人よもがけ、己が正義のために
琥珀の光が龍を貫く光景を天使は空から見下ろしていた。
実体を持つ琥珀の槍は龍の腹に刺さったままであろうが、魔力を伴った光は龍を貫いて彼の者の体内を荒らしたに違いない。
──癪な話だが、あれは私でも耐えられるか怪しいな……。
天使──リレイと名付けられた彼女は引きつった笑みを浮かべる。
烏路から頼まれ、龍と相対したリレイはあの紅の龍と対話し、近々現れる探索者たちに試練を与えてもらうことを約束させていた。
龍の存在意義ははるか昔に起きた天使と悪魔の戦争の仲裁。天使と悪魔がこの世界から引き下がってからは人の無益な争いに裁きを与える役割を担っているらしいが、リレイは詳しく知らない。
ともかく、この世の四龍は天使と悪魔をとめるため、その上位存在としてリレイを含めたすべての天使と悪魔を蹂躙出来る力を持っている。
その龍が人間と対峙し、ましてや戦うなどあり得ないのだ。
故に、天使が龍に頼んだ人に試練を与えるという約束は、龍からすれば鼻で笑える戯言だ。
『それは誠か? 悪魔ならともかく、天使が冗談とは蒼との肴になりそうだ』
「いえ、嘘ではありません」
『ふははははッ! むしろ興味が湧いてきたな』
龍の持つ巨体を晒すだけで大半の人間の心を折ることが出来る。
現れるだけで動けなくなる下等生物に試練も何もないだろうと龍は笑っていた。
それほどの絵空事だからこそ、話を引き受けてくれたのかもしれないと、リレイはぼんやりと以前の会話を思い返した。
──その結果がこれだというのだから、全く人間というものにはつくづく驚かされる。
結果として、彼らは龍に十分な一撃を与えてみせた。彼らのことを知らぬ天使や悪魔が見れば腰を抜かしても可笑しくないだろう。
しかし、リレイから見れば妥当な結果でもあった。
かつてクロウと名乗った彼が作り上げた対厄災殲滅兵器、偽黒騎士を撃破せしめた彼ら。一人欠けているが、上位存在である天使、悪魔一人程度の戦力ならば十分敵うだろう。
基本能力こそ劣れどもある一点において上位存在に匹敵する。
防御、支援、殲滅、突破。
……支援を担う者に関しては能力面では劣ると思われる。が、凡人がこの戦いに参加できているという時点で評価出来た。
彼らが少女を失い、取り戻すためにここに来た過程。
リレイは烏路から見せてもらっていたが、どうも世界のためといった英雄的思考ではないらしい。
世界は二の次で、彼らが──あの騎士の少年が求めているのは少女だと烏路が言っていた。
何故烏路にそれが分かるかは知らないが、歳の近い別の少女と買い物をしていた光景に大笑いしていたことは、リレイの脳裏に焼き付いていた。
彼に尋ねると男にとって大きな買い物だと言っていた。
意味は分からないが、とにかく意味のある物だと彼女は考えている。
それと、
「大衆の正義ではない、彼らの正義のために彼らはもがいているのさ」
と烏路が言っていたのも、リレイにとって印象深かった。
天使や悪魔のような上位存在は単独でも十分に強い。だが人は違う。
群れることで成長して来た生物だ。
それが群れの正義を無視し、個々の正義を重視した。
道を違えた結末がどうなるのか、リレイは興味深かった。
リレイが考えるこの先も含めた結末の予想は負け戦。もしくは欠員のある結末。
だが──
──見てみたい。もがいた彼らがどうなるのか。
その一心で、彼女は龍と人の戦いを眺め続けた。
*
土煙が晴れる。
依然として龍の巨体は人の前にそびえたっている。
だが、四人の探索者が与えた確かな傷。
腹に開けられた小さな穴から漏れる光の奔流が確かな結果を見せている。
「……血、流れないのね」
『物体に縛られるのは下等生物故だ。』
「気持ちわりぃな」
『……』
クオリアの呟きに龍が答える。
後に続いたソリッドの率直な感想。龍は不満げに鼻息を鳴らした。
巨体の鼻息は人にとって強風で、彼らの髪が大きくなびく。
存在の格差がありありと示されていた。
