偽黒騎士
城の内部へと入った彼らは言葉を失った。
想像以下、という意味で。
「なんだこれ」
「……ボロボロね。何かが暴れまわったみたい」
内部は床も壁も大理石で出来ていた。壁面の真下で破損した額縁がいくつも落ちていて、元は絵画が飾れていたことが見受けられるもののどれも原型を留めていない。
天井には何かを吊り上げていた跡がある。しかし、今は何もない。
燭台も存在せず、中の明かりは唯一原型をとどめている窓から入る光だけだ。その窓も、光を通すガラス板は完全に砕け散って、辺りに破片が散乱していた。
床に敷かれた真っ赤な絨毯は奥へとひたすらに伸びているが、黒ずんでいてとても綺麗には見えない。
とても、誰かが住んでいる場所には見えなかった。
「とにかく……奥へ行きましょ」
アリスはそんな城の内観にも興味を向けず、奥へと伸びる赤い絨毯を踏みしめて淡々と先を行く。
いつの間にか先頭はチェシャからアリスへと変わっていた。どこか焦っているように見えるアリスをチェシャは心配していた。
「ねぇ、アリス。どうしたの? 急いでる?」
「何も──」
「ないことはないでしょ」
アリスが不満げに眉をひそめる。
しかし、チェシャだけには、言いたくはなかった。
だからと言って、チェシャがそれで納得するとは思えないし、以前に自分はチェシャの家族事情に踏み入ったのだ。自分だけ黙り込むのも筋がおかしいことなど十分に分かっていた。
頭ではどう言い逃れるか迷う中、彼女の足は淡々と奥へと向かう。
廊下へと移動してもボロボロの内観は変わらない。まるで今の状況だ。
「言いたくないなら……今は聞かない」
その言葉に思わずアリスの歩調が緩む。チェシャが引くとは思えなかったからだ。
ある意味ここにきて一番の驚きだった。
「そんな驚く?」
予想以上の反応にチェシャが苦笑する。彼にもアリスがどう言うべきか悩んでいたのは見てすぐに分かった。
ここで無理やり聞き出すのも難しそうなことも。
アリスが焦っている理由は分からなくとも、この先で知れることに関わっているのならば、いずれ彼女が話してくれると信じることにした。
「……ごめん」
「謝らなくてもいいから。話せるようになったら話してよ?」
「分かった……ありがと」
「ん」
小声でのやり取りを終えた彼は前を向く。
赤い絨毯は各部屋を仕切る扉さえも開きっぱなしにしてまで続いていたが、その絨毯がついに目の前の扉で途切れていた。そのことに一行がこの先が終着であることを察する。
「入るね」
アリスが振り返り、皆に告げる。そこには入ってもいいかという質問も混ざっていた。
四人の答えは首を縦に振るのみ。答えを確認したアリスは安心したように固まっていた頬を緩めて扉に手を駆けた。
ドアノブが捻られて、扉が開かれる。
扉の先は開けた場所だった。途切れた赤い絨毯が再び伸びて、奥にある玉座にまで続いている。
そして、他の部屋と同じく壊れたシャンデリアや燭台に、薄汚れた壁や砕けた柱の破片が散乱し、とても人がいるように見えない。
しかし、絨毯が導く先の玉座にはボイドと同じような白衣姿の男性がひじ掛けに頬杖をついて、けだるそうに五人を見つめていた。そして、玉座の後ろには唯一小奇麗なカーテンが大きな膨らみを作りながら何かを隠していた。
「来たか。こんな物騒なところで悪いが、近くに来てもらえるか」
頬杖をついたまま、男は言う。
五人も警戒は見せたものの、玉座に座る男性がグングニルの現マスターであることを悟った彼らはゆっくりと玉座へと近づいてく。玉座前の段差の低い数段の階段の手前で五人は足を止めた。
近くで見た男の顔は伸ばしに伸ばされた無精ひげで見えている肌がどこも黒みを帯びていた。
「あなたがマスターか?」
