仮眠
ある程度五人全員が携帯食料による食事と休息を済ませ、ボイドの案で仮眠も取ることになった。かなり疲弊しているクオリアと同じく女性であるアリスの二人が最初に仮眠をとる。薄い毛布を丸めて枕にしただけで地面は硬く寝辛いことこの上ないが、二人とも水中でもがいて全身の筋肉を使ったためすぐに眠りに落ちた。
「なぁボイドー。」
「なんだ?」
クオリアの寝顔を覗いて彼女が完全に寝たことを確認したソリッドが錬金砲に詰める瓶を入れ替えるボイドに話しかける。話しかけた彼の顔はいつになく不安げだった。
「これからどーすんだ?」
「さあ?」
「おい、リーダー。」
「分かってるさ。」
おどけたボイドが軽く笑って緩めた顔を引き締める。彼が冗談を言うのは珍しかった。
「……することは一つしかない。撤退なしでこの迷宮を一発攻略することだ。」
「ま、そうだよな。」
ソリッドも予想していた答えだったのでつまらなさそうに頷き、地面に腰、体の後ろに手を付けて足を投げ出しす。話をする二人から女性陣を挟んで少し離れた位置で周りを警戒しながら聞き耳を立てるチェシャも残念そうに目尻を下げた。
「あの穴を登れると思うか?」
「無理だろ、壁に伝って上ることも出来ねぇし。けどよ、一発でってのはきついだろ。」
「それしかないのだから仕方ない。」
「……分かってんだけどさぁ……。」
ソリッドは虚空に視線を向けてため息をつく。波に揉まれて酷使した体を完全に休めることなく、このまま残り二階層分探索を続けるのは中々に酷なことだった。これから疲れた体を引きづり探索し続けること自分を想像してソリッドは二度目のため息を吐いた。そんな彼を見て鼻で笑ったボイドが安心させるように言う。
「無理な話でもないさ。」
「いや、無理じゃないかもしれないけどさ──。」
「要はなるべく早く、完全に動けなくなる前に門番のもとにたどり着けばいいわけだ。」
「あ、ああ。」
やけに自信に満ちた口調なものだからソリッドは気圧されて思わず頷く。
「すなわち、下への階段がすぐに見つかればいい訳だ。」
「また壁に穴開けろとか言わねーよな?」
「それもありだな。結果論だがお前が水壁をぶち抜いて否応なしに二階層に降りたのはお手柄とも言える。」
「……。」
表に出していなかったものの、自分の所為でこうなったと自信を責めていたソリッドは口をぽかんと開けて虚空に向けていた顔をソリッドに向ける。彼の表情は引き締められていて、真面目なものだった。
「お世辞じゃないぞ? 実際時間に十分な余裕がないのだから、多少の苦労で早く目的地に進めるならそれに越したことはない。」
「……。」
「お前の考えていることなど大体分かる。」
「……へっ、そうかよ。」
鼻で笑ったソリッドの顔は晴れ晴れとしていた。首を後ろに倒して、持ち上げると同時にすくっと立ち上がる。うんと伸びをした彼はいつもの活気に溢れた声で尋ねる。
「うっし、どうするつもりなのか教えてくれよ。」
「準備万端なのは良いことだがまだ仮眠をとってないだろう? 休んでから話すさ、どうせクオリアとアリス君にも話さなければならんからな。」
「こんな硬い地面で寝たら余計疲れるって。」
「そう言われてもな──」
どうにかしてソリッドにも寝てもらおうと考えていたボイドがソリッドの背後から忍び寄るチェシャに気付く。ボイドの言葉が途切れたことに怪訝な顔したソリッドは次の瞬間後ろに立たれたチェシャの曲げられた膝を膝裏にぶつけられて足をがくん折って崩れ落ちる。
「気付いてないみたいだけど、足、ガクガクだよ? そんなんじゃ無理、寝て。」
水中で出鱈目にもがいたせいでソリッドの全身の筋肉はクオリアの次に疲れていた。まだいろんな出来事が起きた興奮から冷め切っていないので、彼自身は何ともないと脳が誤認していた。ソリッドはチェシャを恨めし気に睨むも、彼の言い分が正しいことを理解していたのですぐにそっぽを向いた。もう一度立つ元気が湧かなかったソリッドと違い、チェシャはしっかり地に震えもしない足をつけてソリッドを見下ろしていた。
「やっぱ、勝てねぇな……。」
「何か言った?」
「何も言ってねぇよ。……ボイド、オレ、先に寝ていいいか?」
