突き動かすは少年の悲喜
どうして、どうして、どうして、どうして。……どうして?
どうしてそこに居るんだ? あの時──村で言ってくれたじゃないか。
──わたしは、いっしょにいるから。
あの言葉は嘘だった?
そんなはずはない。あの時に感じた暖かさは本物だった。本物だったんだ。
頭がまわらない。目の前が白黒になっていく。
汚れた赤い絨毯も、黒ずんで汚い敷物だ。俺の手や足も黒くなってる。
思考がまとまらない。考えがあちらこちらに飛んでいく。
何かと何かが打ち合う音がうるさい。槍が握れない。左手が動かない。
疑問が収斂する。
なぜアリスはそっちにいる?
分からない、分からない。──分からない。
なにも、わっかんない。
だとしたら、俺は何のためにここまで来た?
自分のため? 誰かのため? アリスのため?
やっぱり分からない。分からないんだッ!
ああ……でも、一つだけ分かることがある。
──異形は、邪魔だ。
白黒の視界の中、俺と異形だけに彩のある黒が付いた。
纏まらない思考の中、異形を倒すために道筋がいくつも、十数も、数十も編まれていく。
槍を握る手にも力が返ってきた。左手も槍に添えて、両手で握りなおす。
硬い皮膚越しに伝わる慣れ親しんだ感触。
腰を落として、構える。狙うは異形の心臓か脳天。
飛び出す。
思い切り体を捻って、誰かと戦う異形に向けて槍を振り下ろした。
不意をついたのに、左腕の盾で防いで見せた。腹立たしい。
一度距離を取って仕切り直す。すると異形が追いかけて来た。
繰り出してきた槍を避け──脇腹が裂かれた。
無視して、腹から心臓に向けて槍を突き上げる。だけど、硬くて浅くしか突き刺さらない、しかも槍が抜けない。うっとうしい。
槍は諦めて、左腕の盾を避けながら下がる。足の甲から新しい槍を出して、構える。
武器ならいくらでもある。ハリネズミにでもしてやれば死ぬはずだ。
腹に槍を生やしたまま、こっちに来た異形に合わせて、飛び上がる。異形は力も、速さも、硬さも強いけど、愚直で馬鹿だ。
また全力の突撃をしてきた異形を飛び越えながら、脳天に向けて槍を突き刺す。
弾かれた。頭は腹より硬いらしい。全くもって憎たらしい。
仕方がないから、肩に向かって槍を投擲。こっちは簡単に刺さった。
肩は弱いみたいだけど、刺さりが浅い。
槍を作りながら、回し蹴りを伏せて回避。
跳ね起きて、首筋へ突き刺す。これも刺さりが甘かったけど、異形がよろめいた。
どうみても化け物だけど、人の形をしてるせいか、弱点はそう変わらないのかも。
ともかく隙が出来た。
槍を作るのは間に合わないからナイフを抜いて今度は肩に。弱いのは分かっていたから思い切り振りかぶって突き刺す。
──ォォォ……!
鳴いた。面白い悲鳴だ。もっと鳴かしてやるよ。
一旦離れて槍を作る。起こった異形が目をもっと赤くして、こっちに突っ込んできたけど、離れた時の行動は一緒。ものすごく早いけど、愚直な突撃。
分かってれば簡単。
前進しながら、脇に逸れてすれ違う。
すれ違いざま、槍を振り切った異形の膝裏へ槍を突き刺してやると、がくっとでかい体が揺れた。人型なのはやっぱり失敗にしか思えない。
効いていそうな割には血が出ていないのは少し不思議だ。つまらない。
怒ったように低い唸りを上げて薙ぎ払われる槍を宙返りで避ける。
振り切った姿勢から突き出される槍はこっちも槍をかち合わせて跳ねのける。
流石に力の差があるからこっちの方が仰け反る。それを利用して少し大げさに仰け反ってやった。
馬鹿な異形は当然その隙を狙ってくる。尖った爪を備えた足が飛んでくる。
足だったら、そのまま倒れ込む。
目の前をごうっと風の音と一緒に黒い足が通り過ぎた。
このギリギリが楽しい。
倒れ込んだ勢いで地面を叩いて跳ね起きる。
そして、顔面へ槍を。だけどそれは首を捻られて避けられる。ちょっと欲張りすぎた。
突き出した槍を引き戻すのと異形が足を下ろしたのが同時。
大きな体の弱点は懐に対する攻撃方法の少なさだ。臆さず異形の目の前へと突っ込む。
「はぁッ!」
被弾覚悟で胸へ槍を突き出す。異形の膝蹴りが俺に腹に当たるのと槍が胸に刺さるのがまた同時だった。
一瞬で吹き飛ばされてボロボロの柱に打ち付けられる。柱が砕けて頭に落ちてくるけど、関係ない。
痛む腹なんて気にならない。むしろ良い眠気覚ましだ。
体中の血が沸き上がるのを感じる。
体中の肉が躍るのを感じる。
吊り上がった口端を抑えずに、ボロボロの柱を蹴飛ばし、完全に砕けさせる。
ああ楽しい。
異形もそうだろ?
