意志
失意に沈んだままチェシャはバー・アリエルを訪れていた。連絡も何もないが、連絡がないからこそだ。
彼にしては珍しく、起きた時間帯は昼前。彼は彼自身の想像以上に体力を消耗していた。
それだけ寝てもなお気怠げなチェシャは店への扉を手ではなく肩で押し開ける。
半ば体当たりで押されたドアは勢いよく開き、ベルも同様に大きく鳴った。
「──いらっしゃいっ! ……おう、チェシャ……だよな?」
カウンターから威勢のいい挨拶を飛ばしたサイモンは鋭い目つきも弱弱しくなった彼の姿に困惑し、尋ねかけた。返ってきた答えは無言の頷き。
「……あいつらならいつもの席にいるぞ」
深くは聞かず、サイモンは奥の席へと案内する。相変わらず、他の席に客はいない。
事情は知らないものの、早朝から来ていたボイド達が待ち続けて暇そうにしていることから彼が来る時間が遅かったことにも推測が付く。そして、そのチェシャが来たのに彼と一緒にいるであろう少女がいないことがまたチェシャの調子の原因であることも。
「ん」
チェシャは閉じたままの口から音を漏らして、頷くと、奥の席へ向かって歩いていく。
ドアの音に気付いてすでに来ていたボイド達三人は彼に向って手を振っていた。
「おはよ」
「おっはよー」
「ああ、おはよう。もうすぐ昼だからこんにちは、か?」
ソリッドが頭の後ろで手を組んで返事をする横、腕時計を見下ろしたボイドが苦笑する。
その苦笑にはチェシャのことだから早めに来るだろうと予想して三人とも早起きしていた意味がなくなったことに若干の意趣返しが混ざっていた。無論、それは単に彼を責める意味のものではなく、この場を和ませるためのもののはずだった。
「ごめん」
「……大丈夫よ? こっちが勝手に早く来ただけだから気にしなくても」
殊勝に頭を下げたチェシャにクオリアが慌てて訂正する。
そして、チェシャが想像よりも精神的損傷を負っていることをボイドに向かって目配せで伝えた。
「気にさせてしまったならすまない。とにかく、これからのことを考えるべきだ」
「……考えるって何を?」
「チェシャ君?」
ぽつりとチェシャが尋ねたことに思わずボイドが眉をひそめて彼を見た。
そして、彼がアリスにいい意味でも悪い意味でも執着していることを思い出し、言葉が足りないことに気付いた。
「すまない、逃げようということではないぞ? アリス君を助ける手法だ。黙ってやられるわけにはいかないからな」
「──無理だって」
「何?」
低く、小さい否定の呟き。今度こそボイドは自分の耳を疑った。
まさか、まさか彼からそんな言葉が飛び出すとは思いもしなかった。
他の二人も同様に瞠目し、彼に視線を向けていた。
「無理、とは……どういう意味だ?」
「そのままだよ。異形に……もう勝てっこない」
「……チェシャ君? 何を言っているの?」
この場で唯一初めから最後までチェシャの異常な戦いぶりを見ていたクオリアが机から身を乗り出して尋ねる、
誰もが聞き間違いだと疑った。確かにあの戦闘は完膚なきまでの敗北だ。あの状況からの勝ち目もなかった。
だがしかし、それは各個撃破によって連携も何もなくなったから。前衛であるチェシャが動けず、クオリアでは後衛二人を守り切ることが出来なかったから。そうなってしまえば中衛の調整役が居ないパーティは簡単に瓦解する。
だからこそ、勝ちを求めるなら各個撃破をされなければいいだけの話。
仕切り直せば、勝ち筋は存在する。
故に、最も長く異形と戦闘し、一時は追い込むことさえ成し遂げた彼が諦めるのは誰もが信じられなかった。
「……」
「──!?」
机の上に腕を置き、チェシャが無言で手袋を外す。
手袋で隠されていたはずの黒い皮膚は──どこにもなかった。
彼は次に、袖をまくった。そこから覗く腕も本来の肌へと戻っていた。
シャツも少し、持ち上げる。お腹も元通りだった。
「チェシャ君、これは……どういう──」
「さあ? 分からないけど、もう俺は変身も出来ない。変身できない俺じゃ、アリスを助けるなんて、異形に勝つなんて無理なんだよッ……」
彼が昼頃にここを訪れたのは診察などで退院が遅れたからではない。
