常蒼の樹林
五人は深い青に染められた森へと近づく。近づくことで初めて分かったのは、遠くから視認できた群青色の枝葉以外にも、木の幹は青色で地面に生える草花は水色、地面は空色の土と寒色で構成されるグラデーションができていた。地面に生えるのは草花だけでなく、発光する水晶もあり、暗がりの森を淡く照らしている。
その淡い明りに照らされた青の薄暗い世界はさながら深海のようだ。けれど、この場にいるものは深海の世界を知らぬ者たち。この青く暗い森を前に戸惑っていた。
同時に、見惚れてさえいた。
言葉はいらなかった。漏らす息は感嘆。感情の共有など必要がない。試練が作り出した人口の幻想は五人を魅入らせる。しばし幻想を堪能した五人は誰かを皮切りに迷宮へと歩みを進めた。
先頭に立つクオリアが単なる小迷宮を区切っている空色の土に足を踏み入れた。その瞬間に彼女の動きが緩慢になる。
「どうしたのクオリア?」
クオリアの後ろを歩いていたアリスがクオリアの変化に疑問符を浮かべる。すると、不機嫌そうにゆっくりと振り返ったクオリアが不満を述べた。
「体は濡れないけど水の中にいるみたいなのよ。もーやっ!」
鎧姿でただでさえ動きにくいはずのクオリアが水中と同じ状態になれば尚のことだろう。悪態をつき、うなだれてみせるその動きさえも緩慢だ。クオリアの話を聞いたアリスが恐る恐る蒼の境に足を踏み入れた。
「わっ。とと、よっと。」
アリスもまた水の中にいるような、緩慢な動きへと変わる。けれど、実際に使う液体中にいるわけでもなく、髪や服が湿ることもない。クオリアのように重いものを身にまとっているわけではないふわりふわりと宙を舞うアリスの姿はまるで空を泳ぐ鳥のようだった。
「これ、楽しいよ?」
「……。」
「オレもやる!」
コツをつかんだのか、全身を使って見えぬ水を搔いて宙を泳ぎ始めるアリス。その姿を見て、チェシャは無言で境を渡り、ソリッドは飛び込んでいく。
「おいっ。」
危険性はなさそうには見えても、環境の変化と聞いては慎重になるボイドが二人を制止しようと声をかけるが、その努力は意味をなさなかった。
「ホントだ。水みたい。」
「すっげ! 空飛んでるみたいだ!」
泳ぐことが得意らしく見えぬ水の世界に入ったチェシャはすぐに適応し、ソリッドもチェシャほどではないにせよ、楽しそうに空を泳いでいる。
「ボイドも早く来いよー!」
「……はあ、分かったよ。」
見たところ毒のような致死性、もしくは危険性のある何かは見当たらない。そして、小迷宮にしか見えない怪しい場所を放置するわけにもいかない。ため息を一つ、心を決めてボイドも蒼の境に足を踏み入れろと、途端に彼の動きが緩慢となる。
「これは……確かに凄いな。」
腕を振ったり、軽く宙を泳いだりと感触を確かめたボイドがしみじみと呟く。
「魚だ……。」
「魚? ああ、魚。」
チェシャの声にクオリアが反応し、彼の視線の先を追った先には彼の言う通りに魚が。勿論迷宮仕様でサイズ感は等身大、全長三メートルほどで長い背びれと槍のように尖った上顎を持ち、剣魚に似た姿をしている。
宙を水を得た魚のようにゆるりと泳ぐ剣魚だったが、こちらに気づくと槍のような尖った上顎をチェシャには向け、ゆっくり後退していく。
「あら、逃げるのかしら?」
大盾を構えていたクオリアが拍子抜けしてぼやく。けれど、彼女に油断の雰囲気はない。口調とは裏腹に目つきは鋭く、剣魚から目をそらすことはない。
「ううん、あれは多分……助走のためかな。」
そう言ってチェシャが斧槍を構える。彼の口角はわずかに吊り上がっていた。二人がそれぞれの得物を構えたことで、アリスたちも剣魚の存在に気づいて己らの得物を構えた。
「……来るよ。」
剣魚の微妙な動作を見てチェシャが警告した。
次の瞬間、剣魚の姿が搔き消える。同時にその姿はチェシャの前まで辿り着き、凶悪な上顎はクオリアの盾によって受け止められていた。
──ィィィンッ!
遅れて音が五人の耳に響き渡る。そして、剣魚は自身の一撃を防がれたと同時にチェシャの斧槍に貫かれ、血をまき散らして絶命。間もなく霧散していた。
「まだいるわソリッドっ! 伏せてっ!」
クオリアがソリッドのほうに全力で走り出しながらソリッドの背後から今のも突進しようとしている剣魚の進行方向に大盾で割り込みに入る。
「はっ?──」
──キィィンッ!
