恐怖
翌日。
「アイス、起きてるー? 朝だぞー」
チェシャはアイスの部屋をドアをノックする。時刻は朝、本来ならば二人はとっくに席について朝食を取っている頃。
しかし、彼の声の答えはない。
再びのノック。返事はない。
「……入るよ?」
しかし、返事はない。風邪でも引いて声を出すのが辛い可能性を浮かべたチェシャは扉を開けることに決めてドアノブを回した。
まだ最低限の家具しか揃っていない無骨な部屋、ベッドの上には不自然に膨らんでいるこの部屋で唯一彩り、薄く桃色に染色された布団の塊だ。蹲っているというより、座り込んだ状態から布団を被ったような大きさ。寝ているとは考えにくい。
「いつもそんな寝方じゃないよね? 起きてるよでしょ」
塊はもぞもぞと微かに動く。辛そうというよりは動きたくないとチェシャは感じ、言葉を続ける。
「……具合が悪いの? なら今日は中止って言っとくよ?」
再び布団が微かに動く。しかし返事はない。
「朝ごはん、机に置いておくから」
それを肯定と受け取ったチェシャはそう言い残すと部屋を出た。
*
「それは予想外、とまではいかないか、もしかしたらとは思っていた」
「そうなの?」
ある意味彼らの拠点と化したバー・アリエル。彼らがいつも座るテーブル席は他と同じ四人席だが、彼らが座る場所だけ五つの椅子が置かれている。
「お待ちどうさん、ミルクと麦ジュース。二つずつ──今日はアイスちゃん居ないじゃないか。どうしたんだい?」
注文の品を運んできてくれたサイモンが問う。会話の振り方がぎこちなかったので、注文の数が四つの時点で気にかけてはいたのだろう。
「布団から出てこなかったんだ。一応、朝ごはんは置いておいてきた」
淡白に答えるチェシャ。しかし、声色はいつもより暗かった。
「そうかい、まあそんな日もあるさ。男なんだ、慰めてやりなよ?」
サイモンはそんなチェシャを励ますように優しく言った。
「ってことは今日はお休みー?」
机に突っ伏していたクオリアが顔だけあげる。
「いやチェシャ君以外で第一試練に採取に行こう。昨日ので金がない」
「お人好しも辛いねぇ。仕方ない、付き合ってあげましょう。チェシャくん、アイスちゃんをお願いね?」
「……」
不安そうな顔で頷くチェシャ。彼にはアイスをもとに戻す手段が一つも浮かんでいなかった。そもそもまだ彼女から事情も聞けていない。
「心配しなくてもオレらだけでもよゆーだから安心しなっ!」
ソリッドはチェシャの背をバシンッと叩く。彼の体は揺れたが、声を出すことはない。体の痛みよりも重大な悩みの所為だ。
「そっちの心配じゃないとは思うが……こちらに関しては心配いらない、大迷宮にはいかないつもりだ。第一試練の小迷宮は私達は一度も訪れていないし、いい機会だ」
「……分かった」
チェシャは重そうに頭を縦に振った。彼らはもともと三人組だったのだからチェシャも三人の心配はしていない。
「ありがと。じゃあ、ちょっと行ってくる」
溢すように述べると、頼んだミルクを飲み干し、早足でバー・アリエルから去っていった。去り際の重苦しい雰囲気を纏ったチェシャの後ろ姿を見送った三人は口々に話し始める。
「正直私もあれと戦えと言われたならとうに諦めていたがなぁ」
「あれも噂の神の悪意ってやつなのか?」
「そう言う類ではあるとは思う、倒す必要は無いはずだ。寧ろ、あんなものをどう倒せと」
ボイドは昨日の黒い影を思い出して身震いする。無理もない、人智からかけ離れているそれは人智をよく知るものほどにその恐怖を感じ取れてしまうのだろう。
「あたし達に出来ることは鍛えるのみよ。門番を倒してからこれを支えるのが楽になったしね」
