ゴンドラ船
「なぁあ~! ボイドぉー!? これ、明日じゃダメなのかぁ!?」
アリスが目覚めた同時刻。第五試練の蒼の世界に、少年の声──滑車を通したロープを引っ張るソリッドのそれ──がこだまする。
ソリッドが立つ場所は第五試練の転移装置のある滝裏の端。滑車を通したロープの先にはゴンドラ船が吊るされていて、ソリッドが引っ張る事で自由落下せずにゆっくりと落下している。
額に青筋を浮かべで必死にロープを引く彼の横では、荒い呼吸をするクオリアが横たわっている。迷宮にいるに全身鎧ではなく動きやすい革鎧姿の彼女は蜂に追いかけられていた時よりも疲弊していた。
「ダメではないが、明日をスムーズにするためだっ!」
命綱を腰につけて、ゆっくり降ろされていく船と合わせて降りるボイドがソリッドの声に叫び返す。
滝裏から人が降りるのは命綱でも使えば数十mのロープを用意するだけで事足りる。問題は船を下ろす事。第五試練に移動できるのがボイド達五人であるため、この作業ができるのもこの五人だけ。
そのため、大きな船を用意するのも難しく、用意できた船が長さ9m、幅1.5m程のゴンドラ船。
特筆して良い素材を使っている訳でもない木造のそれを3、40m以上はある崖から落とすわけにもいかず、三人は降下作業を行なっていた。
「せめてよぉぉ! チェシャは呼ぶべきだってぇ!!」
ソリッドがまたも叫ぶ。それは無理もない、400キロもある船を一人で直接持っている訳ではないが、落下速度を低減させているのだから。辛うじて出来ているのはソリッドの増幅による身体強化のお陰だ。
ボイドは二人ほど力もなく、下手をすれば邪魔になるので諦めて、地面との高さを見比べる役割。
実質二人での作業になっていたが、奮闘した彼らのお陰で地表10mまで船を運んでいる。
「もう少しだからグタグタ言うなっ。」
「うがぁぁぁあぁぁ!」
ここで失敗しては苦労が水の泡。それを分かっているソリッドは顔を真っ赤にして力を絞り出して、9、8、7mと船は降りて行く。
「休憩おしまいっ! 手伝うわ!」
荒い呼吸をしていたクオリアが勢いよく跳ね起きてロープを握る。まだ魔法の効力が残っていたのもあり、船は落下するどころか少し浮く。
「引っ張り過ぎだ! 弱めろっ!」
慌ててボイドが叫び、二人が力を抜く。同時にしたせいで船がガクッと落ちる。
「ヤバッ!?」
「あぶなっ!」
慌てて二人がロープに力を込めて、また船が浮き上がる。
「落ち着けっ! いきなり力を緩めるなっ! ゆっくりだ!」
ボイドの声で、冷静さを取り戻したようで、今度こそゴンドラが一定のペースで下降する。
……ドンッ!