──オォォォ!
何本か槍を指された異形が吠えた。すると、肩から生えていた触手みたいなやつがピンと張って、先端が槍に変わる。そして、ゆるりと肩からの触手に持ち挙げられて、穂先がこっちに向けられた。
いいじゃん。そのくらいないとつまらない。
溢れ出る衝動のまま、持っていた槍を捨てて、新たな槍を作る。
さっきよりも真っ黒な槍を構えて、異形と睨み合う。もう愚直に突っ込んでくることはないらしい。
じりじりとすり足でお互いに距離を詰めながら、睨み合いを続ける。
肌がひりつくのを感じる。目が冴えるのを感じる。故に待っていられなかった。
睨み合いを放棄して、飛び出す。
真っすぐ走り出して、勢いを乗せた槍を投げる。あっさりと盾で弾かれたけれど、新しい槍を作って投げる。さっきよりも勢いがない槍はよりあっさりと弾かれるけれど、投げる位置を揺さぶったおかげで隙が出来た。
槍を作り出して両手に握りながら走り出す。
大股で数歩。一瞬で詰めた。
迎撃のために振られた異形の槍の芯を避ける。死ななければ安い。
完全に隙が出来た。そう思っていたけれど、新しく増えた二本のに槍を忘れていた。
触手がしなって襲い掛かってくる。回避は間に合わない。腕で顔を守りながら突撃、腕の肉が少し抉られる。
けれど、ここまで、目の前まで来た。
両腕を肩ごと引き絞る。狙うは確殺。
そう思っていたところに膝蹴りが飛んでくる。
馬鹿だなぁ。二度目だよ? それ。
当たるわけがない。半回転で体を捻って避ける。もう異形に防ぐ手立てはない。
自然とあがる口角とともに、溜めに溜めた槍を突き上げた。
硬いものを貫く感触、肉を抉る感触。溢れ出す液体が槍を押し返す感触。
そして、柔らかい何かに刺さる感触。異形の目から赤い光が消えた。
……殺った。
「は、はは……」
笑みが零れる。
槍から手を離し、動かなくなった異形から距離を取る。
ハリネズミとはいかずとも、針山ぐらいには刺し尽くしてやった。ざまぁみろ。
*
「これは……フ、フハハハハッ」
「……」
クロウは戦意を失ったと思っていた少年の抗いぶりを見て驚愕する。
激情に飲まれ、黒騎士へと変化した彼の姿──異形から人の姿に限りなく回帰した流線型の黒鎧に黒兜は彼が求めていたものと一致していた。鎧姿ではなく、限りなく機動戦に特化した肌に張り付くスーツのような黒い外皮。
耐久戦を諦め、速攻を決めるために用意した必要最低限の防御力と最高の機動力というクロウとザッカリアが考え出した結論。それが目の前にあった。
故に、笑いだすのを堪えきれなかった。
この場でその奇妙さに疑問を抱く余裕があるアリスはチェシャの豹変ぶりに言葉を失い、ただ茫然と彼と異形の戦いを眺めていた。
『スカーサハ、黒騎士の黒血の獣変容率はどうなっている?』
『すでに第四フェーズに変化しています。第三フェーズの因子を得た偽黒騎士では勝率が低いと推測されます』
『そんなことは聞いてないが……まぁいい。あの因子を……いや、こうなってしまえば素体ごと欲しいな。スカーサハ、偽黒騎士を対厄災用に形態移行。本物から直接戦闘データを取れるのは大きい。それと、操作はお前がしろ。やはりあいつは頭が足りん』
『了解しました』
心臓に槍を突き刺され、動きを止めていた異形がまるで、糸に吊り上げられたかのように突然体を持ち上げる。
倒したと思っていた相手が起き上がり、チェシャが緩ませていた手の力を入れて、槍を握りなおした。
「形態移行──偽黒騎士・決戦型」
項垂れていた異形が突然言葉を発した。そのことにチェシャが驚く間に異形が変化を始める。
外皮がどろりと溶け、流体に変化する最中、突き刺さっていた槍がはがれ、からんと音を立てて地面を転がる。邪魔なものを取り除くとぼこぼこと泡を立てながら尖っていた外皮だったものを均してく。しばらくその状態が続き、徐々に形が出来てきた。
完成した新たな外皮は大きさこそ違えど、形はほとんど今のチェシャと同じ、全身黒スーツに変化していた。
