名の知らぬ感情
「……」
「……」
家の居間で正座しているチェシャを冷たい目つきで目下すアリス。険悪な雰囲気が辺りを漂い、特に微動だにせずチェシャを見下ろしたまま動かないアリスの表情はなんの感情もこもっていないせいで、彼女の対面にいるチェシャは言葉にできない恐怖に襲われていた。
彼女の目が絶対零度の如く冷たくなった原因。正座をおかげよく見える彼の大腿部、今は服を着ているので直接目に出来ないものの、黒く染まっていることに起因していた。
チェシャがアンセル達とカグツチを討伐し、翌日に打ち上げ。さらに翌日、アリスが退院をして、家に帰ってきたのだったが、風呂上がりで下着姿のチェシャとばったり会ってしまった。
そこで起きた一悶着もあったが、それはそれとして、アリスがチェシャの大腿部が全体ではないものの、ところどころ黒い鱗のようなものに覆われているのに気づいてしまった。
皮膚が黒くなったのはもちろん、カグツチとの戦いで変身したこと。深い傷を負う前に変身したおかげで進行は少なかったものの、変わったことは確実。僅かいつか目を離した隙にやらかしているチェシャにアリスが怒りを通り越して表情が抜け落ち、正座の命令を下されていた。
「ね、これ」
正座から数分が経ち、アリスがようやく口を開いた。その口から出た声も冷め切っていて、内心気が気でないチェシャはゆっくり顔を持ち上げ、何を考えているか分からない彼女と目を合わせる。
アリスの目尻には涙が溜まっていた。
チェシャは忘れていたのだ。
アリスは怒りたくて怒っているのではない、そもそも怒っているのではなく、溢れ出た感情に彼女が揺さぶられた結果。
そして、彼女にそうさせたのは自分のせいだという当たり前の事実に。
「──!」
「ねぇ……何をしたの? 第六試練に少し入っただけなんでしょう?」
冷め切っていた声が震える。目尻にたまった涙が零れ落ちて、チェシャの膝で弾けた。思わず言葉を失ったチェシャがなんとか返事をしようと拳を握りしめて口を開いた。
「他の、他の探索者の手伝い、みたいなのをしてた。でも、ちょっとしくじってさ」
広間からの脱出で手一杯だったアンセル達がしらないこと。
大蜥蜴達にバレた時、チェシャは確かに閃光爆弾を使った。しかし、偶々地面に投げつけたそれが爆発しなかったのだ。戻って閃光爆弾を踏みつけたせいで、想定よりも逃げるのが遅れた。
まともに炎から生き延びれないのを認識し、諦めて黒騎士に変身した。その結果がこれだった。
後にカグツチに焼かれたことを考えると進行度は少なめだったのだが、少しずつ黒に浸食されていることに変わりはない。
「……どうして?」
またアリスの目尻から涙が零れ落ちた。
チェシャの両膝に冷たい感触が弾けた。
「ほら、掌握魔力? の練習をしたくってさ。俺が、もっと強ければアリスやクオリアがあそこまでの怪我はしなかったはずなんだ」
黒騎士での活動に掌握魔力が関係することを体感で理解していた彼の動機。
ボイドには窘められたものの、彼は依然、気にしていた。
「そんなの……そんなこと……ないじゃんっ! わたしなんか気にしなくていいのっ、傷は治るんだからっ」
アリスが膝から崩れ落ちて膝を内に向けた状態でぺたんと地面に座り込む。
そして、チェシャの両膝に乗せられている彼の黒い右拳を両手で包み込んだ。
槍を握り続けた彼の手は確かに硬かった。けれど、今のようなまるで籠手の上から触っているような感触ではなかった。つまむことも出来たし、何より暖かかった。
それも、今の黒い皮膚に覆われた彼の拳からは感じられない。
「死ぬよりは、安い」
「わたしは……──っ!」
チェシャが淡々と言い放つ。
これだけは譲れなかった。少なくとも、お互い存在を認識できることは絶対に死ぬよりは良いことだと。
それはアリスにも理解できた。
だからこそ、機械で出来ているから簡単には死なない。その一言がアリスには言えなかった。言って敬遠されたくなかった。
きっと彼ならば変わらないでいてくれることなんて分かっていた。それでも、同じ人間として見られたかった。
いくつもの迷いや恐れがアリスの中で駆け巡り、言葉にならない嗚咽が零れた。
「……泣かないでよ。別にまだまだ大丈夫だって」
空いている左手でアリスの目元をそっと拭う。
しかし、彼の手は凹凸がないものの、硬い。彼女の顔に触れないように目尻から零れ落ちそうな涙を拭うことしか出来なかった。
皮肉にも今の自分の言葉がすでに嘘になってしまっていることにチェシャは口端を少し上げて小さく笑い、自嘲する。
「うっ……うう……」
アリスの嗚咽が静かにこだまする。
その嗚咽を根底から止める手段をチェシャは持ち合わせていなかった。
仮にチェシャがアンセル達との探索でしくじっていなかったとしても、いずれ直面していた問題。それが表面化しただけ。回復の術も分からない。いつかはチェシャの全身が黒の異形と化すだろう。