「いかにも。そうだね……クロウと呼んでくれ。スカーサハにもそう呼ばれている」
「……では、クロウ。何の用なんだ?」
「単刀直入に言おうか。チェシャ、君の血を採血したい」
「俺?」
クロウは気怠そうながらも、瞳の奥に鋭い眼光を灯らせてチェシャへと目線を向ける。
瞳の奥に執着心が燃えているのを感じ取ったチェシャは半歩引きながら首を傾げた。
「ああ。それが終われば君たちに第七試練──僕とアリスには懐かしいあの場所へと転移権を上げよう。どうだい? 安い話だとは思うのだが」
「……」
チェシャは四人を見回して是非を問う。
彼の無言の問いに対して誰も首を振らなかったのを確認してからチェシャがクロウの方を向き直り、口を開いた。
「分かった。俺はどうすればいい?」
「近くに来てくれ」
チェシャは苦労に言われるがままに段差を登ってクロウの目の前に立つ。
すると、ポケットに手を突っ込んだクロウが注射器を取り出す。チェシャは尖った針先を見て、体をこわばらせたものの、深呼吸で意を決してから腕を差し出した。
「痛みは一瞬だ。力は抜いておけよ」
その言葉にチェシャが力を抜くのをまってからクロウは注射器を彼の腕、肩下あたりに刺した。彼の黒い皮膚を貫き、注射器は彼の血を汲み上げる。注射器の中に赤い液体が溜まっていくのをどこか他人事のようにチェシャが見守っていた。ばら撒かれた血や、血だまりは何度も見たことがあっても、こんな形で血をたくさん見るのは初めてだった。
「終わりだ。その皮膚なら刺し傷はすぐに塞がる。血は軽く出るが、まあこれでいいだろう」
「……それはやめて、自分でやる」
注射器を入れていたポケットとは反対側の白衣のポケットをまさぐったクロウが薄汚れたハンカチを取り出し、注射器を刺した後に噴き出す血を拭い取ろうとしたが、何かとダメそうなので断ったチェシャが自前のものを使った。
そして、二人の様子を四人が固唾を飲んで見守っている。目的が共通という点では味方であっても、まだ信頼できると決まったわけでもなければ、そもそも敵かもしれないのだ。得物に手をかけて臨戦態勢、とまではいかずともいつ戦闘になっても構わないように集中していた。
「で、これで十分なの?」
「ああ。十分だ。少し待っていろ」
玉座から立ち上がったクロウは後ろのカーテンに向かって歩いていく。
チェシャも奥にある小綺麗なカーテンは怪しんでいたので、中身が見えることを期待していたが、クロウは腰を落としてカーテンを下から潜っていった。
それでも、カーテンを潜る拍子に隠された何かカプセル状の躯体が見えた。そして、それはチェシャには見覚えのあるものだった。
──アリスが入ってたやつ?
しばらくすると、ポコポコと泡音が聞こえてきた。
アリスが入っていたカプセルのような躯体は水が入っているものではないため、チェシャが思い浮かべたものとは違っていたもののカーテンの奥に何かの生命体が居ることは推測がついた。
泡音がし始めてから間もなくクロウがまたカーテンを下から潜り、戻って来る。
「待たせたな。用は終わりだ」
「あっさりだね。転移装置はどこにあるの?」
「そう焦るな。まだ話は終わっていない」
「用は終わったんでしょ?」
「ああ、そうだが……」
クロウがアリスの方を見やる。急にアリスに視線が飛んだが、彼女は驚きもせずに彼を見返していた。
アリスが今からクロウが言う言葉に検討がついていた故に。
「アリス。もう、お仲間との楽しい旅は終わりだろう? こっちに来い」
*
わたしはクロウから投げかけられた言葉に迷っていた。
マスターではなくなったわたしに助言をするスカーサハもクロウにつくべきだと言っている。
そして、それが正しいことだとわたし自身もよく分かっていた。
──はぁ!? そんな世界、滅んで上等じゃない!
