失意
「はぁぁぁぁ……」
「全く……死ぬかと思ったぞ」
「生きてりゃ安いわよ」
夕方ごろ。
チェシャを肩に担いだままセントラルへと転移してきたクオリアが生還出来た実感と共に深い安堵の息を吐いた。
同じようにソリッドを肩に担いでいたボイドも地面に腰を下ろす。
チェシャが異形と戦闘を始め、完全に蚊帳の外に追い出されてしまったクオリアはなんとか自力で目を覚ましたボイドをソリッドの元へまで連れていき、彼女はいざという時にチェシャを助けに入れるよう準備をしていた。実際に介入できたのは本当にギリギリだったし、準備が出来たのは彼らの戦闘が終わるころ。それまではボロボロのボイドに肩を貸して、ソリッドと共に転移装置までコソコソと移動していた。
閃光爆弾はボイドが投げていた。彼はクオリアがアイリスの盾を展開したら投げろと伝えられていた。投げた後はそのまま転移装置に飛び込み、クオリアもそれを追いかけてセントラルへと戻ってきたのだ。
「あんたたち貧弱すぎよ。一撃で使い物にならなくなるなんて」
「無理を言うな生きていただけ頑張った方だぞ? たいして戦ってもないのに、もう体がまともに動きやしないんだ。……いたた」
ボイドの体と白衣はボロボロで、担いでいたバックパックは無事。もう少し、自分の命に関するお金の使いどころを考えて欲しいとクオリアは溜息を吐く。
「はぁ……とにかく、この子たちを病院に連れていくわよ」
「いや、もう私も色々と限界なんだが──」
「あたしもよ! しんどいのは同じだからさっさと動く!」
「その元気があったら苦労してないさ……」
二人はやいやいと言い合いを続けながらも二人を病院へと運んで行った。
幸い、探索活動と言えば回廊を歩いた程度。まだ夕方なので病院には対応してくれる人は多かった。
セントラルは探索者たちが経済の一角を担っている関係上、病院も探索者が次々と帰ってくる夕方ごろに看護師や医者が多く滞在している。
四人全員が打ち身でボロボロなので、全員診察されることとなり、チェシャを除く三人は特に問題なしと診断された。勿論傷はところどころにあったので処置はしてもらったものの、問題はチェシャだった。ついにほぼ全身が黒い皮膚に覆われていたのだ。変身がほとんど解除されていない。
唯一顔周りだけが元に戻っていた。
代わりに外傷はほとんどなし、正しく化け物へと足を踏み入れている。
同じ症状で入院しているので、医師からはとくに処置はないものの、目は覚まさなかった。そのため、今晩は病院で様子を見ることになった。
チェシャが不自然な体の軽さに目を覚ましたのは深夜のこと。
面会時間の限りはボイド達もチェシャの様子を見ていたが目を覚まさなかったため、彼らも宿へと帰っていた。
「──ん……びょう、いん……?」
明かりは何もない。しかし、チェシャは多少の夜目が効いたはず、だった。
村の狩人として、夜の狩りも教えられていた彼に身についていた技能、そして体質。
だからこそ、手で触れられる触り慣れない布団の感覚が鮮明に帰って来ることでしか病院であることを認識できないことに驚いていた。
布団から上半身を起こした状態でゆっくりと意識を覚醒させていく。
同時に思い出す意識を失う前の記憶。
激情に我を失っていた自分と異形との戦い。その原因となった少女の裏切り。
──つかれた、な。
今までにない程感情をむき出しにした戦いは外傷がなくとも彼の精神を疲弊させていた。
起こした上半身をまたベッドに投げ出して、天井を見上げる。
光は圧倒的に足りない為、天井の色合いは全く分からない。けれど何度も訪れているこの場所が白で統一されているのは知っている。
いつもと違う視界に自分を慣らせながらチェシャはとりとめのない思考を織りなそうとして、瞼を閉じた。
今の彼はこれ以上考える力もなく、その上本能的にこれ以上考えることを拒んでいた。
*
