空の住人
彼らの味気ない回廊の探索に変化が訪れたのは二つ目の角を曲がった時。ふとチェシャが何かを感じ取って上を見上げた。役割上先頭に立っている彼が突然上を見上げれば、後ろの二人も上を気にする。
「何かいるの──」
言いかけたボイドの言葉は途中で掻き消える。それは空を羽ばたいていた。羽ばたきの音はボイドとソリッドには聞きとれない。しかし、それが高度を下げるにつれ彼らの耳にも風を仰ぐ音が聞こえてきた。
「なぁボイド。あれ、俺も話とかなら聞いたこと、あるけどよ。あんなにでかいのか?」
「限界まで筋肉を減らした鳥じゃないからな。私たちと同じ体である以上、あのサイズになるのは仕方がない、のも分かるが。実在するんだな」
「うん。本でしか知らなかった」
それは人形のような整った少女の体に幅五メートル超の純白の羽をもつ存在。
俗にいえば、天使。
それはお伽噺でしかいられない存在で、けれど、この空の回廊にはお似合いな存在。舞い散る桜を背景に風になびく肩まで伸ばされた白髪と共に宙を羽ばたく姿は清廉で、儚い美しさを持っていた。
「こっち、来る」
チェシャが槍を握る手に力を籠める。天使は三人を見下ろしながら、大きな背中の羽を羽ばたかせ、ゆっくりと下降してくる。顔に緊張が走る三人とは対照的に少女の顔に何の感情の色は映らない。無表情で彼らを見据えるのみ。そんな一方的なにらみ合いは天使が三人と同じ高さになるまで続いた。
「……」
回廊の外、無限に広がる雲の上、人のみでいられない場所で滞空する天使。三人の探索者に警戒されているそれは無表情のままついに口を開いた。
「──獣の王ベルセルク、神の馬スレイプニル、氷炎の主カグツチ、対魔兵器ヤヴン、人造龍リヴァイアサン。五の試練を乗り越えし者たちよ、この先に進む意はあるか?」
三人は天使の発した言葉の意味を理解できずに固まる。しかし、ボイドはその状態からいち早く天使の言葉を理解し、立ち直った。
──聞き慣れん名前もあるが、門番のことか。別称も気になる話は多いが……。
「この先に進むとどうなるんだ?」
両の手に握られた錬金砲の引き金に震えた指をかけたままボイドが尋ねる。天使は三人を俯瞰するように焦点を合わせていなかった目をボイドに向けて、しばし見つめた。
沈黙、天使の羽ばたく音がよく聞こえた。
「契約に基づき、汝らに第六の試練を与える。進まぬのならば、お引き取り願う」
芝居がかったような口調で天使は淡々と述べた。彼女の言葉を咀嚼し終えたボイドが少し目線を落としてから口を開く。
「分かった。なら一度もどろう、まだ準備が出来ていない。また訪れても試練は受けれるのか?」
「可能だ。すぐに戻るか?」
「そのつもりだ」
「ならば、羽もなき汝らに帰還の手助けを」
天使が突然腕を上げて、斜めに振り下ろした。三人は彼女の行動に身構える。
「……あ」
彼女に気を取られ、彼らは足元の印には気付くことが出来なかった。唯一、チェシャが魔力を感じ取れたものの、何もできず空の回廊から姿を消した。
*
「うぐっ!?」
「──だっ!」
「……とと」
三人の体はセントラルの試練前へと飛ばされていた。まだ正午を回っていない時刻なので、探索者たちが集う前で宙に浮かされたボイドとソリッドが重なって倒れこみ、事前に魔力の兆候を感じ取っていたチェシャはつま先でつんのめる形でなんとか耐えきる。
このような状況は常日頃ではないものの、探索者となれば皆が知っていること。試練の門番を倒した証でもある。しかし、チェシャ達のことを知るものは少ない。ここで拍手で迎えられるのはカナン達のような最前線として活躍し続け有名となったもの達だけ。知らないということは基本的に第一試練の攻略者。有象無象が蔓延る第一試練から抜け出せたことを素直に称賛するものはここには居ない。嫉妬とはそういうものだ。
一瞬視線を集めた後、すぐに興味を失われ、雑踏の音に紛れる三人。チェシャがソリッドとボイドを助け起こし、この場ではゆっくり話をすることも出来ないので、無言で示し合わせた彼らがその場を離れる。向かう先はバー・アリエル。
「……ビビったぁ」
「だな。気付けなかったのも腹立たしい」
魔力の兆候を感じられなかった二人には瞬間転移といっても過言ではない体験だった。曲がりなりとも魔術に触れているので、警戒すらできなかったことを悔やんでいた。
