仮想敵
夜。
アルマと別れ、帰路につく彼は静かに頭を悩ませていた。
──準備はできたけど、行く手段がなぁ……。
アリスがどこへ行ったかは分からない。
グングニル内の設備を操作できるスカーサハもアリス側に居る。
素直にアリスの元へ辿り着けるとは到底思えなかった。
だからと言って良い方法が思いついているわけでもない。
仕方がないので明日ボイドに聞いてみることにして、チェシャは足を早める。
「……?」
街灯の灯りの無い路地。
夜闇で視界がはっきりしない中、家の近くに大きな影が見えた。
単に大きいと言うよりは横に広い。
体格が広いのではなく、何か背負っているような広さだ。
そして、見覚えもあった。
だが、街中で見かけるものでそんなものがあったか。
疑問を溶かせぬまま、影の元へ近づいていく。
「あぁ」
近くまで行くことで影の主の色がはっきりと見えた。端正な顔たちの少女、そしてせなかには純白の羽。疑問が氷解する。
同時に更なる疑問が降って湧く。
──どうして彼女がここに?
「何か用?」
わざわざチェシャの家の前に立っているのだ。彼を待っていたこと、ひいては何か用があることは容易に推測できた。
声をかけると、影の主である天使がチェシャの元へと歩いて来る。
普段は空を飛んでいる割に、地を歩く姿勢はやけに整っていた。
「準備が出来たと聞いた」
「……誰から?」
チェシャの体が僅かに力む。
彼の企ては今のところ誰にも話していない。
アルマに話したのは彼女の力が必要な話だけだ。すべて、とは言っていない。大部分は彼女の功績であることはともかく。
「か──いや、クロウか。あいつがどうやって知ったのかは知らない」
「……そう。……要件は?」
話の雰囲気からして敵ではなさそうだった。
肩の力を抜いて、要件を尋ねる。
「あいつからの伝言。明日の正午、第二試練の岩柱乱立丘、その頂上に来い」
「岩柱乱立丘……」
第二試練の攻略の際には訪れなかった迷宮だ。
迷宮にしては完全に青空の下にある珍しい場所である。
その頂上。特に思い至るものはなかったが、チェシャは頷いた。
「伝えたぞ」
「あ、待って」
飛び去ろうと、羽を広げた天使をチェシャが呼び止める。
「……何か用?」
「口調、なんで変わったの?」
チェシャの知る限り、彼女はもう少し厳かな雰囲気だったはず。
それが、少しぶっきらぼうというか、雑なものに変わっている。
敵ではないと分かり、考える余裕が出来た彼が好奇心を抑えきれずに尋ねた。
「それは今後に関わる話か?」
気に障ったのか天使は眉を顰める。
とは言え、チェシャの勘は面白そうな話だと告げている。
「会うなら、多分」
好奇心だとは口にしなかった。
嘘を吐いた彼の表情は毛ほども変わっていない。
「…………私が、私らしくあるためだ」
「は? ……なんで?」
思わず、チェシャが尋ね返す。そもそも天使が私と名乗っていたかどうかも疑問だった。
「もう少し、ヒトのような思考があればと思っただけ」
「……ぇ?」
「……理解できないならいい。ただ、それだけの話だから。ともかく、明日はお前たちには辛いだろう。可能な限りの用意はしておくことだ」
チェシャの腑抜けた声に早口で言葉を返した天使は今度こそ両翼をはためかせ、セントラルの上空へと消えていった。天使が飛び立っていく様を彼は呆けた顔で見送った。
「……え?」
チェシャが呆けたのは、天使がまるで人間のようなある種のくだらない理由を口にしたから。
ヒトよりも優れた存在である彼女にヒト並みの悩みがあるというのは、理解しがたいとともに腑に落ちるものがあった。
天使にも分からないことがあって、傍から見ればくだらないことで悩んで、結論を見失うのだろう。
チェシャに出来るのは推測だけで、天使が実際にどう考えているかまでは分からない。
けれど、天使があのようなことを言いだしたのはクロウが原因なのだろうとは思った。
根拠はないけれど、外的要因は他に思いつかなかったから。
