罪悪感
リィンとなった鈴の音がバー・アリエルに来店者と外の乾いた空気が来たことを告げる。ドアを開けたのは常連である銃士の少女。しかし、顔に生気はなく意気消沈としていた。
「しゃーせー。あっ、アリスさんじゃ──ないですか。……奥の席へどーぞ。飲み物は……寒いのでホットミルクでも飲みますか?」
やる気なく店番をしていたシェリーがアリスの姿を見て元気を取り戻したように明るい声を投げかけたが、彼女とは対照的なアリスの調子に気付く。しかし、その原因は尋ねずあくまでもいつも通りの流れに合わせてアリスを誘導するシェリー。
アリスはホットミルクの提案に無言で頷いて奥にあるいつもの五人席の一つに倒れ掛かるように座った。
シェリーはカウンター裏にある生活スペースと繋がるドアを蹴破るが如き勢いで開けて、中で新聞を読みながらくつろぐ父の肩を叩いた。
「お父さん、ちょっと店番代わって」
「まだ店を開けたばかりだ──分かった。飲み物は?」
なまけ癖、ではないがやる気のない娘がたまに冗談で言う台詞を真面目な顔で言った。父はその意を汲み取って新聞を机に放って立ち上がる。
「自分で持ってく」
「そうか」
まれに見ないきびきびとした動きでまたドアをくぐっていったシェリーをサイモンが微笑みながら見送った。
「うっし。さて、やるか」
椅子に掛けていたエプロンを付けて一つ伸びをする。カウンター裏のドアは開けられたままだったので、アリスと一緒に来店した冷気もここまで届いている。
「寒くなってきたもんだ」
腕を組んで手をこすらせながらサイモンも表に出るドアをくぐった。彼と入れ替わりでカウンターを出たシェリーは二つのコップを乗せたトレーを少女が座るテーブルに運んでいた。
「青春ってわけでも……なさそう、か」
サイモンはいつもの元気がないアリスをみて小さく唸り、カウンターの下にいくつかある引き出しから一番上を開ける。中身は掲示板に貼るつもりの依頼書。探索者町民両方の利用者が徐々に増えて、依頼が増えるのも減るのも早くなっていた。
新しい依頼書を掲示板に張り出していく。増えたせいで買い足した画鋲を紙の上部に刺して固定させる。寒くなってきたものだから、画鋲を指で押し込むのも痛みが伴う。激痛ではなくとも何度もするとそれなりにこたえる。探索者客の増加によってどの依頼も神の試練絡みばかりだった。
依頼書を次から次へと掲示板に張り出すうちにスペースがなくなってくる。そうなった場合は古い依頼書を剝がすことになるのだが。
「はあ……張り出すのは平和な依頼だけにしてほしいもんだ」
引きはがした依頼は行方不明者の捜索。はがさなければならないほどに売れ残る以来というのは無茶なものでない限り、だいたいがこれになる。その理由は誰も口には出さずとも分かっていることだった。
「……まさか、な」
サイモンが振り返えって、アリスの要素を見る。捜索依頼を持ってくる依頼者はだいたいが憔悴しているか、真っ暗闇かと思うくらい暗い顔をしているかのどちらか。後者に当てはまるアリスの姿をみたサイモンは自身の考えを振り払うように依頼書の張り出し作業を黙々と再開した。
「……ぅ」
アリスはホットミルクの入ったコップで冷たくなった手を温めながら一口含む。彼女の小さな口に流し込まれた暖かなそれが重く細い息を吐かせた。
「……」
シェリーもアリスにかける言葉が見つからず沈黙している。どんよりとした重い空気が漂い、その空気を嫌ったシェリーが口を開こうとして声にならない息を漏らすだけの行為を繰り返す。二人は同じ行動を何度か繰り返していたが、依頼書の張り出しを済ませたサイモンがカウンターに戻る前にシェリーの肩を叩くことでループは終わった。
「どう、したんです?」
なんとか開いた口からは何かにつっかかったような覚束ない問い。
「……」
アリスは黙り込んだままだった。けれど、俯いていた顔が少し持ち上がる。アリス苦痛に歪んだ顔がシェリーの視界に入った。
「シェリーなら」
「はい」
か細いながらも芯のある声がアリスの口から飛び出す。
「どっちかしか助けられないことがあったとして、感情と理性のどっちで選ぶ?」
「助け……なるほど。そうですねぇ……」
シェリーはチェシャがいない理由についてはおおよそ予想がついていた。店が繫盛して依頼を持ち込む人が増えたせいで予想できたのも皮肉な話だった。しかし、彼女の予想とは少し違っていたようで小さくうなずいた後に考えるそぶりをした。
「感情が理性で抑え込めないなら感情でしょうけど、答えにはならないでしょうから……。ウチなら理性かなぁって思います」
「……どうして?」
「正しい選択をするならって話ですよね?」
「多分……」
アリスの曖昧な返事にシェリーは自身の意地の悪い質問に苦笑する。
──そりゃー、正しいのがどれか分かってたら困りませんよねぇ。
「正直分かんないっていうのが答えなんですけど、強いて言えば最終的に後悔が少ないのって理性で出した答えだからです」
「ん……?」
「あー、そうですね。ウチの場合なら、ここにいるのが理性で選んだ答えです」
意味が分からないと首をかしげるアリスにシェリーは言葉を付け加えた。そこで水を一口含んでのどを潤してから続きを語る。
「お母さんを放ってお父さんと行くなんてもしお母さんに何かあったら気が気じゃありませんもん。でも、祖母もいましたし父さん一人じゃ見つけるのはいろいろと厳しいと判断したからって感じです」
「それで、後悔してないってこと?」
「いえ? 後悔はしてますよ」
「え……?」
訳が分からないと口をぽかんと開けたアリスを見て笑いながらシェリーはが口を開く。
「はははっ、ややこしくて申し訳ないですけど、どっちか凄く迷うことって結局後悔はするんですよ。後悔しないのは挑むか挑まないかで成功するとか……そういうのです」
「……」
シェリーの言葉を自身の中で反芻して嚙み砕くアリスにシェリーは微笑む。
「大事なのはですね、後ろを向くんじゃなくて前を向くことです。どうせ──ううん。どうせはだめですから……。とにかく良い未来のために動くしかないってことです」
「……後悔するのは悪い未来じゃないの?」
「もしそうだとしたらこの世にある未来はほとんど悪い未来です。みんな大なり小なり後悔はします。順風満帆なんてあり得ません」
語気を強めていったシェリーがアリスの瞳を覗き込んだ。
「可能性は──まだありますか?」
「……ゼロじゃ、ない」
神の試練内において一人での探索は生還率は低い。初めから一人で探索するつもりの準備を整えた上でならともかく、パーティーからはぐれた探索者が生還するのはほとんどあり得ない。第一試練ならば他の探索者に救出してもらう例はあるが、未踏破地帯ではもってのほか。けれど、アリスはまだチェシャの死体は見ていない。
「じゃあ、まだ──前を向けますよね?」
もし仮に──という話はしない。悪い未来を考えさせるくらいなら良い未来を考えたほうが精神は安定する。
「うん……」
アリスはいくらか生気が戻った顔で頷いた。まだ顔には陰りが残っていたが、アリスの瞳に輝きを取り戻すことに成功したシェリーがこっそり胸をなでおろす。
しかし、シェリーは知らない。アリスはその気になれば自身の残る記憶を──今の仲間たちとの思い出を──犠牲に二者択一の状況を破壊するための解決策をインストール出来たことを。