「あ、ああ。毛布は彼女達の横の鞄から出してくれ。上の方にもう一枚あったはずだ。」
「うーい。」
小声で呟きながら握り拳を作ったソリッドはその拳をすぐに話して仮眠をとるために二人から離れてクオリアたちの横にあるボイドのバックパックへと歩いて行った。
「チェシャ君は大丈夫なのか?」
「余裕、じゃないけど、まだ大丈夫。強いて言えば左腕が痛いかな。」
丸盾を嵌めていた左腕をさすりながらチェシャは答える。彼がさする左腕の状況は長袖で見えないが、袖から露出している手首は上から蒼の光が降り注いでいるにも関わらず赤みを帯びていた。
「無理はするな、と言いたいがチェシャ君への負担は……大きくなってしまうだろうな……すまん。」
「別に良いよ。はやく、終わらせたいし。」
「何かあるのか?」
低い声で言ったチェシャの言葉に乗せられた何かを感じてボイドは尋ねる。
「……この前グングニルに行ったときにさ、アリスが暗かったじゃん?」
「ああ。二日後には持ち直したようだから私は気にしていなかったが、クオリアが心配そうにしていたくらいだ。」
「そうなんだ。……それで、何が起きたかを聞いたんだけど……。」
「……。」
言葉を探して目線をさまよわせるチェシャをボイドはゆっくりと待つ。
「記憶? がなくなってるみたいなんだ。」
「……記憶喪失ということか? それはスカーサハに初めて会ったときに治してもらったはずじゃないか。」
「俺もそうだと思ってたけど……また? なくなったみたい。」
「……何の記憶が?」
「他にもあるのかもしれないけど、どうして千年眠っていたかが分からないって。」
ボイドは腕を組み、目を閉じて思案する。チェシャの言う通りならばアリスは迷宮を探索している意味が分かっていないことになる。
「……なら、なぜ彼女は今もなお私達と共に居るんだ? それが事実なら逃げるなりなんなりすれば良いじゃないか?」
ボイドとの契約、グングニルに案内することなど古代技術にまつわる彼の研究を間接的に手伝うというものはほとんど達成されていた。後は時間をかけてボイド達が神の試練の攻略を進めればいいだけの話だ。それが厄災の存在によって脅かされているから、急ぐことになっている。
既に契約は満了しているといっても過言ではない。故にボイドは当然のように疑問を持った。
「それは、分からない。でも、分からないけど理由はあるみたい。」
「理由は分からないが、それでも厄災をどうにかする理由はあるということか?」
矛盾にしか感じられない自身の言葉にソリッドは言いながら眉をひそめた。まるで謎かけを解いているような複雑怪奇どころか問題として成立しているのかすら分からない問題。そんな問題にぶつかったアリスが二日で普段通りに見えるくらい持ち直したのはボイドには謎だった。
──謎のままにしているということか?
「みたいだね。」
「そうか……チェシャ君、その時のアリス君に何を言ったんだ?」
「今思い出したらちょっと恥ずかしいから言わない。でも、アリスのやりたいようにすれば良いってことは言った。」
「そうか。」
頷きを返したボイドはしわしわになったメモ帳から辛うじて無事なページを開いて水の抜けきっていない羽ペンにインクを染み込ませてメモを取る。彼が書いた字は抜けきっていない水気の所為で滲んでいて、隣のチェシャには何を書いているのか分からなかった。
──恐らく、チェシャ君が居なくなれば止まっていたな……。依存が増したで済んだなら良いほうなのか? 分からん……そういえば、チェシャ君を助けに行く際のアリス君は自爆でもしそうな雰囲気だったか。ソリッドに当たっていたから、単に精神が不安定なだけだと思っていたが……。それに、記憶喪失にしてはピンポイントすぎる。身の回りのことはすべて覚えているのに、千年前の重要な記憶を忘れるものか? いや、逆か?千年前だから──
暫くペンを走らせたボイドは紙から筆先を離し、手の平の上で器用にペンを回転させながら思考に耽る。様々な考えが泡のように次々と浮かんで、弾け消えて、また生み出される。生み出される度に精錬される泡は答えに近づいてはいるものの、たどり着くことはなかった。