クオリアは背中の大盾を軽く掲げる。屈めばクオリアがすっぽり隠れられるほどで、金鉄製のそれは常人では背中に担ぎ続けることも辛い。それが楽になったのは彼女には大きな収穫だ。
「迷宮内での探索で基礎能力が上がると言うのは聞いていたが、あれほど強い敵ならそれも分かりやすいのだろうな」
「ね、だから塵だとしても積んでおくべきよ」
「だな、私達も行こうか、サイモンっ! 勘定を頼む」
「240ゼルだっ! あの坊主払い忘れていっちまった!」
サイモンがカウンターから叫び返す。
「あのあほぉ……」
「奢ってやりなさいなそのくらい」
「ならば、自分の分くらいは払ってくれないか?」
「やーだねっ」
肩手をおいて宥めてくるクオリアに抗議の目線を向けるが、途端にあっさりと手を離して逃げてしまうのでボイドは静かに項垂れた。
*
「おお、チェシャじゃないか。どうかしたかい?」
チェシャが来ているのは病院、そして入院しているハルクの部屋だった。
「個室だったんだ」
チェシャが隅に積まれた丸椅子を一つ出して座る。人一人の部屋にしては広く、何処かの偉い人の専用部屋に見えるほど。
窓からはセントラルが見渡せる。ハルクの部屋はかなり高層にあった。
「若ぇ奴らが功労者にはそれ相応がどうのとぬかしおってな、お陰でこのザマじゃ」
ベッドに横たわるハルクはずいぶん回復してはいるが、一部包帯が巻かれたままの場所もあった。痛々しい
「左腕がちょいとな、日常生活をする分には問題ないといっとるのじゃがなぁ」
「そっか」
チェシャは鞄から見舞いの林檎の入った籠を机に出した。病院に来る途中に買ってきたものだ。
「おお、すまんのう。ありがたい」
「うん。……せっかくだから話、聞いてよ。色々あったんだ」
チェシャは第一試練での経緯や塔、すなわちグングニルについては隠したまま人に出会ったことや第一試練の話。そして、偉大なる紅との遭遇を。
それらをまるで孫から話を聞く祖父のように、慈愛に満ちた笑みで相槌を打ちながら静かに聞いていたハルクはやがて口を開いた。
「ともかくだ、第一試練を突破したことはめでたいな。良くやった」
布団から右腕を伸ばしてチェシャの頭を撫でた。チェシャは目を見開いた後、顔をやや伏せた。頭を撫でられるのは久しくなかったから。
そんな彼に触れることなく話を続ける。
「偉大なる紅、か。懐かしいのう。儂もあいつと会ったときは肝を冷やしたもんよ。正直ちびってもおかしくなかったのう、はっはっは」
ハルクは陽気に笑う。
「老後の楽しみとして、いつ死んでも構わん身として迷宮に潜っておったが、あいつに出会ってやる気を出す人間の方が少ないだろうな」
「特に、お主のように若く、経験がすくなければなんとも思わん筈がない。何か似たようなことがあったのか?」
顔を上げたチェシャは静かに頷き一つを返す。
「ならば、それからどうやって立ち直ったかを教えてやれば良い、他人の弱さを理解できる奴は自分の弱さを知った上でそれを乗り越えた強さがあるものじゃ」
「……っ!」
ハッとするチェシャ。具体的な方法はともかく光明が見えたのを感じた。ハルクは微笑みかけると、チェシャの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「こんな先行き短い老人に貴重な時間を潰してないで、そいつのために時間を使ってくるんだ。分かったか?」
「ああ!」
撫でた後に軽く肩をたたき、チェシャを見送る。駆け足で病院を出ていったチェシャの顔はとても凛々しかった。
*
太陽が登り切り、少し落ちた頃。昼食をそこらの露店で串焼きを買って済ませたチェシャはハルクの家に戻ってきていた。