「はうあっ!」
間一髪、クオリアが割り込み、鋭い剣魚の一撃を受け止める。剣魚は勢いを落とさずクオリアの盾を滑り、そのまま離れていく。
「ボイド!」
チェシャが叫ぶ。五人の最後尾にいるボイドの右方面からも剣魚が接近していた。
ダンッ、ダダンッ!
計三発の銃声が響くと体に穴をあけた剣魚が体を横に倒し血と一緒に宙にゆらりと浮かんだ。
「ないすっ。」
「そっち、来てるわよ!」
忠告しながらアリスが発砲を一つ。ボイドのカバーに入ろうとしていた。チェシャめがけて一直線に飛来する四体目の剣魚の勢いを奪う。しかし、致命傷には至らず上顎の先を傷付けるのみ。
「分かってるよ。」
チェシャは鮮やかに宙を泳いでバック宙。体が逆さになった瞬間、両の太ももに刺したナイフを投擲。一本は目、もう一本は背びれの根元に突き刺さり失速していた剣魚の勢いが止まった。
「いない、ね。」
周囲の気配を探り、迷宮生物の姿と気配が消えたのを確認したチェシャが斧槍を静かに降ろす。
「お疲れ。」
慣れない環境で荒々しく動き回っていたチェシャを労うアリス。愚直とはいえど、一瞬で飛来する剣魚に銃弾を当てたアリスも大概なのでいなので、チェシャは苦笑をするが素直に彼女の言葉を受け取って自然な笑みに変えた。
アリスはアリスで自分が正確に剣魚に銃弾を当てられた理由を分かっている。さらに言えば分かったからこそその制度が増しているのだ。
「いやー、こんな動きにくい場所ですあんな早いのはズルじゃない? あたし割ときついわよ?」
間一髪間に合った。それは本来であれば余裕をもって間に合ったはずなのだ。彼女の実力は十分に防御を間に合わせるに足るものだったし、アリスが蔓にとらわれた時の油断もなかった。
けれど、このまるで水の中にいるような世界は特に近接組に影響を及ぼしていた。
「早い相手は私もできることが少ないから御免蒙りたいさ。」
「オレも当てれる気しねぇんだけど。」
今の戦闘では何もしていなかったボイドも眉をひそめていた。ソリッドもあっという間に終わった戦闘に対応することは出来ていなかった。
「あいつらは直線にしか飛ばないと思うから、攻撃を置くみたいに撃てばいいと思うわ。」
「それを初見で実行出来るのがさすがというべきか……。」
髪の毛をいじりながらなんてことのないように言ったアリスにボイドは苦笑する。チェシャは髪をいじるアリスをじっと見つめていたが口を出すことはなかった。
「なあボイドー。攻撃を置くってどんなふうにやればいいんだ?」
「戦いのことを私に聞くな、アリス君に聞いてくれ。」
「へーい、ってことでアリス。どうやるんだ?」
「……勘?」
困った顔をして申し訳なさそうにそう言ったアリスにソリッドは怪訝そうな顔と困惑の声を上げた。
「えぇ……まじかー……。」
「慣れるしかないわよ。あっ、それと。弾とかナイフはいつも通りの早さだったけど、何か違うのかしら?」
チェシャの顔がハッと上がる。クオリアから疑問が挙げられたことでチェシャは自身が投げたナイフのおかしさに気づいたようだ。
「確かに……。アリスが普通に銃を撃ってたからなんとなくだった。」
「……わたしも反射で撃っちゃたけどどうして銃弾は遅くならないのかな?」
「あのとがってた魚も自由に動いてたよなぁ。」
「生物でないものは影響を受けない、ならおかしくはないがそんな不可思議なことがあるのか……?」
「おーい、ボイド。魚は生物だろ?」
「バカか、魚は元よりどこに住んでいる生き物だ?」
「あっ。」
羞恥でそっぽを向いてしまったソリッドを無視してボイドはあーでもないこーでもないと独り言を積み重ねる。それを見たクオリアがやれやれと首を振ってボイドの肩をたたいた。
「そんなのは後にしましょう? あなたのそれはどうせすぐには終わらないし、地図を埋めるのが先決よ。危ないなら引けばいいんだから。」
「……分かった。」
クオリアの言うことを否定は出来ないボイドが素直に地図とペンを手に作業を始めた。
第一試練のように森の中だが不自然に整った道が各所へと伸びている。小迷宮でない事を否定するほうが難しそうだ。
「さっ、行きましょうか。先頭、頼んでもいいかしら?」
「りょーかい。」
先頭をチェシャに任せてクオリアは最後尾で後ろの警戒。地図を描くボイドをアリスとソリッドが挟むいつもの陣形。第四試練ではあまりしていなかったこの陣形。神の試練で長期間本格的に臨むのは久しぶりな五人は最初の小迷宮である蒼の森を探索に乗り出したのであった。