和解、若い
今宵は満月。しかし、暗雲と土砂降りの雨が覆い隠していて風情もない。その散々な天気は病院の待合室の長椅子で祈るように手を組んで静かに座る少女の雰囲気と似ている。この場に彼女以外の人は受付の看護師のみだった。そこへ、ドアが開いて白衣の男が入ってくる。
「まだ出て来ない、か。アリス君、今日は一度帰ったらどうだ? 君がそんな状態ではチェシャ君を安心させれないぞ?」
外から入ってきたボイドが彼女の肩を優しく叩いた。彼の言う通りアリスも顔に元気はなく、昼間は隠していたらしい隈も浮かび上がり疲れが目に見える。外傷はないものの受付の看護師も時々心配そうにアリスに視線を向けていた。
「……ひ──もん」
「ん? 何か言ったか?」
「……なにも。もう少し待つ、それでだめだったら今日は帰る」
「そうか」
明らかにごまかされたが、ボイドは気にすることなくアリスの横に座った。ボイドはメモ帳を開き何かを書き込み始め、アリスは変わらず静かに佇むのみ。会話はなかった。
そのまま数分が過ぎて状況は再度開かれたドアによって変わる。
「……よっ」
「ソリッド? どうして来たんだ」
「なんか、眠れなくてよ。……なんだよ、どうせ明日は休みにするんだからいいじゃねーか」
「何も言ってない」
「目が言ってんだよ目が」
アリスにちらちらと目を向けながらソリッドはジト目のボイドと言葉を交わすと、ボイドとアリスの座るものと対面にある同じ長椅子に座った。アリスの姿をじっと見つめたソリッドがため息を一つ。
「んで、いつまでふてくされてんだよ。……オレが言っていいことじゃねーけどさ」
「たしかに、あなたが言っていいことじゃないね」
「アリス君──」
「庇うなよボイド。分かってるんだ、オレが悪いことなんて」
ボイドの言葉をかき消したソリッドは沈黙に音を響かせる雨音を聞いてから自虐に満ちた顔で薄く笑い、ぽつりぽつりと話し始める。
「……分かってんだ。間違いなくオレはつまんねー奴だって。チェシャとアリスがいないときに行った共同探索? で、オレと似たような奴だと思ってたナタクだって、いろいろ考えてるんだって思ったんだ」
「……」
「調子乗ってた。……錬金砲に頼ってばっかの頃のほうがマシだった」
アリスは口をはさむことなく無言で先を促す。二人とも真剣故に、苦笑するボイドには気付いていなかった。
「……だからよ。ボイドみたいに言うなら手札を増やす努力? ってのをオレなりにやるつもり──いや、やる」
「それが答え?」
「……ああ」
「ふぅん……」
「なんだよ」
彼の真剣な答えに対しアリスは相槌を一つ打つのみ、いくらなんでも雑ではないかと、しかし、迷惑をかけたのは自分だと二つの思いの板挟みでうぐぐと唸るソリッド。
そんな彼を見てアリスは微笑んだ。
「いいんじゃない?」
「え?」
「むしろ、謝るのはこっちだもの。……ごめんなさい急に胸ぐら掴んで怒鳴ったりして」
怒られているはずだったソリッドへアリスが頭を下げる。ソリッドは自身の状況が反転したことに困惑し、頭にいくつもの疑問符を浮かべる。そして、わたわたと手を体の前で振り始める。
「なんでアリスが謝るんだよ。……あれはビビったけど、悪いのは間違いなくオレなんだ」
「だって、わたしはソリッドを怒れるほどできた人間でもないし、進歩してもないもの」
「はあ? どの口が言ってんだよ。日がたったらどんどん上手く当てるくせによぉ」
嫌味かよ、とそっぽを向いたソリッドの正面、アリスが彼の言葉を聞いて苦い顔をする。それはあくまでも自分の力ではないと知ってしまったから。そしてその事実を話すことも出来ない。アリスはソリッドが自身に抱く幻想と事実とのギャップによって自己嫌悪に陥っていた。
「だとしても、それだけだもの。他は、借りものよ?」