だが、それで戦意を喪失するなどあり得えない。
「力。これじゃ足りない?」
試練がどのようなものかは分からない。だが、チェシャも目の前の巨体を倒すイメージはとても湧いてこなかった。
故に終わりを求める質問がチェシャの口をついて出る。
『否。十分であることは解した』
力を認めたと言う龍の言葉。人の身にはあまり余る名誉の証明。
だが、探索者たちの顔はむしろ険しくなる。額面上は確かに認めていても、声色は納得がいっていないと告げていた。
『されど、試練は終わらぬ』
その声には喜色が乗せられていた。
龍は久しく戦いというものを忘れていた。
もとより、調停者として生み出された力ある存在。
しかし、調停者同士の戦いは認められず、許されたのは天使と悪魔を蹂躙することだけ。
天使と悪魔の中にも龍に一矢報いる者もいた。
それらとの戦いは非常に何かをくすぐった。自らの命が脅かされることにむしろ喜びを感じた。
提案を持ち掛けてきた天使に龍は深く感謝する。
龍は安寧を作る存在だが、安寧に飽きていたのだ。そして、今も腹から伝わる鈍痛が龍に喜びを与えている。
つまるところ、私利私欲で龍は試練を続けた。
上位存在の無茶ぶりに探索者たちは顔を歪める。けれど、絶望に歪んではいない。呆れはすれども、戦意も衰えない。
ここに来て今更引く選択肢などないのだから。
『さぁ。見せてくれ。汝らの力をッ!』
己の衝動のままに、興奮のままに龍が咆える。
意図せずして放たれたその轟きは、轟咆哮と呼ばれる調停者の力の一端。
荒野に音の爆撃が響き渡る。ただの音でしかない龍の言葉が大気を伝い、雪崩れた岩の残骸を粉々に砕く。獣王の咆哮など比にもならない兵器が如き一撃だ。
「──ちょッ!? アイリスッ!!」
最前線に立つものとしていち早く危険を察したクオリアが喜びの混じった轟咆哮を受け止めた。
拡散する音の衝撃がクオリアの盾を、体を揺らす。
「~~~ッ!!?」
頭が揺れる。脳が震える。三半規管が狂わされる。一瞬にして彼女の視界が滲みぼやけ、立つことすらままならない。
音の衝撃がクオリアを通り過ぎ、仲間を守り切った彼女は地に膝をつく。
がしゃんと無念を嘆くように鎧が鳴った。
「クオリアッ!?」
「構うな! チェシャ君は腹を狙え! ソリッドは増幅器を準備しろ! クオリアが居なければ炎は防げんッ!」
「……ん!」
「わ、分かった!」
取り乱すソリッドを見てボイドが声を張る。
チェシャも僅かに動揺したが、彼の指示で地を蹴って姿をかき消す。
二人が動揺していたことと、白衣がひどくなびいていたのもあり、ボイドの足が震えていたことに気付くものはいない。
「駆動開始……」
『好きにはさせんッ!』
もう龍に傲慢はない。試練として初めから盤上を壊すことはないが、悠々と準備を整えさせるつもり気などとっくに消え失せている。
一切の油断なく、自らの尾を魔力を蓄えだした者へ振るう。
「……!」
後衛に迫る危機。
龍に迫り地を駆けていたチェシャが兜の仲の顔色を変え、前進をやめて琥珀の槍を投擲する。
だが、龍鱗の残る尾が止まるはずもない。ほうき星の如く宙を駆けた槍はあっさりと弾かれる。
「──やっべ」
「頭は守れ!」
避けられぬことを悟った二人がクオリアを庇いながら身をかがめる。
目に見えていた脅威をどうすることも出来ず、チェシャの後ろに居た三人はあえなく尻尾に吹き飛ばされた。
「……!!」
一瞬勢いが緩むもチェシャは足を止めずに龍へと接近する。
ここで下がった所で龍が追い打ちに来るだけ。ならば前に三人の無事を祈って進むほかない。
『我が息吹を、超えてみせろ!』
龍の口元から紅い炎が溢れる。
炎の元に酷く揺らめく魔力の塊を察知したチェシャが苦笑する。
先程よりも魔力の密度が増していた。
溢れかけた炎が龍の口から放たれる。
口元で留まっていた火炎は瞬く間に扇状に広がり、チェシャを包み込もうと迫りくる。
回避は困難。ならば、
──突っ込む!
