森に吹く新緑の息吹
セントラルからは試練の空間の様子は全く見えない。しかし、街一つを容易に囲めるほどにとてつもなく大きいことは外からでも分かる。
チェシャは景色の変わり様に驚いて辺りをしきりに見渡している。どこをみても森、森、森。
視界全てが緑にさめられているこの広さなら樹海と言うべきか。
ただの森ならばそう珍しくはない。だが、綺麗ではないが妙に整った並木道、往来する他の探索者たち。誰かが通るために作ったような道があるのが不思議だ。
それとは別に樹海の澄んだ空気と吹きゆく風。彼の体を撫で、興奮に震わせる。少し遠くには川も見え、とことん自然が広がる世界。人々の生活の匂いからうってかわり、土臭い薫りが彼の鼻をくすぐった。
箱庭の世界というべき空間を取り囲む断崖絶壁。
とはいえ四方の内残りの三方は全く見えないので広いのは中からもよく分かる。
「東へ向かうぞ。昨日教えた小迷宮、子熊の遊び場がある」
辺りを興味深そうにしきりに見渡してはしゃいでいたチェシャはその声に動きを止め、頷いた。
多くの探索者が踏みしめた土を同様に踏みしめ、草花を押し除け、畦道を進む。
しばらく歩くと一匹の人間の幼児程度の大きさのネズミを見つける。木の根元に落ちた木の実を齧っていた。
木の実の殻を削ることに夢中になっている大ネズミはチェシャ達の存在に気付かない。
「大ネズミか、一匹なら丁度いい。お前さんならあれぐらい戦ったことがあるんじゃないかい」
「大丈夫」
「よし、ならやってみろ」
チェシャは背中の鉄槍を構え、静かに大ネズミへにじり寄る。
確実に仕留めるため槍を長く持つことで、大振りの一撃必殺を狙う。
茂みで音を立てないようにしながら大ネズミの背後にある木々に隠れる。
彼の歩みは非常に洗練されていて、木の根や起伏のある地面という歩きにくい森の中で動く事に慣れているように見えた。
呼吸を整えた彼は、大きく振りかぶって渾身の一突き。大ネズミの脳天を捉え、槍が刺さった場所から漏れるように血が噴き出す。
しばらく槍に突き刺されたままジタバタしていた大ネズミはその後動かなくなりやがて溶けるように霧状に霧散した。
その様子を見届けたチェシャは獲物が溶けて消える不思議な光景に困惑しながらも、小さく息をついて槍についた血を振り払う。
「ふむ、上出来かの。だが奇襲なら当然でもあるさね。一撃で仕留めれなかった敵をどうするのかもある程度考えておけ」
チェシャは大ネズミの肉を貫いた感覚が残っているであろう手をじっと見つめる。
普通に生きていれば、慣れることのない感触だ。
「直ぐに慣れろとまでは言わないが探索者ならその感覚は慣れるべきものさね。それが無理なら諦めるしか無いがね」
「慣れてる」
「そうか、今日は無理をする日では無いから無理はならちゃんと言いなよ」
チェシャは深呼吸をしたのちに答えた。彼にとってこの感覚はむしろ好みですらあった。
──それを好む自分は嫌いだったが。
そうして二人はまた東に歩き、周りの木より飛び抜けた大樹の元にたどり着いた。大樹の洞には人が入れそうな穴と地下への階段が見えていた。
「これが迷宮……」
ポツリと溢すチェシャ。階段は場所に対してやけに綺麗で、人為的なものを感じさせる。
「そうさね、とはいえ試練の特徴として基本的には森をベースとした試練なら森に関連した迷宮になっているよ。この空間も迷宮の一つみたいなものだけどね」
二人はチェシャが先行する形で階段を降りてゆく。二、三十段ほど降りるとハルクの言う通り地上と変わらない森に出た。
地下にいるはずなのに存在する太陽。それから降り注ぐ光が森を照らし、木の影に隠れるチェシャ達に木漏れ日が差し込んでいた。
「此処には衛兵が巡回してるけど、いつでも死ねる場所さね。常に一定以上の警戒をしな、気を張り過ぎない程度にね」
と、注意した後、さらに付け加えた。
「人間は休憩も大事さね。今回は休憩一回した後に帰る予定だよ」