「あの天使が使ったのって魔法?」
「だろうな。二次元で術式を作る魔術で転移なんぞ検討もつかん」
「次元の話はよく分かんないんだけど、魔術と魔法じゃ出来ることに差があるの?」
「理論上はない。魔法で出来ることも魔術印で再現は出来る。その事象が大きくなればなるほど、印の意味不明さと大きさが増して、運用できなくなるというのが正しい差だ」
「ふぅん?」
結局理解が出来なかったチェシャはそれらしい相槌を打つにとどめた。似たような経験のあるソリッドが仲間を見つけたとにやりと笑う。
「それより」
「ん?」
「聞いていたか? 天使の言っていたこと」
「第六の試練を受けるかどうかー、って話?」
「今のオレらじゃしばらく無理だよなぁ」
頭の後ろで手を組んだソリッドが投げやりに言う。アリスとクオリアが復帰する目途は立っているものの、まだ数日以上先だ。グングニルもアリスの手が必要となれば、彼らが今出来ることはない。
「その話はともかく、私が言っているのは門番の名前だ」
「あー、ヤヴンの名前があったのは覚えてるけどよ、なんか大事なのか?」
「特に最後だ。人造龍リヴァイアサン、と言っていた」
「だからどうしたって──」
「作られているんだよ。誰かに」
ボイドの言いたいことが理解できないチェシャとソリッドがお互いに顔を見合わせて首を傾げる。言いたいことが伝わらず、歯がゆいボイドがため息を吐いた後に話を続けた。
「だからだな、ここに現れている迷宮生物は基本的に魔力から作っている魔物の模倣だ。分かるな?」
「あ、ああ」
「だが、人造という言葉を額面通り受け取れば、作られた、すなわち過去の、アリス君の時代の人類が作った兵器だ。その前に言われたヤヴンだって対魔兵器と言われていた」
「そして、兵器ということはある程度数も揃えられた」
そこでようやくチェシャが眉をピクリと跳ね上げさせる。一方のソリッドはまだ得心がいっていないようで、眉をひそめていた。
「それだけあっても、厄災には──ってこと?」
チェシャの言葉にひそめられていたソリッドの眉も持ち上がった。しかし、すぐに彼は嘲笑を浮かべた。
「へっ、つまんねぇな。今更だろ?」
「──敵戦力の分析は必要だ」
ボイドの反論。しかし、ソリッドのが言ったことに対してはズレていた。だから、ボイドの顔は少し歪んでいる。
「それがつまんねぇんだって。言っとくけどよ、オレはクオリアから聞いてるからな? リヴァイアサン? を前にしたお前の話をよ」
「?」
チェシャが首を傾げる。彼はクオリアからここでボイドに言えるようなネタを聞いていない。知っているのはソリッドののみ。
「もう引けねぇんだぞ? 分かってんのか?」
「……分かっているさ」
「じゃあ、そのつまんねぇ腑抜けた顔をとっととしまえよ。オレには威勢よく怒鳴った割には自分はビビってますってか?」
「……」
ボイドが反論もなく黙り込み、三人とも黙々とバー・アリエルに向け歩き続ける。
突然悪くなった雰囲気をどうにかしたくても二人の仲裁に入れるほど事情を知らないチェシャ。彼にはこれ以上場を荒らさないように彼らの後ろを歩きながら、頭の中でサイモンになだめてもらう算段を組み立てることしか出来ることはなかった。
*
険悪な雰囲気が緩むことなく三人はバー・アリエルがある裏路地までたどり着いてしまった。居心地の悪さに限界を迎えていたチェシャが歩を速めて、二人を抜かすと路地を颯爽と進んで、軋んだ木のドアを開けて中に入った。ドア裏についているベルの音はこんな時でも変わらず彼を出迎える。
「……しゃーせー」
そこそこ名の知れたバー・アリエルの主な客層は探索者。今の時間帯では探索者はみな出払っているので当然店内はがら空き。カウンターでだるそうにしているシェリー含め、客が全くいなかった頃と同じだ。常連であるチェシャが来たことに眉を持ち上げたシェリーは空いてますよと言葉を続ける。しかし、チェシャの様子がいつもと違うことに気付き、彼女はシンクで洗い物をしていた手を止めた。
「どうかしました?」
「えーと……」
突然説明するには情報量が多く、元凶もすぐに入って来る。どう説明したものかとチェシャが言葉を迷っているうちに、半開きのままだったドアが再び開かれる。移動距離が少ないせいベルの音は小さかった。