天使でも悩むのだ。所詮人であるアリスを放っておくことは出来ない。
かつて、チェシャがそうしてもらったように、彼女に示さなければならない。
いつでも助けになりたい奴が傍にいることを。
下手に意地張って変なことをしでかすのなら、その時は体を張って止めてやることを。
「連絡、しておくか」
正午となれば、明日ボイド達に連絡するのは少し遅い。
準備は早い方がいい。
チェシャは来た道を辿り、ボイド達がいる宿へと足を運び始めた。
*
太陽が昇り始める頃、第二試練の荒野を気球が漂っている。
バスケットの仲には探索者が四人。
「何も早朝から出ることあんのかぁ? もうちょい寝たかった……」
「昨日説明しただろうに」
ソリッドがバスケットの隅で開ききらない目を擦っている。
彼のぼやきにボイドが呆れた声を出した。
昨日の夜、チェシャはクロウからの伝言をボイド達に伝えた。
「岩柱乱立丘か、頂上なら早朝に出ないとまずいな」
「え、それ寝る時間なくねぇか?」
「そうねぇ。ざっと四時間かしら」
「足りねぇよ! 正午だろ? あの迷宮、上から入れんだからもうちょい寝てもいいだろ!?」
「それが無理だからだ」
気球の移動は気流頼り。
そして、岩柱乱立丘付近は頂上から下に向かって吹き下ろす形の気流が出来ている。気球では押し戻されて直接頂上には行けない。
つまるところ、麓から歩くしかないのだ。
「諦めて寝なさいソリッド。準備はあたし達でやっておくから」
「そういうことだ。チェシャ君もすまないが、明日は早朝の鐘が鳴るころには神の試練前に来てくれ」
「分かった」
「……オレも準備は手伝う、一人だけ寝んのは流石にわりぃ」
そんな話もあり、全員睡眠時間はあまりとれていない。
目の前に都市がある神の試練では少ないが、迷宮での野宿自体は珍しい話ではない。
彼らもたかが一日睡眠時間が減ったからと、パフォーマンスを落とすような探索者ではないのだ。
「理解しても納得はしてねぇってやつだよ」
「そうか、理解したなら働いてくれ」
「少しは聞く耳持てよぉ!」
「どうせ、着くまで時間があるんだし、今寝ておきなさい。どうせやることないんでしょ?」
「こんなふわふわしたとこじゃ寝れねぇっての」
「……」
「チェ──……」
十分な睡眠をとれず、ぶつぶつ文句を言っていたソリッドの前に立ったチェシャが霧吹きを彼へかけた。
何かの霧を浴びたソリッドは瞬く間に体を崩し、寝息を立て始める。
「チェシャくん、何使ったの?」
「ボイドに作ってもらった眠らせる霧吹き」
「……あぁ、それか」
「物理的に黙らせるにはこれが一番かなって」
ボイドは身に覚えがあるらしく、気球の高度を調整しながら頷いた。
霧吹きを鞄にしまったチェシャが苦笑する。
彼自身、こんなことのために持ってきたわけではないし、効果もかなり強力だ。風が強いここでなければ、使用者のチェシャもうとうとするほど。
「ボイド、何作ってるのよ」
「疑心暗鬼の森で採れたやつの一つだ。もともと果汁のやつをほとんど薄めずに入れた」
「あの、聞きたいのはそこじゃなくてね? ……はぁ、まあいいわ」
数秒も経たず眠りにつくようなものを作って何をするのだとクオリアは聞きたかったが、チェシャもボイドも話すつもりはなさそうだ。備えあれば憂いなしと言えども、仲間にはもう少し情報伝達があってもいいはず。
しかし、それを言ったところで仕方がない。彼女はこれ以上の言及を諦めた。
ソリッドが寝てしまうとバスケットの中が静かになる。
別に雰囲気が云々ではなく、皆、来たる何かに向けて集中を高めているだけだ。
チェシャもまた空から第二試練を見渡しながら、そこで何があるのかを考えていた。
具体的なことは何も話されていない。ただ、それなりの苦難があることだけは天使の去り際で知らされている。
何故、第二試練なのか。
何が起きるのか。
疑問は二つ。
そして、そのどちらの答えもチェシャは何となく悟っている。
他の二人も同じ予想をしているとも。