龍の息吹を前にして尚勢いを緩ませるどころか、加速したチェシャが炎へと突貫する。
そして、チェシャの赤髪よりも紅い炎が彼を包んだ。
──いった……
余りの熱量に熱さを通り越して痛みに変わった息吹の中を彼は走り続ける。
掌握魔力の鎧を纏って尚、龍の息吹は鎧越しに痛みを叩きつけてくる。
氷炎大蛇の息吹も防ぐ鎧が頼りにならない。
それでも、ここで勢いに負けるわけにはいかない。槍を振るい、少しでも押し寄せる息吹を押しのけ突き進む。
勿論、人と龍の戦いを眺めている天使から見れば、生きている時点で褒め称えられる。だが、探索者たちが求める戦果は名誉でない。
「……っぐぅぅッ!」
どろりとした感触が体を伝う。
恐らく皮膚のどこかしらが熱量に負けて爛れたのだろう。
気持ち悪い感触と絶叫したくなる痛みを堪え、チェシャが槍を突き出しながら更に加速する。
手持ちの装備やウエストポーチなどが燃え尽き、灰に化すのを無視して火の海から飛び出した。
視界が紅から晴れる。
次に捉えたのは龍の前足そして腹。目的の傷口まで十数歩。
傷口からは雲に覆い隠されようと地上を照らす星空のごとく、光の礫が龍の命として流れ落ちる。
血の代わりの光の奔流、魔力の流れがチェシャの目にはやけに綺麗に映った。
それは試練を乗り越え、次の試練にたどり着いたときの満足感のような。
急斜面を乗り越え、山の頂上に着いた時のような。
そんな感覚に近いと頭の片隅でチェシャが思う。
思考の傍ら、彼の体は先程と同じように全身をばねの如く縮め、琥珀の槍を撃ち放った。
『……ッ!!!』
二度目の攻撃。傷口に刺さった槍は一度目よりもはるかに痛いはず。
だが、龍は小さく声を漏らすのみ。むしろその声には喜色が混じっていた。
『それでこそ戦いよッ!!』
前足を持ち上げた龍が力強く振り下ろす。
遥か小さき人の体は簡単に宙へと跳ね上げられる。
空を舞うチェシャは再び炎を溢れさせる龍の口元を視界にとらえた。
二度まともに喰らっては耐えられない。
彼の本能がそう告げていた。
その本能に従い、足元で魔力を爆砕させて吹き飛ばされるようにその場を離脱する。
急加速によって生じる大気の反発に揉まれつつ、扇状に広がる龍の息吹を視認する。
少しでも迷っていればあの炎に包まれていたに違いなかった。
地面に四肢を着いたチェシャは一度息を吐く。
龍の攻撃はどれも反応できない速度ではない。しかし、反応できてもどうにもならない範囲と、一度受ければどうにもならない威力を持つ。
加えて、何とか作り上げた腹の傷を攻撃するにはどうにかして龍の攻撃を真正面から防ぎ時間を作る必要があるのだ。
防ぐとなればクオリアが居なければ話にもならない。
鎧に身を包んでいれば何とかなるのでないかと、チェシャも無意識に期待していたが、先程の炎で二度目はないことを悟っている。
偽黒騎士と戦った時に使っていた琥珀色の霧。
チェシャ自身が意識していたわけではないが、傷を癒す作用があったのは彼も認識している。これを使いこなせれば一人でも戦えるのだろうが、今はからっきしだ。
せいぜい一点突破の攻撃力を持つ琥珀の槍を生み出す程度。
無論、この槍のお陰で龍に手痛い一撃を与えられるのだが、掌握魔力の性質を良く知らないチェシャにとっては意味のない話である。
彼が分かっていることと言えば、今から持久戦が始まるということだけだ。
「……ふぅ」
気を引き締めなおし、深呼吸をしたチェシャは接近を諦め、足の甲から生やした黒槍を握る。琥珀の槍は威力こそあれその分消費も激しい。
今からやることでは少し勿体なかった。
『……?』
龍は槍を持ち換えたチェシャを訝し気に見つめる。
次は何をしてくるのだろうという期待と警戒で龍の瞳が楽し気に揺らいだ。
龍の顔は遥かに高い位置。見上げなければ視界にすら入らない。見上げても巨体の陰で良く見えないが。
チェシャからすれば龍がどのような感情を抱いているかなどどうでもいいことで、気にする余裕もない。
彼が今考えているのはどのように時間を稼ぐことだけだ。
足を曲げ、肩を引き絞る。槍投げの態勢。
溜めた力を吐き出して、一条の黒槍を投げる。
狙うは龍の腹。琥珀の槍の劣化品でも馬鹿に出来ない威力はある。
傷口なら尚のこと。
龍もそれを理解し、前足を槍の進路上に重ねることであっさりと弾く。
だが、巨体は鈍重だ。龍が前足を動かす間にチェシャは位置を移動し、槍を投げる準備を整えている。
投擲。
再び前足で弾く。
再度投擲。煩わしいと龍が尻尾を薙ぎ払って槍ごとチェシャへ攻撃する。
跳躍、空へと逃げる。
そして空中から第四射を放つ。
しかし、角度的にも尻尾を振るった龍の姿勢では腹には当たらない。龍鱗に弾かれ槍はあっさりと地に落ちる。
チェシャから有効打が出ることはない。
しかし、龍に圧力を与えることは出来る。隙を見せればいつでも攻撃してやると、意思表示は十分に出来ているのだ。
龍もそれを分かっている。
別にチェシャを倒せないことはない。調停者として与えられている能力を使えば、いとも簡単に突破できる。しかし、それは人に課す試練ではない。
理性の限り、調停者ではないただの龍が持つ能力のみで戦っていた。
龍はつまらない膠着状態に内心辟易しつつも、これも醍醐味だとしばらくチェシャとの駆け引きに付き合い始めた。