彼なりに悩んだ末のことだった。
チェシャは確かに変身能力を邪魔だとは思っていた。けれども、アリスを助けるために必要ならば許容範囲だと思っていた。それが今になって一人欠けている状態で人手不足な時にいきなり完治するのだから皮肉にもほどがあった。
そんな皮肉と自分への情けなさと、無力さに打ちひしがれ、行き場のない怒りが込められた拳がどん、と机に落とされた。
そして拳が力なく解かれる。反抗の力すら失ったその行動はまさに今の彼の状況を表していた。
しかし、拳が解かれようと彼の独白は止まらない。
「そもそも、あのクロウってやつに任せたら全部上手くいくんだろ? 俺らが勝てなかった異形を使って厄災だってどうにかするんだ。待ってれば終わる話なんだよッ!」
一日煮詰めれた暗い感情が乗せられた独白。
だがそれは一つの真実だった。
チェシャ達は敵が何かを知り、どうすればいいかを漠然と理解しているものの、具体的な解決策が分からない。すべてを知っていたはずのアリスもあくまでスカーサハやクロウから提供された情報を持っているに過ぎなかった。
「俺は思いあがっていたんだよ……何とかなるって。でも、ここで異形に負けてちゃ、魔力吸収機構をどうにかするなんて無理に決まってるじゃん!」
災厄はもっと恐ろしく、強い。大陸規模の相手をするのに、所詮兵器に負けていては話にもならない。成長する自分の、周りの力に驕っていたことへの告白だった。
「その方がきっと完璧だし、なによりアリスもこれ以上傷つかないじゃ──」
「いいわけ──ないでしょう!?」
クオリアが椅子を蹴っ飛ばして立ち上がり、彼の頬を叩いた。
地を滑る椅子の音、乾いた音が辺りを一瞬支配する。
「……ぇ」
赤い手形をじんわりと頬に残し、顔を横に向けれられたチェシャがゆっくりと瞠目した顔をクオリアに向けた。
「何のためにアリスちゃんは向こうへ行ったわけ!? ぜんぶっ……あたしたちのためじゃない!」
アリスは別に裏切ったわけではない。
彼女なりの葛藤の末、チェシャ達を危険に合わせない為に向こうへ、クロウへとついたのだ。
その証拠に、彼女はチェシャの身を案じていたし、死にかけていたチェシャにとどめを刺そうとする異形を止めるため、クロウに訴えていたのをクオリアは見ていた。
それでもなお、簡単にあっちについたアリスを叱りたい気持ちはあったが、今はこの腐ってしまった少年の性根を叩きなおすのが先だった。
「ならっ! 俺らがこのまま大人しくすれば誰ももう傷つかないだろっ!?」
「──んなわけねーだ……ろッ!」
ソリッドが叫び返すチェシャの胸ぐらを掴み、彼の座っていた椅子と共に地面へと叩きつける。
静かな酒場に鈍い音がこだまする。
ソリッドは以前にアリスが自分の胸ぐらを掴んできたときに今の自分の気持ちと同じだったことを知り、同時に、胸ぐらを掴みながらチェシャへの怒りをあらわにする。
「あいつがどれだけお前のことを気にしてたのか知ってんのか!? いーや……知ってるだろ!?」
「……それがっ、なにさ」
胸ぐらを掴まれ、馬乗りになったソリッドから怒鳴られるチェシャはその態勢のままソリッドを睨み返す。それなりに想われていることなど知っていた。故に諦める選択をしただけだと、彼は言外に視線に込める。
「ッチ──なにが、じゃねーだろッ! あいつにあそこまでさせといて、お前はおめおめ、逃げるつもりか!? 後悔しねーのかよッ!?」
今逃げては、このチャンスを逃しては絶対に後悔する。
その根拠のない確信が、強いて言えば、彼の経験から来る確信があった。
手放してしまった少女を探し出すと決めて未だ叶わない願いと過去。
一度チャンスを逃せば、二度目のチャンスが来るかなど分からないのに──と。
それに対し、チェシャはソリッドを押しのけ、上体を起こして言い返す。
「でも無理だ! しょうがないじゃないか!? 勝てないものは勝てないんだよ!」
「……以前、あの威勢のいい啖呵を切っていた君はどこへ行ったんだ?」
──でもさ、それくらい強い方が本の中の世界みたいで面白いよね
──世界滅亡の危機に立ち向かう勇者、みたいな? ……かっこいいじゃん? ……燃えるじゃん?
