあった。
だが、それ以上に……彼女の声は今の気持ちを素直に認める喜びに満ちていた。
「……?」
目の前で首を傾げる彼に対して愛しさを抱きながら、湿った目元を拭う。
声だろうとなんであろうと、一度漏れてしまえばもう抑えきれない。
頬を伝う水滴に気付いたチェシャがハンカチで拭おうとして動きを止める。
また眠らせてしまうことに寸前で気付いた。
代わりに指を伸ばし、水滴を指にそっと沿わせた。
「……──つけて」
アリスが持っていた藍色の箱をチェシャに押し付け、左手を伸ばす。具体的には左の薬指を。
「……ん」
赤の宝石をつけた指輪をチェシャがつまみ、アリスの指先へと通していく。
右手しかないため覚束ないその様は情けなかったが、それすらも愛おしいとアリスが目を細め、口は弧を描く。
そうして、時間をかけながらアリスの薬指に婚約指輪がぴったりと収まった。
想像以上のフィットさにアリスが言葉なく驚く。
しかし、それよりも気になったことがあった。
「ねぇ、この宝石。どうしてこれにしたの?」
目の前の少年と同じ鮮やかな赤の宝石。
アリスはあまり宝石が持つ意味を知らない。知っているのはダイヤモンドくらいだ。
「……名前は忘れた」
「えぇー……」
気まずそうに頬をかくチェシャへ、アリスが彼の胸元にぽすっと拳を叩きつける。知らないわけなどありえない。隠しているのはアリスにも想像がついた。
──ライラちゃんに聞けば分かるかな? 鉱物の図鑑持ってたし。
「でも……意味は聞いた。平穏に暮らせるようにって」
チェシャの言いたいことはアリスにも分かった。
結局、今までの旅もそれだけのためだった。別に不特定多数の命を救いたいなどと思っていない。
救うとしてもまずは知っている人間だ。何故なら、彼もまた一人の人間なのだから。
それはずっと前からチェシャはアリスに示していた。逃げてもいいと。
言葉にならず、どうしようもない衝動のまま彼女は拳だけでなく全身を彼に預ける。
……今度こそ、アリスは自分の命を、この先の未来を惜しんだ。
「……ごめん……ごめんなさい──ッ!」
鼻をすする音を立てて、アリスがチェシャの元で静かに懺悔する。
父の願いを、大衆の願いを放棄したことを。
彼女を抱いたチェシャは言葉を発することはなかったが、彼女の背をそっと撫でる。
『サブオーダー”彼女から彼女をなくすな”の実行条件が満たされたことを確認。現在実行中のシークエンスを強制中断します』
そこへある意味無遠慮な割り込みを仕掛けたのはスカーサハの声だった。
忙しなく動いていた電子パネルの光が一斉に消失する。
途端に動きが止まったことに二人も目を白黒とさせて状況の確認に意識を向けた。
そして、気付く。
「……ごめんねー。ちょっと話すタイミング見失っちゃってたから」
「盛大な結婚式を挙げるということで許してもらえないか?」
「えっ? オレら悪くなくねぇか!?」
どこからかは定かでないものの、いつの間にか階下から上がって来たクオリア達に見られていたことに。
「──~~~~~~~っ!!!?」
アリスがチェシャの体を盾に縮こまる。今になって恥ずかしさが膨れ上がり、アリスの頬が急速に朱に染まった。しかし、彼女がぎゅっと抱きしめているチェシャの体は特に強張っている様子もない。
ちらりとアリスが目線を挙げてみると、チェシャは頬をほんのりの朱くしていたが、あまり動揺した様子はない。もとより知っていたかのようだった。
「ソリッドの言う通り、こんな場所で告白した俺が悪いからいいよ。クオリアには世話になったし」
「そういってもらえると助かるわね。ま、チェシャくんはともかくアリスちゃんが許してくれそうにないけどー」
「これが見れたなら多少怒られてもいいと思ってるだろ?」
「あら、バレちゃった」
飄々とした態度のクオリアにボイドが苦笑する。
チェシャがクオリアの元に尋ねて何かアドバイスをもらった話は知っていたが、まさかこんな話になっているとは彼も思っていなかった。