槍や盾と一体化していた腕も手が生えて、その手にはどこかで見たことのある金属製の槍──プロトグングニルが両腕で握られている。足には変化はなく、鉤爪が付いたまま。肩から生えていた触手もそのままでまだ異形たる余地を残していた。
チェシャは変化したことに驚きこそすれ、姿には何も感情を抱いていなかった。
彼は黒騎士に変化していることに気付いていない。そして、目の前にいる異形が、自分と同じ姿など夢にも思っていない。
そんなことよりも、今目の前に居る存在にアリスを取られたという恨みを抱いてた。怒りを抱いていた。
「とっとと……死んで」
チェシャが飛び出す。
異形は槍を構えたまま動かず、チェシャを見据えている。愚直な突撃はしてこなかった。
戦いのためには頭を回し続けていた彼はその違和感に気付くものの、止まらずに突撃する。
風を置き去りにする速度で異形との間合いを詰めた彼は引き絞った腕を伸ばし、槍を振るう。
激情に支配され、冷静な思考を奪われている彼は先程の愚直な突撃を繰り返していた異形の動きとそっくりだった。
反応すら難しい速度で繰り出された攻撃だったが、無情にも響いた金属音とともにチェシャの槍が宙を舞う。
異形が槍をすくうように彼の槍を宙へ弾いていた。単純な力量の差が如実に現れていた。
そのことを認識したチェシャが新たな槍を生成する前に振り上げられていた異形の槍がチェシャへ叩きつけられる。
地面へ伏せたチェシャへ異形が串刺しにせんと槍を突き刺すも、彼は転がって避ける。
そのまま跳ね起き、体を捻って顔面に蹴りを入れる──が、彼の足は宙を仰ぐのみ。
空を切った足は異形に掴まれ、また叩きつけられる。
二度目の異形の追撃は薙ぎ払いへと変わる。それをチェシャは伏せたまま、背後に体を引きずることで回避した。芯は免れたものの、穂先が彼の腹を掠めて血が細く噴き出した。
「せっかくだから教えてやろう。プロトグングニルは魔力を吸収することに重みを置いている。これの前で魔力の鎧など紙と等しいぞ?」
クロウが意地の悪い笑みで劣勢のチェシャを嘲笑う。
しかし、チェシャはクロウの言葉に耳を貸すことはなかった。そもそも聞こえてすらなかった。
今の彼の耳に届く音は異形が関わったものの音と、彼が切望する存在の声だけだ。
再び跳ね起きたチェシャが持っていた黒槍を投げつけ、新たな槍を生成する。
それは琥珀色の槍ではあったが、金色を帯びた眩い輝きを放つものではなく、黒ずんでどこか影が落ちたような色合いに変わっていた。
槍の生成と共に鎧の色も琥珀色が辛うじて入り混じったものに変化する。しかし、以前彼が見せた頼もしく、温かみのある輝きはどこにもなかった。
槍を構えたチェシャの姿がブレる。紅い眼光の残像を残すほどの速度で動いた彼が異形の背中に回り込み、背中から異形を貫いた。異形も彼の攻撃に反応はしたものの、致命傷を避けるので精一杯だった。
槍を生やした異形がそのまま反撃しようと振り返ろうと足を動かす。
しかし、チェシャの攻撃はまだ終わらない。即座に槍を異形から引き抜き、一瞬で異形の両の膝裏に傷を入れる。動かそうとしていた異形の足がガクッと崩れ、動きが鈍る。
異形側も速度を得た代わりに防御力を犠牲にしていた。故に通った攻撃。
勿論、異形もただではやられない。攻撃を受けても尚足を引いて勢いよく反転し、槍を薙ぎ払う。
しかし、すでにチェシャの姿は紅い光を残して掻き消えている。渾身の一撃は風を切るのみ。
彼の姿は異形の右側面。
槍を振り切った姿勢で無防備な異形を彼も体をばねのように引き絞り、捻り、解き放った薙ぎ払いで腹を打ち据える。異形の渾身の一撃は外れたものの、チェシャの渾身の一撃は綺麗に異形の腹を強打した。
人型ゆえに脆い腹を片手で抱えて、よろよろと異形が後ずさる。
当然、黙って見過ごされることはない。槍を引き戻したチェシャが心臓めがけて槍を振るう。
そしてそれは綺麗に深々と異形の胸を刺し貫いた。
「……」
返ってきた確かな感触に無言でチェシャの力が抜ける。今度こそ倒した安堵に頬を緩めた。
そんな彼に異形が再び口を開く。
「戦闘データ最適化完了」
「──!!」