──それにさー、あの時調子のいいこと言って、やっぱり怖いから辞める──なんてかっこ悪いでしょ?
第四試練で初めて厄災の存在とその恐ろしさ、強大さを知り、慄いていた場の雰囲気を吹き飛ばしたチェシャの言葉。その後の問答もあっけらかんとした口ぶりで答え、ボイドを吹っ切れさせたのは彼だった。
故に、場を静観していたボイドも……腹が立った。
「どの啖呵か知らないけど、そんなの……虚勢だよ。別にみんなが思ってるほど俺は楽天家でもないし、かっこいいやつでもないんだから」
「だが、君には責任があるだろう?」
「なんのさ」
ボイドはチェシャを煽るようにクスっと笑う。
それを見たチェシャが怪訝そうに、そしてどこか腹を立てて額にしわを作った。
「……私達をここまで連れて来た責任だな」
「はぁ?」
「君が、あのとき、ああ言わなければ私達三人はここまで来なかった。こんな思いや苦労をすることもなかった……だからこそ、今更勝手なことを言う君に、私は腹を立てている」
ソリッドとクオリアとは違い前置きをしてから拳をパキパキと鳴らし始めたボイド。そんな彼を見たチェシャが思わず後ずさった。
「ぐだぐだ言うなよ? 歯ぁ食いしばっておけ」
ゆっくりと拳を振りかぶるボイドはきっと三人の中で拳を振るっても一番弱いはずだった。
そしてそれは事実。なのに、チェシャは彼に恐怖を感じていた。
普段は理知的に話す彼が感情論で拳まで振るうこの落差に、見せることが無かった一面に、無意識に威圧されていた。
肩を引いて、溜められてたボイドの拳が振るわれる。
その動作に反応してチェシャが強く目を閉じた。
彼の手が頭に触れる。……撫でるように。
それだけだった。
「……?」
「──だがな、私はこの拳を君に振るえるほど偉くない。それに……」
拳を引き戻し、ボイドは長く深いため息を吐く。
その中には様々な感情が入り混じっているように見えた。
「私は君のことを尊敬していた。ある種の憧れだった」
それはチェシャにとって寝耳に水のような話だった。
むしろ、様々な見識を持ち、どんな状況にも案をくれる。チェシャにとってボイドは聡明な人物で、頼れる大人の見本だった。
チェシャが目を見開いて呆然とボイドを見上げる。彼の分かりやすく驚くさまをみて、ボイドは苦笑する。
「ああ、君が私のことをそれなりに敬意をもってくれていたのは知っていた。それは私にとっても誇りだ。世界とまではいかないが、国を揺るがす事件。その解決を大多数の人間に知れず担う少年。チェシャ君、君は客観的に見ればそういう存在だ」
いつもは諭すように、先生の様に語るボイドの口調が今は強く訴えかけるような語気を伴っていた。
見たことのないボイドの口振りにチェシャは口もはさめず、彼の言葉を黙って聞いていた。
「私の武器は……所詮作り物だ。私の力ではない。魔術や魔法こそあれ、今はもうソリッドの方が使えるし、魔術は下手に撃つくらいなら武器に頼った方がいい」
それは彼なりに導いた当然の帰結だった。
そして、それはここに居ない少女含め四人から見ても違和感のない話。
「それに対して、武器とそれを扱う技術。両方が揃った本物の君の強さが私には憧れだったよ」
感知に長けた彼の斥候。槍による近距離はさることながら、時には投げ物で中距離を担ってくれる彼は間違いなくパーティの重心を担っていた。
中心ではない、しかし、彼の強さを軸として連携が輝いていたのは事実。
その強さを持つチェシャにボイドは尊敬していたし、アリスを助けるための旅路の中で成長し、走り続ける彼を見るのは一種の楽しみだった。英雄譚を間近で見られるなど、到底ないのだから。