大きな音を立てて、ゴンドラは地面に着地した。無事にゴンドラ船が着地したのを確認して、ゴンドラからロープを取り外して、上に叫ぶ。
「ロープを引き上げろっ!」
「あいよぉー!」
ロープも特注品で硬く重い代物だが、船に比べればしれている。二人がかりであっという間に引き上げて、作業は終了した。
「あぁぁ~……。つかれたぁぁ!」
地面に体を投げ出して大の字になるソリッド。彼の服は汗と滝から弾け飛んだ雫でびしょびしょに濡れていた。もちろん、クオリアの鎧下も同じように濡れている。
「おつかれソリッド。ボイドは……、登って来てるわね。」
休憩から復帰した直後のため、余力のあるクオリアは命綱を伝って登って来ているボイドを手伝い始めた。
ボイドを吊るしていたロープはクオリアによってスルスルと引き上げられ、ボイドも二人の元へと戻ってくる。
「すまんな。」
「良いわよ、けど、この作業の分はしっかり奢ってよね?」
「なんでも構わんさ。好きなものを食べさせてやる。」
その言葉にクオリアはニヤリと笑う。そて、ウキウキのまま岩の壁側に置いてあった鞄から一枚の紙を取り出した。
「……なんだそれは?」
「んー? チェシャくんがお世話になってる職員の子がくれたチラシよ。これこれ。」
宣伝用のビラらしいそれをクオリアが広げ、ボイドに向けて見せる。
──一生ものの超高級ハニーシロップをたっぷりかけた限定パンケーキ!──
との売り文句と共にパンケーキと瓶から垂らされる蜂蜜の絵が描かれているビラだった。
「なんでも良いが……っ!!」
どうでも良さそうに肩をすくめたボイドはビラの角に目立たないように五万ゼルと記載されていることに気付き、目を白黒させた。
「二言は無いわよ?」
「くっ、良いだろう……男には二言は無いっ。」
ボイドは悔しそうに唇を噛み締めてそう吐き捨て、転移装置を起動しに荒い足音を立てて歩いていった。しかし、その足元も滝の音に掻き消され滑稽に見える。
「ふふっ、可哀想だから、半分くらいは払ってあげましょうか。あっ、アリスちゃんとアルマちゃんも誘うのもアリね。」
可笑しく見えるボイドに小さく吹き出し、誰と一緒に行くか、想像を膨らませる。ボイドからすれば恐ろしい企てだった。
「くおりあぁ。ちょっとまってくれよぉ……。」
寝転がったまま動かないソリッドか情けない声を上げる。動かなければいけない思いはあるようで、寝返りでうつ伏せとなり、這ってゆっくり進み始める。
「どうせすぐに転移装置が動くわけじゃないんだから落ち着いて。待っててあげるからその気持ち悪い動きはやめて。」
「うーい。」
少々辛辣ではないかと思えるほどのクオリアの言葉に噛み付くほどソリッドに余力はないらしく、素直にその場から動かなくなった。
*
翌日。
「ゆっくり、落ち着いて壁を伝って。」
「わ、分かってるけど、怖いものは怖いのっ。」
崖上からチェシャが短く叫ぶ。その相手は滝横を上から下までピンと張られたロープを握りながら壁を支えにゆっくりと降りていくアリス。万が一の為に一番最初に降りたクオリアとチェシャの補助付きで二番目に降りたソリッドが大きな布を広げて保険をかけている。ロープは棍棒ぐらいの分厚さで、人の体重が掛かったぐらいではびくともしないので、しっかり握っていれば落ちはしないが、何かしらで手が離れてしまうことも十分有りえた。
まだアリスは降り始めたばかり、滝の轟音の中でもチェシャの声は彼女になんとか届く範囲だった。
「ボイドも心の準備、しといて。」
「あぁ。」
昨日に似たようなことをしていたので、ボイドはさしたる不安もなく、堂々と順番を待っていた。心なしか彼の白衣も誇らしげにはためいている。
崖横の岩肌は滝から弾け飛ぶ雫のせいで何処も濡れている。そのせいで時々アリスが足を滑らせ、まわりの四人がつい声を漏らす。
「やっぱり手伝う。」
チェシャがソリッドを補助する為に用意していた鉄杭とそれに巻き付けたロープを使ってアリスの元まで降りていく。ロープを伝って素早く降りるのは手にかかる摩擦のせいで見た目以上に痛みを伴う。
もちろん、ロープとなにかと使い、槍を我が身の如く扱うチェシャの手の皮は厚く、硬い。
