偉大なる紅
開戦の合図は龍の咆哮。
大気を震わせる音の衝撃は炭化していた瓦礫を粉々に砕いてしまう。
その様子は獣王の咆哮を思い出させる。
黒騎士に姿を変えたチェシャは自身の血が湧き上がるのを感じた。
かつては忌まわしかった血が強敵と出会い、恐怖以上の興奮を彼に与える。
「ッ──!!」
興奮のまま、黒騎士が飛び出した。
震える大気をかき分け、疾走する。黒の鎧を音の衝撃が揺さぶるが、中身も含めびくともしない。
迫るチェシャを前に、龍が首を持ち上げる。
そして、喉を膨らませた。口元からは深紅の炎が垣間見えた。
分かりやすい前兆。だが、巨体から放たれる炎の規模は今まで見た迷宮生物の息吹よりも大きいだろう。
チェシャは警戒を緩めずに、槍を引き絞る。
そして、龍が口元の炎を噴き出した。扇状に広がる炎は上方向以外への回避を許さない圧倒的な規模で彼へ降りかかる。
炎を睨むチェシャは逃げることもせず、構えた槍と共に揺らめく業火へと立ち向かった。
黒騎士の一閃と龍の息吹が激突する。
「────」
決着は一瞬だった。
声にならない呻き声が兜の億から聞こえる。
槍と共に炎を潜り抜ける算段だったはずが、勢いに負けて押し戻されたのだ。
龍の業火がチェシャの鎧を紅に染めていく。
すぐさまクオリアが間に入り、アイリスの盾と共に炎を遮断する。
咲いた花弁の盾は彼女のごと業火の勢いに押され、地面を削り滑る。
「けっこー……きついじゃないの……っ」
花弁の盾の裏、額に汗を流しながらクオリアが笑う。
軽い口振りとは裏腹に彼女の笑みはひきつっていた。
そこへさらに分け入る火炎。
ソリッドの魔術だ。大雑把なものではなく、丁寧に収束された一条の火柱。
轟々と荒れ狂う赤と紅が激突する。
龍のものと比べるとはるかに弱いそれも、十分な援護になる。
普段であれば純粋に力負けしていたが、収束された炎はわずかながらも息吹の一部を押し戻した。
盾に掛かる負荷が弱まった隙にチェシャとクオリアが離脱する。
「……ごめん、調子に乗った」
「無理はするな。相手が相手だ」
龍は四人を依然として見下ろし続けている。
動き出す様子はない。あくまでも迎撃に徹しているようだった。
「……」
チェシャが龍に黒槍を向けながら思考する。
先程の炎は不思議な重みがあった。風圧とは異なる何かの重み。
炎に質量などあり得るはずがない。
だが、それは果たして龍の息吹にも適応されるのかも分からない。
物事の事象や原理について、チェシャは何も知らない。
分かるのは龍の息吹は簡単に貫けるものでないということ。
「行ってくる。援護お願い」
動かなければ始まらないと、今度は鎧を琥珀に染める。
掌握魔力で強化した鎧を身に纏い、チェシャが再び飛び出した。
疾走する彼を追って、熱線が龍へと飛来する。
ボイドの援護だ。
しかし、熱線はあっさりと竜鱗に弾かれた。
今更ながら、アリスの援護が恋しくなる。
ボイドはチェシャの機敏な動きに対応するのは難しいだろうし、火力の面でも乏しい。
彼は戦況を動かす鍵を考えるのが役割であって、直接的な作用をする人間ではないのだ。
『笑止!』
低い声が降りかかる。
遅れて地を削る音がチェシャへと近づいてくる。
龍の尾を使った薙ぎ払いだ。
身をかがめ、跳躍することで回避する。
チェシャの真下を太く長い鞭が通り過ぎた。
豪風が体を煽り、削れた破片が鎧を叩く。
ぴちぴちと痛くはないが不快な感触に目を細めつつ、着地と共に疾駆する。
龍の喉が膨れ上がる。龍の息吹の前兆。
同時に、後方で魔力の高ぶりを感じた。
何が起きるかを予期して、その場を飛びのく。