「そんな強さを持つ君が……たかが、一度の敗北で、たかが武器が減っただけで、立ち止まってほしくないんだっ……走り続けて欲しいんだっ」
「ボイド……」
説教ではなく、ただ希う彼の言葉。
自分の憧れが情けない姿を晒している。それはチェシャにも辛いし、純粋に嫌なことだとよくわかった。
これ以上にない例示で、御託も要らない分かりやすい話だ。
畳みかけるようにボイドは言葉を紡ぎ続ける。
「私は君達の行く先が見たい。私には出来なかった運命とやらに対して抗う君たちの行く先を」
「……」
確かに、最初に抗い始めたのはチェシャだった。アリスが一人で行こうとするのを最初に止めたのも彼だ。第四試練で散り散りになった皆を奮起させたのも彼だ。
虚勢を張っていようとそれは事実だ。けれど、彼一人では成しえなかったこと。彼がそれらを成しえた裏にあった感情、もしくは意志というべきもの──目的を見失い孤独を生きる彼に救いをくれた少女を助けたい。それだけだった。
ボイドに同調するようにソリッドとクオリアも微笑む。
ボイドは大人としてある意味現実を理解してしまった身として、自分には出来なかったやりたいことを貫き通す若さを持つチェシャ達を見届けたかったのだ。
「だから聞こう……君は──どうしたい? 君がやりたいことなら私達は行けるところまで手伝おう」
──そうか、あの主人公はだから……
得心がいった。
成し遂げたいこと。より単純に言えばやりたいこと──つまり意志。絶対に揺らがないそれを持っていたから諦めなかったのだ。
そして、チェシャもまだ彼の精神を支える意志は残っていた。
それは突き詰めれば下心だ。自分が嫌う孤独から遠ざけて欲しいという欲求を埋めて欲しいと。
「ははっ」
きっと黒に塗られていない感情ではない。が、チェシャはもとより、黒騎士だ。
それを理解できた時には彼の精神を食らっていた虫のような何かも受け入れられた。
それも自分の一部だから。決して純粋な気持ちだけで生きてはいないから。
例え人から離れようと元は人間なのだからそのくらいが丁度いいと彼が少し噴き出した。
「──はぁ……」
チェシャが意識を入れ替えるために息を一つ吐き、立ち上がる。倒された椅子もついでに元に戻す。
もう彼の顔に陰りは見えない。
例え、異形に届くための力を失おうと、瞳には強い意志が帰って来ていた。
「じゃあ──手伝ってもらおうかな」
そんな彼を見守る影がとある家屋の屋根上に立っていた。
「やはり人間は面白い。勝利の可能性が限りなく低かろうと抗う。昔も今も変わらないということか」
影──両翼を背中に生やした少女の姿をした天使が無表情のまま呟く。彼女の姿は目立ちやすく、大通りを歩く人間からも見える範囲にいるのに、誰からも声をあげられることはなかった。
「そして、素質があるものが願望を見つけることで種が、自己理解を進めることで芽が生える……これが人間が抗うために身に着けた力と……ふむ、興味深い。人間とはここまで意思を正反対に変えられる生き物なのか。我々や悪魔にはあり得ない現象だ」
感心したように無表情のまま小さく頷いた天使は折りたたんでいた翼を広げる。
それでも尚、彼女の姿が他の人間に見つかることはない。
「……道標程度は残しておきましょう」
そのまま空へと飛び立っていった天使だったが、ぽつりと呟くと一枚の紙を落とす。
紙は風に煽られながらも不思議なくらい軌道がズレることなくバーアリエルに向けて落下し、ドアノブにかけられた“本日閉店”の看板の隙間に突き刺さった。