「いーや違う。借り物の力っつーのは誰でも、すぐに使えるもんだ。アリスの銃はアリスにしか使えないし、当てるのだって練習とかいるんだろ? オレが使ってるのとは違うんだよ」
「……」
「だから誇れよ。じゃなきゃオレがみじめだ」
アリスの口から反論が出ることはなかった。あったとしても、あとはお互いの認識の差が産む平行線しか作れない反論だけだった。そして、それを言ったところでソリッドを苦しませるだけ、アリスの自己保身にしか繋がらない。
「そ、だね」
沈黙。昼間の険悪な雰囲気はとうに消え失せていた。窓を叩く雨音も今の二人には心地よく響くものになっていた。雰囲気が和らいだのを見計らって二人の会話に水を差すことなく黙って見守っていたボイドが口を開く。
「終わったか?」
「ん」
「ああ」
「話が纏まったのは結構なことだが、ここには私以外も居ることを分かっていたのか?」
そう言われてアリスとソリッドはこの場で唯一の他人、つまるところ受付の看護師に慌てて視線を向ける。少なくとも聞いていて心地がいいとは言えない会話を聞かされていた看護師は二人の視線に苦笑を返した。
「ご、ごめんなさいっ」
「いえいえ、若いっていいなって思いました」
「あんたも十分若いじゃん」
「ソリッド」
「あー……お姉さんも十分若いと思う、ぜ?」
年齢的にはクオリアと同じくらいの外見の看護師はボイドに咎められたソリッドのあからさまに取り繕った言葉を聞いてクスクスと笑いながら緩やかに首を横に振る。その動作には諦めのような何かがあった。
「なんて言うんでしょう……精神的に? 私も定職についてからは誰かと意見を真っ向からぶつけ合うなんてしてませんし」
「安定しているならばそれが一番だと思いますが」
「ええ。勿論十分満たされているとは思いますし、刺激なら今みたいな話を聞けるだけで十分ですけど……でも、ってなっちゃいます」
看護師の気持ちに同感するように首を縦に振るボイドと主題が分らないと首をかしげるアリスとソリッド。彼らの差は過ごしてきた年月の差か。歩んできた道の差か。その是非はともかく、看護師は穏やかな表情でアリスとソリッドを交互に見ると。
「ですから、意見をぶつけ合えるお仲間さんは大事にしてくださいね? その方が人生、豊かになりますから」
穏やかな表情をしているのに思わず二人が頷いてしまうような不思議な何かが看護師にはあった。アリスも、ソリッドも、ボイドも彼らなりの人生を歩んできた。三人には身の上も分からない看護師も三人とは違う人生を歩んできた。きっとそこに優劣はない。あったとしてもそんなものは自己満足の領域でしかない。だけど、逆に言えば当人が満足しているならそれはきっと素晴らしい人生だと。そこへ導くため、幾つかの内一つの道標を看護師は示していた。
彼女は素直に頷いた二人に満足そうに微笑むと時計を見て、申し訳なさそうに言う。
「もうそろそろこちらの部屋は完全に閉めないと行けません。手術室の前に移動していただいてもよろしいですか?」
「奥にあるのに居てもいいのか?」
「鍵はまだ閉めませんが、一応今日の診察は終わりですから。あっても急患……こんな場所に構えている以上緊急なんてザラですけど」
「夜勤と交代というわけか?」
名目上の診察終了時刻の意味を捉えたボイドが半ば確信めいた口調で尋ねる。
「そういうことです」
「それならば私達も移動しよう」
「ソリッドとボイドは別にもう帰ってもいいんだよ?」
「何言ってんだ、俺らが見てなかったら一生待つつもりにしか見えねーぞ?」
「……」
否定はせずにスタスタ歩いて行くアリスと彼女を追った二人を受付の看護師は見送って、明かりを消し始めるのだった。
チェシャの処置が終わったのはそれから一時間後。彼の背中の肌が黒く──鎧かと思うほど硬い皮膚に──変異している以外特に別状はなく、命に別条がないと判断された。