アイスの靴は朝と変わらぬ位置にあり、家から出ていないことは把握できた。シンクには朝食に使った皿は水に漬けられていた。どうやら朝食はとったらしい。
チェシャは二階に上がってアイスの部屋のドアをノックする。
相変わらず声は帰ってこない。
「……起きてる?」
「……」
「……開けるよ」
ドアが開かれる。ベッドの上には朝とは少し形の違う布団の塊が。
それに声をかけず、チェシャは机の前にある木の椅子をベッドの近くにまで寄せて腰掛ける。
「俺さ」
何の前振りもなく話し始める。
「ここから結構遠い村に住んでたんだ。で、俺はそこの村長の息子、長男だった。弟が1人居るけど、まあこれは関係ないか」
布団の塊がもぞもぞと動く、少女の体を覆い隠しているそれから、細い足が覗いた。足先はチェシャに向けられている。
「俺の村ってさ、みんな──じゃない、男らみんなが槍を覚えるの、女は弓をある程度習う、村の畑とか牧場に魔物とかが襲ってきたときに戦うために」
「村長、俺の父さんは槍が凄い上手くて、憧れだった。俺もああなりたいって──かっこいいんだよ、ほんとに」
彼の言葉は何かを諦めている節があった。
「長男だからさ、村長を引き継ぐのは俺の予定だった。だから父さんも俺に槍の特訓、たくさんつけてくれた」
一呼吸置いて続ける。次の内容に心の準備をするように。
「でも、父さんって俺が思ってた以上に強くて、俺は思った以上に強くなれなかった」
「今考えたらさ、父さんも焦ったのかな。だんだん特訓が厳しくなっていってさ、でも俺はその特訓について行けなかった。村の若手の中じゃ一番強かったのに」
「15歳になったら男は村を出て一年以上修行に行かなくちゃいけなくて、村を出る前に父さんは最後に本気で稽古をつけるって言ってさ」
チェシャは視線を自分の右手に落として、また話を続ける。
「槍を持って父さんと向かい合ったら手が震えてさ、いつもと違う父さんの何かに俺は足も腕も動かなかったんだ」
探索者の壁を一つ乗り越えたからこそ、今のチェシャにはあの時の父が獣王よりも強いと思えた。
「一瞬で詰めてきた父さんに転ばされて、喉に槍を突きつけられて、終わり。あっという間にってやつ。見るだけじゃわからないけど、基礎が完成されてるほど一つの動きの無駄が減るんだ。単純だけど、だから強い」
「その時に父さんが“期待外れ”だって言ったんだ」
期待外れ──彼にとっては印象に残る言葉だったのか、やけに強調された言い方だった。
「そのときさ、俺が今まで何のために生きてきたか分からなくなってさ、目的を探すためだけにここまできた。何かあるかなって。しょうもないことかも知らないけど、さ」
「そうして色々やるうちに今のみんなと会って、あの時の父さんと似た何かを持つ獣王に会ってさ、気づいたんだ」
彼の声が一段高くなる。同時に、硬く締められていた頬が緩む。
「一人で最強で無くて良いしさ、強くなることを目標にするんじゃなくて、したい事をする為に強くなるんだって」
「だから、怖い奴がいてもみんなでなら怖くない、って感じ? 言ったことなかったけど、アリスが横にいてくれるの、すごく助かってる」
そこまでいって少しの沈黙が出来た。
だからこそ、布団が擦れる音は良く響いた。
「……ははっ──何が言いたいのか分からなくなってきた。格好付けたけど、意味なかったかも」
そう言ってから立ち上がるチェシャ。薄く笑って自嘲すると、椅子を壁際に戻す。
「夜まで迷宮に行ってくる。夕食は作るから買いに行かなくていいよ」
彼が言い残した言葉と共にドアが閉じる音が部屋の中にこだまする。
しばらくして、布団から乱れた亜麻色の髪が現れた。