まだ息の根を止めていないことに気付いたチェシャが槍を捻って体の中を荒らす。
「──カハッ」
しかし異形はそれに構わず、チェシャへ拳を入れる。みぞおちから突き上げるように入れられた拳がチェシャに胃液を吐き出させながら壁面まで吹き飛ばした。
すぐさま異形は追撃に移る。上から振り下ろした槍をチェシャは避け切ることが出来ずに、槍が掠めた体が地を転がる。
追いかけてくる異形に抵抗するため、辛うじて握っていた槍を突き出すも、苦し紛れで大して勢いも乗っていない攻撃は弾かれるどころか異形の手に掴まれた。
そして、チェシャの手から黒く染まった琥珀の槍が抜き取られ、投げ出される。
武器を失った彼は異形と距離を取ろうと残像を残し、姿をかき消す。
「ッ──!」
移動した先は倒壊している柱の裏。が、移動したチェシャの腹に異形が投げた槍が突き刺さった。
くの字に体を折った彼は血を吐き出しながらばたりと地へ倒れる。
「ヴヴアァァ……ッ!」
体を血みどろに濡らして尚、槍を引き抜き、己の武器へと変えるチェシャ。その姿は狂気に満ちていた。
だが、すでに彼に勝ち筋を掴む思考の余地はない。
武器を手にした彼は残像を残して姿をかき消し、異形の正面に現れて槍を突き出す。
そのころには異形の拳が彼の目前に迫っていた。
突撃したチェシャと異形の拳の勢いが重なり、宙で一回転して、彼は地面に落ちた。
持っていた槍も手放してしまっている。そのまま痙攣して、すぐに起き上がることもなかった。
とうに、彼の体力は限界だった。
「頭が回っていないな。作り物に痛覚があるわけがない。動くのに重要な部位をあっさりと破壊されるような作りにもするわけがない。所詮は成熟しきっていない人間か」
クロウが肩をすくめて吐き捨てる。
──これだから人間は。
感情に突き動かされ、間違いを起こす馬鹿な生命体。欲望に惑わされ、仲間同士で争う醜い生命体。
滅びるのも仕方ない。クロウはそう考えていた。
だが、己の成果を知らしめるために人間という生命体は分かりやすい反応を示す良い観客ではあった。
となりとただ茫然と異形とチェシャの戦いを見つめるアリスがとてもいい例だった。
彼女は半分機械の体ではあろうが、人間的側面は変わらず有している。
「どうだ、アリス。これが偽黒騎士の力だ。これで安心できたか?」
クロウはアリスがチェシャを、仲間たちを心配していることを承知の上で尋ねる。
半分脅しが混じっていた。彼らが偽黒騎士を撃破するのではないかという希望を折るための言葉だった。
彼らが仮に善戦しようと、仲間の元へ復帰するというアリスの選択肢を奪うための釘を打ち込んだ。
「──ったからッ!」
「なんだ?」
「分かったからッ! もうやめてッ! もうこれ以上は……チェシャが死んじゃうよ!」
呆然と立ち尽くしていたアリスの第一声もまた彼女を想う彼を気遣う言葉だった。
彼女の言葉にクロウは少し腹を立てた。ある意味彼女の希望は折れていないように見えた故に。
しかし、ここでの勝ち目は潰した。それはアリスも認めている。
ならば上々だった。
「そうか……。まあいい。スカ──」
その時の二人の誤算はチェシャがまだアリスを切望し、彼女の声を引き金に動き続ける執念の存在だったこと。
「──……ス?」
「……?」
クロウが倒れた筈の声の主を見る。
もう限界などに通り越して、寿命すら削って動いていたのではないこと思える執念の獣はまだ起き上がろうとしていた。
不可解。そして、嫌悪がクロウに走る。
あの執念ぶりはどこか過去の自分を見ているようだった。
つまるところただの同族嫌悪。故にクロウが初めて感情をむき出しに叫んだ。
「スカーサハッ! そいつを潰せッ! 完膚無きにッ──!」
命令を受けた異形は瀕死も瀕死のチェシャに向けて槍を振るう。
突き刺さった。そう思えた槍は残像を捉えるだけ。
本体は既に異形の頭上で槍を構えていた。彼の槍はもう琥珀の輝きが完全に失せていた。
黒い執念と願望を形にした彼の槍は異形の頭を貫かんと振るわれる。
異形は素早く槍を引き戻し、チェシャの槍に向けて振り上げた。
──キィィィィィッッン!!