翌日。
チェシャは夕方ごろに退院し、家に帰っていた。
中に入った彼は明かりもつけず、居間でソファに沈み込んだまま無気力に時を過ごしていた。
──帰りたい、な。
行先は何も思いつかなかった。
しかし、どこかへ帰りたいという気持ちだけが彼を支配していた。
背もたれに預けていた体を横に倒し、寝転がる。彼の上半身はシャツ一枚。ソファに倒れ込み、揺れた袖口が彼の肌色の手と腕を露わにする。
今のチェシャの体の状況はアリスが望んでいたものと同じで、それが今起きるのはあまりにも皮肉が過ぎていて、本当は偶然ではなくアリスが仕込んでいたのではと疑ってしまうほどだった。
事実は違っても、今の彼は疑心暗鬼で信じることを考えたくなかった。
そして、それ以上に心底自分に失望していた。
変身能力に頼り切っていた自分。
能力が無ければ勝てないと諦めている自分。
なにより、アリスからの信頼を裏切ってしまった自分に。
頭がふわふわと働かず、ただ瞼を閉じ続けたまま時間を過ごす。
しかし、病院で寝続けていた彼の体はまだ元気で、彼に眠ることを許さない。
眠れないチェシャが頭を働かせないまま辺りに視線を向ける。
二人のお気に入りの本を収めた本棚。
ソファ横に置かれた本棚から取り出して、仕舞うのが面倒になった本を積んだ小さな丸テーブル。
対面で食べることが当たり前になり、席も変わらないのでそれぞれの好みの柄のランチョンマットを置いた食卓。
夕食を満腹まで食べた後にそのままソファで眠ってしまうアリス用にチェシャが買ったソファに常備された毛布に体をうずめ、
本を読む際に少し高さが欲しいと宣う彼女が買ってきた膝に乗せるクッションを枕にして、
二人が良く読んでいたせいでいつも丸テーブルに積まれた本の中で一番上にある本に手を伸ばす。
──また、一人か。
別にそれは強調するほどでもないありきたりの日常の一つで、同時にかけがえのない時間だった。
──俺は、立ち直るなんて……無理だ。
チェシャが手に乗った本を開くことなく、そっと表紙を撫でた。
その本の主人公は王子でも英雄でも勇者でもないただの村人。
けれど、チェシャのように何か特異なものを持つわけでもない。
本当にただの村人。
けれどもその主人公は突如獣の群れに襲われた自分の村を守るために奮闘し、
例え、絶望の中でも抗い続け、最後には村を守り切ることに成功した。
物語の規模としては小さな、小さなもの。
けれども、主人公の折れない意思を描いたその本はチェシャとアリス、二人の心を掴んだ。
どれだけ獣達にボロボロにされようと諦めない主人公は何故頑張れるのだろうかと、何度も二人の会話の話題に上がった。
その疑問は今になってチェシャの中でより一層膨れ上がる。
勝利の望みがないことを目の当たりにして何故立ち上がれるのだろう、と。
「あはっ、ははは」
乾いた笑みが零れる。
自分がどれだけアリスに依存していたのかが証明されてしまったことに対する嘲笑だった。
自分で自分を嘲笑するのもおかしな話だと、少しだけ笑い声に感情が乗せられた。
結局、孤独を恐れている自分は何にも変わっていない。
誰かを助ける前に自分が弱っていては話にならない。
そんなことは百も承知。
しかし、今のチェシャが抱く暗い感情は理屈が通じるものではなかった。
せめて、アリスが無理やり攫われていたなら彼も立ち直れただろう。だが、実際はアリスが自身の意思で彼の元を離れた。
その事実と敗北した時よりもさらに弱くなった状況が二重となってチェシャにのしかかっているせいで、一人ではこの重くて暗い、蠢く虫のような何かを取り除くことが出来なかった。
そして、それは彼の体に纏わりついて彼の精神を食らい続ける。
傷口は広がり、中へと浸食する。
まとわりつく何かに喰らわれ、虚ろとなった彼に出来たことは思い出にしがみ付いて死んだように眠ることだけだった。