数瞬。彼のいた場所で激突した爆炎と息吹。龍の息吹が拡散しきる前に後方から飛来した火柱が抑えにかかる。
一秒にも満たない時間。だが、炎は確かに息吹と拮抗を保った。
その時間を無駄にしないよう、残像を残してチェシャは走る。
『ほう』
感心が聞こえた。
龍は目の前の彼が人の身において、十分な力を持っていることを察した。
勿論、龍から見て下等生物である人の身において、だが。
激突の余波を受けた彼に、素直な感動を気にする暇もない。
龍へと近づいたチェシャが黒槍を一心のまま振るう。
『だが、所詮は人の子よ』
黒槍は龍に命中した。しかし、龍鱗を傷つけることはなかった。
龍が笑う。彼の槍など気にも留めない。
龍にとってこの世で鱗に傷がつくなどあり得ないのだ。
「──ッ!」
挑発に乗せられたチェシャが槍を琥珀に染めて第二撃目を振るう。
きり、と引っ掻いたような耳障りな音を立て、龍鱗の上を槍が滑る。
弾くには至らず、槍が滑った龍鱗には細い線が僅かに、けれど確かに残っている。
『……ほう』
龍が再び感嘆の息を漏らす。
遥か上位の存在である彼にほんの、ほんの僅かながら傷を作った。
それは大健闘と言ってもいいほど。
この世で単なる人の手が造った武具であれば、どうあっても勝ち目はなかったに違いない。
存在の格が違うものに攻撃を通すのは龍に挑む探索者たちが思っている以上に難しい。
僅かだろうと、傷を負わせたのは掌握魔力の願望を押し通す力故のことだ。
そして、龍は知らない。ここにはその力を持つものが三人居ることを。
再び地を削り、巨体の尾が振るわれる。
いくら傷を負わぬからと言って、好きにさせるつもりはない。
むしろ望んでいるのはこれ以上だ。
自らより下等な生物に信頼を見せた上位存在の推薦なのだから。
「アイリスッ!!」
盾を起点に花開くアイリスの花弁。
青から紫にかかるグラデーションを見せ、障害を打ち砕く尾を真っ向から受け止める。
──ミシ……
激震。亀裂。崩壊。
数多の猿たちの攻撃をものともしていなかったアイリスの花も、龍の尾相手は流石に分が悪い。
敗北は必至。
だが。
数瞬、拮抗はする。
「──ぁぁっ! ──ぉ……か、えし!!」
数秒に満たぬ時間の間、龍の尾を抑え込んだクオリアは花弁の破片と共に吹き飛ばされた。
宙を滑り、血に濡れながらも彼女の口は弧を描く。
そして、声を掠らせながら叫んだ。
砕け散った破片。その全てが浮き上がり、弾幕となって龍へ反撃する。
『肉を切らせて、なんとやら。だったか』
龍が鼻でせせら笑うように、一人呟く。
クオリアの渾身の反撃が龍鱗に傷を与えることはなかった。
「あら、良いのかしら。骨を断つのはあたしじゃないわよ?」
「言ってることはともかく、絵面がダサいぞ」
「うるさいわね。さっさと運びなさいよ」
ボイドが腕の血管を浮き上がらせ、クオリアを運んでいる。
龍からしても見てくれが悪い光景だったが、わざわざ龍の尾の範囲から出ているクオリアを運ぶ意図が分からなかった。
「おっしゃあぁ! フルパワー、たんと喰らいなッ! 業火球ッ!! 」
勿論、全力で気を配っていたならばすぐに気付いたであろう魔力の揺らぎ。
あまりに龍自体の存在が大きすぎたが故、気付けなかった魔力の練り具合。
一切合切を受け止め、蹴散らそうとしていたからこそ見逃していた。
『……ここまでとは』
龍はあの天使が目の前の彼らを推した理由を悟った。
これならば、一つ上の存在程度、余りあって手が届く。
ソリッドの手から赤い線が伸びたと思えば、龍の巨体の半分を埋め尽くす深紅の半球が現れる。
音もなく半球が龍の息吹のような深紅の輝きを放った。
