盲目的
チェシャは自身が入院している個室の地べたで正座をしながら顔を俯かせていた。対してアリスは何の感情にも染められていない無表情で、絶対零度の如く冷ややかな目でチェシャを見下ろしていた。カーテンを揺らす夜風よりも冷たい視線をチェシャに浴びせる彼女の命令で正座をさせられてから数分が経過しており、俯いたチェシャの顔は足のしびれを我慢するために歪んでいた。
「……。」
「……。」
二人は無言のまま微動だにしない。数分前まで談笑していた二人は見る影もない。原因はチェシャが背中の黒い皮膚について切り出して治らないことを告げたから。
「どうして?」
そして、数分間の沈黙はアリスによって崩される。彼女の声は弱弱しかった。
「ごめん、先に足、辞めてもいい?」
「……うん。」
「っはぁ……痺れが……。えっと、どうして背中の跡をつけてまでしたか、だよね?」
「うん。」
アリスには何故か分からなかった。アリスが自身の記憶を賭けるかの是非で悩んでいたのにあの時の彼には一切の躊躇もなく今後の人生を捨ててまでも黒騎士に代わって戦場に躍り出た理由が。その疑問を解くためにアリスは目の前の正座から解放されて顔を緩ませたチェシャを凝視する。
「仮に。」
「……。」
「仮に今回でもう全身変わったとしても後悔はなかったね。」
「どうして?」
「アリスは居てくれるんでしょ?」
「それは、もちろんだけど。普通に話せてた人と話せなくなるんだよ? もう普通に暮らせるかもわかんないんだよ?」
彼の余裕綽々とした態度が何によって作られているかがアリスには分からない。否、頭の中では分かっている。ただ、それを信じられないだけ。
──わたしがいるから? ……それだけ?
一瞬綻んだ頬が直ぐにまた硬くなる。我慢しなければアリスの頬は緩みに緩み、解けた末ににんまりと笑うに違いなかった。自分のためと言われて嬉しくない人間は中々居ない。建前や言い訳でもないその本心からの言葉がアリスを動揺させているうちにチェシャがアリスにの問いに答える。
「……オレの体はどうやったって全身黒くなるのは決まってるんだ。どれだけ早くなったって、一緒に居てくれる人を見捨てるよりも軽いに決まってんじゃん。」
「そう、なんだ。」
盲目的とも言える信頼はアリスには心地よかった。しっかり地面を掴んで離さない張り巡らせた根っこのように確かなものが欲しかったのだ。時代から浮いた彼女の心を支えているのは甘えられるものだった。
アリスを突き動かしていた感情はあっさりと消え失せて、冷ややかな目つきもすでに影も形もない。
「どうかした?」
「……。ねえ、ちょっとそっち座って。」
アリスが指さしたのはチェシャの寝ていたベッド。彼女の意図が読めず困惑しながらもチェシャは指示通りベッドに腰掛けた。そして、これがなんだと怪訝な目でアリスの方を見ると、彼女はまっすぐにチェシャの元へと歩き、ひょいと彼の膝の上に座る。
「えっへへ~。」
「……。」
チェシャの頭の中では大量の疑問符が飛び交っていたが、アリスが余りにも満足げに顔を緩ませて自身の胸板に体重をかけてくるのを止めることは出来なかった。それに、彼もまた親愛の表現のように体を摺り寄せてくるアリスを堪能していた。
アリスはアリスで、チェシャの体に包まれて探索者らしいしっかりとした肉付きが自分を押し返して支えることに、安心感を覚えていた。彼の膝に乗った瞬間ぎこちなかった乗り心地もアリスが自分の腹に腕を回されていることに気づくころには快適で、心から体を委ねることが出来た。
「っ! ごめん。」
「だめ。」
いつの間にかアリスに腕を回していたことに気付いたチェシャが腕を抜こうとして、アリスに止められ、抱き着いた姿勢が継続。
「わたしがしてほしいの。」
「……分かった。」
アリスの体に回された腕が再度力んだ。そして、先ほどよりもしっかりと抱き着き肌の感触がお互いにより伝わる。お互いに顔を見ることは叶わないが、両者ともに赤く染めていた。窓から差し込む月光は二人を優しく包み込み、穏やかで、幸せな時間が続いた。
「ねえ?」
「なに。」
「ありがと。信頼してくれて。」
「こっちの台詞、助かってるのは俺の方。」
「それでも。」
「そっか。」
「うん、悩んでたわたしが馬鹿みたいに。」
「悩み?」
「うん。でも、内緒。」
「そ。」
交わされる短文の会話。何の前触れもなく始まって、あっさりと終わる。けれど、沈黙は今の彼らには何の苦もない。このまま一夜を明かすといっても彼らは成し遂げただろう。
しかし、迫る面会時間は別で、中々出て来ないアリスに疑問を持った看護師がチェシャの病室を訪れ、姿を見られたアリスが顔をさらに真っ赤にして病室を飛び出していったのだった。