これを聞いたとき、クロウは笑い出すのを堪えるのが大変だったと思う。
確かに、記憶を彼の都合のいいように変えられているのは分かっている。だけど、このままチェシャ達と一緒に魔力吸収機構を止めるのであれば、きっとクオリアが怒り出すことをしなくちゃならない。
そして、そのことを考えれば、クロウにつくデメリットは記憶を多少弄られるだけで済むことだけ。
全然多少じゃないけど、まだマシだと思う。
だから……。
「アリスちゃん!?」
傍から見れば迷うことなく歩き出したわたしにクオリアが声を上げた。
どう見ても信頼できない彼にどうして。みんな聞かなくてもそういうことを考えてるのはすぐわかった。後ろの三人は顔が見えない、けど、玉座の近くにいるチェシャの不思議そうで、悲しそうで、泣きそうな、色んな負の感情が入り混じった顔を見るのは辛かった。
だから、せめて、わたしのことをきっぱり忘れてもらうために、素知らぬふりで彼のすぐ横を通り過ぎた。
「アリスッ──」
伸ばされたチェシャの手が視界の端に映った。それに見向きもしないで、感情を押し殺して、クロウのそばに立った。
わたしが迷いなく歩いてきたのを見て、クロウがくつくつと笑う。
「確か、そこの女。クオリアと言ったか」
「……」
クオリアがクロウをキッとにらみつけた。
大方わたしがあっさりそっちにいったのはクロウが何かしたか疑っているのだろう。
「あの時の口上、片腹痛かったよ。そんな世界、滅んでしまえばいい? 君たちは本当に何も知らないんだな」
「何言ってるのッ?」
「それはこちらの台詞、とだけ言っておこう。……まあ、ここまであっさり行くとは僕も思わなかったさ。少しつまらないからチャンスをやろう」
わたしが何も言わないのを利用して、クロウは何故か悪役らしく振舞っていた。それは必要のない行為、別に彼は少なくとも世界にとって悪ではない。
おぼろげな記憶が確かならば、回りくどいこともせず、ただ目的を追いかける人だったはずなのに。
そんな思考の間にクロウがポケットの中で何かのスイッチを押した。
後ろでレーンが滑る音。わたしは知っているふりをして、振り向いていないけれど、多分、カーテンが開いている。
「「──ッ」」
みんな一斉に息を呑んだ。特にチェシャが目の奥を揺らして、いっぱいに見開いている。
彼の様子、クロウがとった彼の血、そして、グングニルに居た天使の像。それらが積み重なって、わたしはカーテンの裏に居る存在を察した。
「起きろ、偽黒騎士」
──パリィッッン
クロウが声を上げると、後ろから二条の赤い光が射し、ガラスが砕ける音が部屋に響いた。
きっと、チェシャを模倣した──いえ、それでは足りないから他にも混ぜた何か。
多分、天使の細胞か何かも混ぜてる。わたし達をここまで連れて来たあの天使がクロウのことを契約者と言ってた。対等か、支配しているかは分からないけれど、頼みごとが出来る関係ということ。
それを利用して天使の要素も混ぜた?
靴音ではないが、コツコツと異質の足音を鳴らして、偽黒騎士がわたしの──クロウの前に立った。
ようやく見えたその姿はもう人じゃなかった。
確かに人型だけれど、体格は三メートルは超えているし、腕は槍と盾に、足は指先が鷲の足みたいに大きなかぎづめが付いて、大きく変わってる。おかしな足音も鳥に変わったそれの所為かもしれない。
他にも両肩に触手のような黒い何かが生えてる。兜も人が被るようなものじゃなくて、仮面みたいに、肌に沿うようなものになってた。
あれが、チェシャの完成系だとしたら、やっぱりわたしはもうチェシャ達の力を借りられない。
……借りるわけにはいかない。
「これがわたしの、対厄災殲滅兵器、偽黒騎士だ。ふふ……名前に関しては少々縁起の悪い名前だが、出力は申し分ない千年前じゃ使えなかった兵器もこいつならば扱える」
クロウはとても楽しそうに語る。宝物を見せつける子供のように。自慢の発明品を説明する発明家のように。
その姿はとても見覚えのあるもの。それも何となく察せる。
ともかく、クロウの話は四人とも聞いちゃいない、みんなの目は偽黒騎士に釘付けだった。
「元々僕の目的は君たちが言う厄災を倒すこと。君たちが僕の兵器を何とかする術があるならば、君たちに運命を委ねるのも構わない」
クロウがそう前置きしてから、にたりと笑って言った。
「さて諸君。ゲームを始めようじゃないか」