激突、交差、火花が散る。
金属がすさまじい勢いで擦れ合う音がこだまする。耳障りで不快な音に思わずこの場の戦いに関わっていないものが耳を塞いだ。
火花が消える。
同時に一人と一体の黒騎士は互いに残像を残して、また火花を散らせながら目にもとまらぬ速度で槍を打ち合わせていく。お互いが求める勝ち筋は相手の隙を作ること。
そのために相手の武器を防御に使わせないタイミングが必要だった。
お互いの槍裁きは早すぎて一度の回避では致命傷は狙えない。故に致命打を狙いながらも相手の武器を狙っていた。
何度も響く不快な金属音。
圧倒的次元での戦いがその音を響かせて続いていた。
速度と速度、力と力がぶつかり合う。体格差があって尚、お互いはどちらも譲らず槍を鳴らし合う。
が、その均衡は徐々に崩れていた。
紅い眼光の残像と、大きな黒い残像。
前者が後れを取り始める。限界に限界を超える戦いに肉体が戦いについていけなくなっていた。
火花が散る回数も、金属音も減っていく。
攻めるために槍を振るうのが異形のみとなっていた。
チェシャは攻撃が減り、回避の回数が増していく。
そして──
──カァァァァァッン
黒ずんだ琥珀の槍が宙を舞う。
均衡が崩壊し、傾いた。
吹き飛ばされた槍に腕を取られ、完全に隙を晒したチェシャへ異形が槍を突き出す。
「アイリスッ──!」
そこへ咲いた紫の花弁。
防御に拘った騎士の盾は異形の攻撃を微塵も通さず、防ぎ切る。
せめぎ合う槍と盾。
しかし、乱入はまだ終わらない。
突如光が爆発する。閃光がこの場の者の視界を奪う。
異形の視界が取られ、槍を押し返していた力も消えた。
光が収まる。異形の目の前に落ちていたのは閃光爆弾の成れの果て、中身を保存していた皮のみがそこに取り残されていた。
異形が敵を探して辺りを見回すも、もうチェシャの姿は見えない。
そして、クオリアに加え、最初に異形が意識を奪ったボイドとソリッドも異形には探知できなかった。
「……逃げられたか」
「ねぇ、もういいでしょう?」
アリスがクロウの白衣の袖を引いた。
何が起こっていたかは彼女にも理解できなかったものの、チェシャ達がこの場を無事に離脱したことは分かった。後はアリスがクロウの言う通りに従えば、ことは終わる。
「僕が決められる話じゃない。特に今の戦闘を見た後じゃ」
「どういうこと?」
「……聞いているんだろう?」
クロウがアリスではない誰かに呼びかけた。
しかし、返事は帰ってこない。そのことにアリスが首を傾げた瞬間、風が窓から入って来る。
思わず腕で顔を覆ったアリスが風が止んでから目を開けると、そこには下で見た天使が羽を折りたたんで立っていた。
「勿論。あの男は十分に良い駒になる。故に、逃げてもらっては困る。選別が必要だ」
「はぁ……承知した」
深々とため息を吐き、勢いよく玉座に座り込んだクロウを見てアリスが困惑する。
第七試練に移動するのではなかったのか。今のどっぷりと玉座に背中を預ける彼はどう見ても移動する気には見えない。むしろ追い払った彼らが戻って来るのを待っているようにすら見えた。
「どういうこと……?」
「こいつが欲しがっているのは極上の戦士。守秘義務だから詳しくは話せん。とにかく、あいつらをこの偽黒騎士で倒さないとだめだということだ」
「それって……」
アリスがこちらについた意味が薄れる。ならば彼女がこちらにつく意味もなくなる。
それはクロウも予見していた。しかし、彼がどうこうできる問題ではない。同時に彼の契約者はそれ許さない。
彼は手をひらひらと振りながら口を開いた。
「もう今更拒否権はないさ。なにより、こいつが逃がさんよ」
「ああ、我の、我々の悲願の邪魔はさせない。だが、貴殿に危害を加えないことは約束する」
「……」
表情は変わらないものの、一気に溢れ出した威圧感にアリスは動けなかった。
人質だ。こうなってしまった以上彼女がチェシャ達を手伝うことは出来ない。
──ごめん、みんな……。
罪悪感に苛まれ続けながらも、もう出来ることがなくなったアリスは内心でチェシャ達に謝罪をしながら崩れた柱に身を預け、ずるずると背中を擦らせながら静かに腰を下ろした。