龍は久方振りに温度と呼ばれるものを感じた。
だが、所詮は春の陽光のような温かさであり、痛覚と呼ぶには至らない。
半球が消えた後には変わらぬ龍の巨体が残っている。
しかし、半球に覆われた部分はすべて黒く染められていた。
表面が炭化しているのだ。
さらに、半球の中心部──龍の腹にあたる部分はぽろぽろと龍鱗が崩れている。
最大火力を受けてようやく、龍の外側の守りを打ち崩した。
大したことのない結果。無論、相手が龍であることを踏まえれば大偉業と称えられるべき所業だ。
『……人の身を踏まえれば十分か』
最大火力をまともに受けてその程度の損害で済んだことにソリッドが目を丸くする。
だが、彼の口も弧を描く。へへ、と馬鹿にするような声が漏れた。
「……へっ、何終わった気になってんだよ」
自分の仕事は果たしている。
いつもならば骨を断つのはソリッドだが、今回に限っては違う。
『……何?』
龍が訝しみ、初めて周囲の警戒に意識を割く。
そして気付いた。
懐に忍び込んでいた黒騎士に。
チェシャが目指すはただ一点。ソリッドが崩してくれた龍鱗の剥がれた箇所。
龍の腹だ。
『──!』
黒騎士が持つ、存在の格すらも通り越す掌握魔力の産物。
小さくとも一矢報いる力を備えた琥珀の槍。
ソリッドの魔術すら僅かな傷で済ませた龍が、その脅威に始めて巨体をまともに動かした。
既に懐に潜り込んでいるチェシャに尻尾は当てられない。
ならばと、鋭利な爪を伸ばした前足を振るう。
巨体に似合わぬ俊敏な足。
しかし、チェシャも極限まで身を低くしてそれを避ける。
豪と風を薙ぎ払い、龍の爪はチェシャの兜を掠って通り過ぎた。
今しがた真上を通り過ぎた死の風に、チェシャは内心冷や汗を流しながら地を駆ける。
たどり着いた龍の腹。
チェシャの体が再び深く沈む。
今度は回避のためでなく、攻撃のため。
足を曲げ、肘を曲げ、肩を引き絞る。
ここで決めなければ今までの努力が泡に帰す。
だからこそ、加減を考えず、余力も気にしない。
その一心でチェシャは溜めた力を解き放つ。
「──らァッ!」
全身をばねの様に縮めたチェシャの体が伸びた瞬間。
彼の手から琥珀色の槍が放たれた。
迸る琥珀の光。
その一条の光は少年の手から離れ、真っすぐに大気を貫き、
ほうき星の如く光の尾ひれを残して龍の腹へと突き刺さった。
『~~~~ッ!!』
巨体が震えた。
久しく忘れていた痛覚という体の警告に龍が言葉なしに悲鳴を漏らす。
痛みに揺らぐ巨体が周りの柱をなぎ倒し、チェシャ達も慌てて龍から距離を取る。
ただ痛みに悶えるだけ。だが、龍よりもはるかに矮小な人には十分すぎる反撃だった。
「おっかねぇ!?」
「チェシャ君っ! こっちよ!」
岩の破片が辺りにばら撒かれる。
破片の雨に打たれながら走るチェシャは腕を掲げ、頭を下げていたが、クオリアの声に頭を上げる。
その先にはアイリスの盾を掲げたクオリア達。
「危ないぞっ!」
ボイドがチェシャを下敷きにせんと落ちて来た岩を熱線で貫き、打ち砕く。
「ごめん、助かった!」
「礼はいい。むしろよくやった」
ボイドは帰って来たチェシャを労いながら龍を見上げる。
痛みに震えた龍も落ち着いてきたのか、土煙で半分以上隠れた巨体が動く様子はない。
試練というのがどのようなものを境に終わるものなのか彼は把握できていない。
だが龍の口振りを見るに、龍の撃破が達成とは考えにくかった。
ならば、見せるべきは力。
考えうる最良の結果は出せた。これで駄目ならば手詰まりだ。
龍が起こした岩の雨を潜り抜け、一息ついている三人を横目にボイドは土煙を睨み続けた。