チェシャは静かに頷く。
森が作り出す光景は本来であれば違和感などないが、木々で通りやすい開けた道が形作られているのはどこか不気味さを感じさせる。
勿論茂みを突っ切ることは可能だが、危険の方が大きい。此処は常に死と隣り合わせの場所だ。
「いた」
チェシャの視線の先には二匹の大ネズミ。奇襲で一体は仕留めれても二匹目は考えないといけない。
一匹目を確実に仕留めようとすればするほど槍を深く刺さないといけないので、抜くのに時間がかかる。
チェシャは少し思考し、その場を飛び出す。
音を立てずに地を蹴る疾走から鮮やかに繰り出される一突き。それは見事に大ネズミの脳天を捉えた。
もう一匹が驚いて高い声を上げた後、怒ったような荒い声で噛みつこうとチェシャに飛びかかる。
「はッ!」
チェシャはまだ大ネズミが消えないまま突き刺さった槍で薙ぎ払った。一種の鈍器と化した大ネズミの刺さった槍が二匹目を吹き飛ばす。
血は付いているが、穂先の大ネズミが消えた槍で体勢を崩した二匹目に突き刺すが、これは脳天には刺さらず腹へと命中。
急所では無いため必死にもがく大ネズミ。
チェシャはそれに対抗するようにさらに力を込めて槍を動かし、深く差し込まれた。腹に風穴が開いたであろう大ネズミは程なく霧散した。
霧散した大ネズミだったものを見届けた彼は静かに息を吐く。
肉を貫く感覚と獲物が抵抗をすること。その二つは慣れていたが、積極的に殺意を向けてくる獲物は不慣れだった。
「単純だが問題はないさね。次へ行こうか」
森が意図的に作り上げたような整った畦道を進む。二人の間に言葉はなく、探索に意識を割いていた。
次に見つけたのは大ネズミと同じぐらいのサイズの蝶々。羽は紫紺に染まっていて、毒々しい色をしている。
「毒アゲハ……」
「やつの鱗粉は食らうと危ない。羽を破るか、電気が通るから魔術師が居れば楽だけど、今は羽を破って弱ったとこを倒すべきさね」
チェシャは頷くと毒アゲハのサイズに似合う花に止まってる羽目がけて槍を突き出す──
が、毒アゲハはそれを察知して避けた。
ひゅんと空を切る音が虚しく響いた。
そしてお返しとばかりに宙を舞いながら鱗粉を振り撒き始める。まるで肉に胡椒をかけて味付けするような撒きっぷりだ。……ここまでやれば辛いを通り越しそうではあるが。
「──っ!」
流石に近寄れず、たまらず舌打ちと共に後退するチェシャ。毒アゲハはそれに構わず鱗粉を振り撒き続ける。
流石に槍のリーチと言えど空中で狂ったように振り撒く鱗粉には当たってしまう。
しかし、動かないならただの的。ニヤリと笑みを浮かべたチェシャは槍を片手で持ち、弓のように引き絞って投げた。
その場で鱗粉を振り撒く毒アゲハの複眼に命中し槍と共に墜落。霧散した。
「いい判断さね。だが武器を直ぐに投げるのは良くないね、次からは投げナイフでも携帯するべきだけど、お金のことを考えると微妙か。とりあえず毒アゲハの鱗粉は売れるからこの瓶に詰めな」
ハルクに携帯しろと言われた厚手の軍手を身につけてチェシャはせっせと鱗粉を瓶に詰めた。
毒アゲハの鱗粉は毒薬を作るのに使われ、相手の餌となる食べ物に混ぜ込み相手を弱らせてから仕留める手法などに使われる。
癖がなく使いやすいので他の毒性の魔物、迷宮生物の毒よりも使われやすい。
しかし集めるには毒アゲハに鱗粉を撒き散らすように適度に刺激しなければならないが、これはリスクを伴う。
又、強い迷宮生物でもないので一撃で仕留めやすいことも起因して需要と供給が程よく成り立っている。
と、ハルクは分かりやすく語るが、その手の話はチェシャは苦手らしくあまり聞いてはいない。
ハルクは苦笑いをするに留めた。同時に教えなければならないなと呟く。
子熊の遊び場にはこの小迷宮の名前に由来する子熊のリトルベアの他、大ネズミと毒アゲハが生息する。
「リトルベアはお前さんの槍じゃちときつい。今回は無視するさね。まあ、リトルベアは衛兵の監視対象だから気にするほどでは無いよ」