しかし、ボイドが気にしているのはその話ではない。
──彼女から彼女をなくすな、か。つまり……嘘をつかせるなと。くだらない言葉遊びだが……親が畜生でない証明でもある。
たまに現れては意味深な動きを見せたスカーサハとこのサブオーダーとやら。
親が優先するのは娘の幸せだと、この状況を見れば理解できた。
『中断完了しました。またサブオーダーに基づき、最もマスターの意向に沿う計画を提示』
明かりが消失した電子パネルからウィンドウが再び現れ、大量の文字列を列挙し始める。
勿論すべて古代文字であるため、読むことが出来るボイドとアリスが必死になってそれらを読み始めた。
「……なんて書いてるんだ?」
「ちょっと待ってくれ。想像以上に情報が多い」
「でも……これなら──!」
アリスの瞳が希望を見つけて鮮やかな光を灯した。
羅列された情報群が示しているのはプロトグングニルをより対魔力生物用に改造すること。
体全てが魔力で構成される厄災に対する攻撃力のみ特化し、触れた箇所の魔力を根こそぎ奪い取るものだ。
そして、魔力も万能ではない。厄災の中心部にある核、それを破壊できれば厄災の魔力は拡散する。
無論、魔力の性質上大量の魔力が撒かれてしまうことも危険だが、軍ですら対応不可能な圧倒的魔力体を対応可能な現象にまで押しとどめられる。
「だが、ロキからも迷宮生物……いや、迷宮でないなら魔物か。それらが生み出される。人手が足りなくないか?」
「そのための探索者組合さね」
皆がパッと振り返る。
そこには縄で縛られたハルクが胡坐をかいていた。
ボイド達との戦いで損傷し、金属のフレームがそこかしこに散見された。
「……儂の目的はもとよりアリス嬢の望みを叶えることだ。そこのスカーサハも同じだよ」
「ふんっ──なるほどな」
ボイドは鼻で笑う。
最初からそう言えば彼らもアリス達と戦うことなどなかった。彼からすれば癪に障る。
しかし、アリスが嘘をつかないように、本心から望むことで初めて成り立つ共闘ということを鑑みれば、仕方のない衝突だったのだろう。
「お前たちも知っているはずだよ、神の試練と呼ばれた場所が来る厄災と戦うための戦力を育てる場所ということはね」
「……初めから町を巻き込むつもりだったと?」
「そうしなければ守れないならそうするさね。この町すら厄災のためと言っても過言じゃないからねぇ」
「……そうか」
ボイドはそれ以上の言及を辞めた。無責任なハルクの言い分に思うところはあった。
だが、彼が居なければこの迷宮の発見、ひいては攻略もさらに時間がかかっていたに違いない。
なまじアリスと違い千年を素で生きた男だ。今まで感じて来た苦しみもボイドには知りようもない。
きっと、親しい人を何度も見送ったに違いない。
孤独に死ぬことも許されないまま戦ってきた目の前の老人を責める権利など誰も持っていないのだから。
「スカーサハ。厄災の容態は?」
アリスが話題を変えるついでにスカーサハへ尋ねる。
元の計画はロキを生み出し、グングニルもろとも相打ちを狙うものだった。
そして、途中まで進行している計画ではもう厄災の誕生を阻止していた魔力吸収機構のロックはもう解いてしまっている。
つまり──
『ロック解除に伴い、魔力が核を生成しました。厄災の誕生まで──』
青空が見えていた部屋を赤い光が照らし出す。同時に鳴ったアラート音がこの場にいる者達の体を強張らせた。
周囲を見渡すも何もいない。耳を澄ませる彼らが鳴り響くアラートの中捉えたのは、下から登って来るような破砕音だった。
地面に亀裂が走り、壁に亀裂が登る。
『──申し訳ありません。強制中断によって厄災が……発生しました』
感情などありもしないスカーサハが申し訳なさそうに謝罪する。
そして、音が追い付き、彼らの立っていた場所が崩れ去った。
九章は今月中に終わらせたいため、0時投稿とは別に追加で投稿します。
確認しながら投稿するため、0時以外は不定期です。
定期更新を含め、一日あたり二、三話程度の投稿を予定しています。