その問題を解決できなければ目の前の少女を泣き止ますことは出来ない。
例え、アリスが泣き疲れて眠ってしまい、次の日には泣いていなかったとしても彼女の心は泣いている。
「……ごめん」
泣き止ます術も、不安をなくさせる術も、慰める術も何も持ち合わせていないチェシャの口からついてでたのは謝罪の言葉だけだった。
何かできないかと彼が彼女に握られていた手を握り返しても、彼の肌の暖かさはアリスに伝わらない。
彼女が感じるのは黒い皮膚の鉄のような冷たさだけだ。
しかし、肌のぬくもりは感じられなくとも、遠慮がちに彼女の手を取って、痛みを感じさせないギリギリまでぎゅっと握ってくれる彼の心の温かさはアリスにしっかりと届いていた。
だからこそ、アリスの心配が加速する。こんな彼だからこそ、また窮地に飛び込み、人から離れようとするのではないかと。
アリスが上半身を倒し、チェシャに寄りかかる。まだ彼の足は黒に染まっていない。故に布越しに彼の体温も感じられる。
──自分のことは隠してるくせに、何やってるのかなぁ……わたし。
罪悪感に苛まれながら、いつの間にか涙が止まった瞳をアリスはそっと閉じて、安心できる枕に体を沈ませた。
無言のまま過ぎる時間。二人で暮らしているからと言って、常に話すわけでもない。話題をいちいち探すこともない。家での会話は大抵とりとめのないことで、その場の思い付きだ。
思いつかなければ、賑わいもなく、静かに、そして穏やかに時間が過ぎる。
チェシャの膝に倒れ込んでいたアリスが寝返りを打ち、膝を枕に床に寝転がった。
チェシャは何も言わず、アリスの髪を一度だけそっと梳いて撫でる。彼から顔を背ける形で寝ていたアリスがゆっくりと顔を天井に向ける。
すると、アリスを見下ろしていたチェシャと目が合った。
それ以下もそれ以上なく、アリスが再び目を閉じる。アリスを見下ろしていたチェシャは後ろに手をついて、おもむろに天井を見上げた。
特筆するものはない、白い天井と、二人を照らす魔石を使った照明器具が吊るされているだけだ。
アリスが今何を考えて、どう思っているかなどチェシャは知らない。けれど、この時間が彼女にとっても、心地良い物だという根拠のない確信があった。
チェシャの体にアリスが身を預けるときは家で時々あった。そういう時はどちらも喋らず無言で過ぎる時間だが、その状態で眠りに落ちたアリスの寝顔は毎度にやけた顔をしているのだ。
きっといい夢を見ているのだろうと、起こさないようにソファで寝かすのも毎度のこと。
明日が早朝からの探索だったりするときはベッドに運ぶこともあれど、そのときに彼女が毎度呟く“おにいさん”という言葉を聞くのも少し嫌だった。
静謐を過ごす。
言葉は交わさず、ただ時間を共有する。傍から見れば無駄に見えても、孤独を嫌う彼らにとっては間違いなく重要な時間だった。
慰めあいと思われるかもしれなくとも、お互いを無意識に求める彼らにとっては疑いなく必要な時間だった。
──チェシャが黒騎士になる前に、終わらせる。
その時間を通し、感情を落ち着かせてきたアリスが自身の考えをまとめる。そして、決意を固めた。
けれど、今だけは。
「ねぇ。チェシャ」
「なに」
「楽しい?」
「楽しい……は違うかな……落ち着く」
「そっかぁ」
アリスはへらりと顔を破願させる。彼女に小さくとがった唇がほんの少し開いて、頬が持ち上がった。その顔を見つめるのがなんとなく辛かったチェシャは首を回すふりをして視線を外した。
──わっかんないなぁ。
この時間は嫌いじゃない、むしろ好きだ。孤独を嫌う彼にとっては満ち足りた時間だった。物語のようにキスをしなくとも十分に満足している。
同時に、キスという単語が連想されるくらいには彼女のことを意識していることに気付いていなかった。
そのせいで、胸の中で渦巻く、落ち着いているのにどこか苦しくなる何かに名前を付けることが出来なかった。
アリスはどう思っているのだろうと、チェシャがふと思い立って、それとなくそらしていた視線を下ろして口を開く。アリスは相変わらず破願して微笑んだままチェシャの顔を見上げていた。
「アリスは?」
「幸せだよ?」
「あぁ、それだ。俺も──」
──幸せ。
現状に対する気持ちの答えは出なかったものの、幸せだからこうしているのだというズレた結論はでた。
その結論に勝手に納得したチェシャが小さく頷く。
「チェシャ?」
「何もない」
「うそ」
「うん」
「何考えてたの?」
膝上でアリスが小さく首を傾げる。亜麻色の髪がチェシャの膝と擦れて、彼をくすぐった。
「幸せ、だなって」
「そっかぁ」
またアリスが破願する。とけるように綻んだ顔のままアリスが緩やかに目を閉じる。
それ以降、会話はなかった。
二人はアリスが寝付くまでこの体制のまま夜をすごした。