チェシャはリトルベアとは出くわさないようにしながらさらに大ネズミ二匹の組と毒アゲハ二匹の組を倒した。
毒アゲハ二匹は一匹を石ころで飛行を不安定にさせている間に、もう一匹を速やかに殺してから倒す。
これによって鱗粉を撒かれる前に倒すことができた。
「槍にしても石投げにしてもお前さんは体幹が良いな。その他の技術は新人らしいが体幹は直ぐにはつけられないからな」
「村で修行したからだと思う、思います」
言い直すチェシャにくすりと笑うハルク。
「ハハッ。そこまで気を使わなくて良いさね。どうせ直ぐに同業者になるんだから。……さて、そろそろ戻ろ──ん? あれは……?」
ハルクが目を向けた先には衛兵と涎を垂らしてそれを追う赤い大熊がいた。逃げる衛兵は死に物狂いで情け無い顔を晒している。
「たっ、助けてくれぇぇ!!」
「……ハルクさん、あれっていいの?」
ハルクを見て藁にもすがりたいと悲鳴を上げながらこちらに走ってくる。衛兵に怪訝な顔をするチェシャ。
何か事情があったのは見てのとおりだが、やっている事は迷宮生物のなすりつけ。
貶されてもおかしくは無い。しかし、そんなことを死の淵で混乱している人間に言ったところで意味もない。
「良くはないが、あれは多分異常個体。リトルベアはあそこまで大きくならないし、本来は茶色さ」
「異常?」
チェシャは淡白におうむ返しをする。確かに子熊と呼ばれる割には体格はどう見ても成体の熊のそれと同じにしか見えない。
「帰ってから説明するさね。とりあえず此処で待って……ついでだ、正面からの戦いも見ておきなさい」
そう言うと背中のチェシャの物より質が良さそうな槍を取り出して歩いて行く。
「承ろう」
「すっ、すまない! 礼は必ず!」
逃げてきた衛兵もハルクと一言交わしてチェシャの所まで来た。肩で息をする衛兵にチェシャは腰につけている竹の水筒を衛兵に差し出した。
「いる?」
「た、助かります」
よっぽどの事だったのか躊躇なくその水筒を喉を豪快に鳴らしながら飲む。
水筒の中身はあっという間に底をついた。
「あちらは……大丈夫の様だね。さていい見本になれるかねぇ」
口調は穏やかだが槍を構えた姿には隙がなく、かと言って気を張りすぎていない良い意味での弛緩した構え。
長い年月を生きてきたが、後の時代を生きる若者の見本になるため彼は内心張り切っていた。
赤いリトルベアは雄叫びをあげながらハルクへと迫る。それに対してハルクは少しずつ向きを変えながら後退して行く。
子熊のはずなのに全然そのサイズには見えない長いリーチを生かした腕から繰り出される爪の一撃。
それを余裕を持って後退しながら避けてゆく。
避けれる続けることに痺れを切らしたリトルベアは遂にハルクに体当たりを仕掛ける。
同時にハルクはリトルベアに背を向け駆け出し、木の前で槍を地に突き立て跳躍。
木を蹴ってさらに上に、そしてリトルベアの方向へ跳躍する。三角跳びだ。
標的を見失ったリトルベアはハルクではなく木に激突する事になり、木をへし折った反動で大きくのけぞるリトルベア。
その隙を見逃さず揺らぐ頭に槍が突き刺さる。
ねじれを加えてさらに傷を負わせてから槍を抜き、痛みで暴れるリトルベアから離脱。
狙いも定めず暴れるリトルベアの腕と足、合計四箇所に浅い突きを入れて動きを鈍らせる。
血を流しすぎたリトルベアは動きの鈍ったままハルクに襲いかかるが擦りもしない。
それでも、闘争本能は消えないらしく、弱々しい動きで引っ掻き、突撃と当たらない攻撃を何度も振り続ける。
力が入らなくなる子熊の体。遂に足を挫き、
──ドスンッ。
どんどん鈍くなる体はやがて土煙を撒き散らして地に倒れた。
ハルクは動かなくなったリトルベアの手を素早くナイフで引き裂く。
子熊には似合わないサイズの真紅の掌底が地に転がった。
手を引き裂かれて間もなくリトルベアは霧散した。