「あ、しゃーせー。いつもの席なら空いてますよ……?」
しりすぼみになるシェリーの声。入ってきたのはボイドとソリッド。それだけならばさしておかしくはないのだが、なにかとやっかみあっている彼らがシェリーのあいさつに対して無言でいつもの席に向かうことはない。しかし、良心がない訳ではなく、二人とも軽い会釈はしていた。
「えーと、そういうこと」
「なんだか、大変そうなのは理解しました。ちなみにどういった経緯で?」
何かと面倒くさがりのシェリーだが、仲が良い人には面倒見がよく、仕事をしている時よりも真面目な顔でチェシャに尋ねる。チェシャが一通りの経緯を説明し終えると、話を聞きながら再び洗い物を消化していたシェリーの目線が下へと落ちる。考え込んでいるようだ。
「とりあえず、何頼むか聞いてきてもらっても?」
「ん、分かった」
心底嫌そうにチェシャがボイド達の席へと歩いていく。彼らが座る席はボイドとソリッドが対面に座っている。その割には一生無言なのだから怖いことこの上ない。客が居ない時間帯でよかったとシェリーは内心胸をなでおろした。
「ご注文は?」
「ボイドがコーヒー。ソリッドが最近でたフルーツオレ? ってやつ、俺も飲んでみたいからそれを二つ」
「かしこまりです」
「フルーツオレってどんなものなの?」
「果物を砕いたものを牛乳と混ぜるだけですよ。ま、砕くのが面倒なんですけど」
そういいながらシェリーはカウンター下の棚から筒状の道具らしきものを取り出した。チェシャの目線も見たことがないそれへと食いつく。
「これ、父さんが何かのツテで手に入れたブレンダー?っていう魔術具らしいんですけど、面白いですよ?」
シェリーがカウンターの調理スペースに筒状のそれ──ブレンダーを置く。ガラス張りになっていて、中の底には複雑な曲線を描く三枚の刃物が刺さっている。そして、蓋を開けていくつかの果物を放り込む。どの果物も市場で売っている林檎などのようなありふれたものではなかった。
「……?」
「うちのは特製ってやつです。お高めになりますけど試練でとれた果物で作ってるんですよ」
多種多様な形の果物を手慣れた様子でブレンダーの中に押し込んだ後、小さな魔石をブレンダーの底にはめ込んで、蓋に手を添えてからスイッチらしきものを押した。
──ヴヴヴヴゥゥゥゥン!!
強烈な駆動音。ブレンダーの中で砕かれ、すりつぶされた果物たちが暴れ狂う。間近で聞けばグングニルにいる機械生命体の駆動音を思わせる音に思わずチェシャが一歩足を引いた。
「あはは、驚きますよね。初めて使った時の父さんの顔も酷くてなかなか面白かったです」
チェシャはあまり見ないシェリーの元気そうな声。アリスやクオリアはそこそこの頻度で聞いているその声も駆動音に紛れてチェシャの耳にはほとんど届かない。それに、慣れてしまえばうるさいだけ、未知の恐怖よりも興味の方が勝り始め、チェシャが徐々に黄色っぽい液体に変わってきた果物だったものの様子を見つめていた。
「……こんなものですかね」
誰にも聞こえない呟きの後、一度スイッチを止める。蓋を開けたシェリーはさらにそこへ、牛乳を流し込み、スプーンで量った蜂蜜も入れた後またスイッチを入れる。
──ヴヴヴヴゥゥゥゥン!!
先程よりも全体量が多いせいか容器の中で波打つのも荒い。二度目となれば心構えも出来るので、驚くこともなくチェシャは牛乳が混ぜられたことで黄色から黄白色に変わっていく液体を無言で見つめていた。もしかすると何かを呟いていたかもしれないが、この駆動音の前では誰も聞き取ることは出来やしない。
「っし、完成っとぉ」
スイッチを止め、蓋を開ける。容器を持ち上げて一杯分ほど残して、二つのグラスになみなみと注ぎ終えたシェリーはグラスをトレーに乗せるとチェシャの方へ押しやった。
「すみませんチェシャさん、コーヒーの方は今から作るので、先にそれ届けてもらっていいですか?」
「ん、……ん」
匂いも悪くはなく程よい甘さも漂う飲み物を見て、食欲を湧きたてられたチェシャが頷きかけるこの後行く場所の状況を思い出したからだ。しかし、愚痴をいってもどうにもならないのを分かって理宇彼は悲しそうに今度こそ頷いた。