まだ四分の一程しか降りていないアリスの元へすぐに辿り着き、彼女の細い体に腕を回した。
「支えるから、自分のペースで降りていって。」
「……ごめん。」
「気にしなくていい。頼れって言っただろ。」
「……うん。」
チェシャはアリスの体のことを知らない。すれ違いに罪悪感を感じたアリスが微かな声で返事を返した。
「ほら、みんな待ってるから。」
「分かった。」
チェシャの支えを借りてアリスは降りるペースを上げる。チェシャの使っているロープは携帯用、降りる為に固定させたロープよりも短く、彼の補助は半分程までしか出来ない。しかし、地面が近づけば精神的余裕も生まれる為、かなり楽になる。
アリスが足を滑らせようと、崩れもしないチェシャの体に身を預けて、スルスルと降りていく。アリスの顔が彼の体を借りる度にひどく歪む。
けれど、アリスの背面にいるチェシャがそれに気付くことはない。
地表20メートル程。チェシャのロープに余裕がなくなり、アリスの体からチェシャの手が離れる。
「こっからは頑張って。」
「うん、ありがと。」
チェシャは来た道をあっという間に戻っていく。アリスが降りる速度の三倍は有りそうだ。あまりの速さに彼女がポカンと口を開けていると、アリスの使うロープが動かないことに気付いたチェシャが不安げにアリスを見下ろす。
止まっていた事に気付かれ、慌ててアリスは下降を再開。地面に加えてクオリアとソリッドが張っている布もあり、足を滑らせてもバランスをほとんど崩す事なく、ロープを伝って降りていく。
地表5メートル。アリスの降りるスピードが増すと同時に滑るようにロープを伝い、広げられた布に着地した。
「ふぅ……。」
旨を撫で下ろしたアリスは自身の手を見つめながら開いて閉じてと繰り返す。
「アリスちゃん?」
「あっ、ごめんっ。」
布から動かないアリスにクオリアが疑問の声を投げかけ、慌ててアリスは布から飛び退く。
「どうしたんだよ?」
「最後だけ上手くいったから……。」
「一気に降りても大丈夫って思ったからだろ? オレもそうだしよ。」
「貴方の場合は飛び降りたじゃない。足を挫いたらどうするつもりだったのよ。」
「そんなヘマしねーよ。」
「するかもしれないから言ってるのよ……。」
終わらなさそうな論争を繰り広げる二人を他所に、アリスは上を見上げる。崖上では既にボイドがロープに手をかけて降り始めていた。
「ボイド、降りてるよ?」
「しねーって言って──あっすまん。」
クオリアの説教への反論で布を持つ手が緩んでたソリッドが布を握り直した。クオリアは言い争う中でも布を持つ手を緩めることはなかった。
崖下での会話はボイドには当然届かない。下の様子を気にする事なく、ボイドはスルスルとロープを伝う。その速度はアリスよりも早く、四分の一の地点を通過した。
「はやい?」
ボイドといえば運動能力は五人の中でも低い。五人の中でもそれは共通認識だった。けれど、そのボイドがアリスよりも、チェシャの助けすら借りず、岩肌を歩くように降りていく。
「昨日、散々似たような事してたもんね。違うのってしっかりとした命綱が無いくらいかしら?」
「でもよ、絶対オレらの方がキツかったぞ?」
ソリッドは筋肉痛の両腕をぶらぶらと揺さぶった。普段から重装備のクオリアはともかく、魔法で半ば強制的に保たせていたのだから筋肉痛にならないわけがなかった。
「それはそれで報酬があるから良いのよ。あと、関係ないでしょその話は。」
「まーな、肉食わせてもらうからいっか。」
ボイドはそのまま順調に下に降り立ち、最後にチェシャがほとんど落下と同じぐらいのスピードで降りてきた。
「さすがね。──アリスちゃん、畳むの手伝ってもらってもいい?」
「うん。」
クオリアがヒュウと口笛を吹いて、役割を終えた布を丁寧に畳み始め、アリスもそれを手伝う。とても大きく、厚い布なので一人では難しい。
「チェシャ君、ソリッド。舟を出すのを手伝ってくれ。」
「ほいほい。」
「分かった。」
ボイドに呼びかけられてこの場から男性陣が離れた。クオリアは横目に見送り、彼女が声を発しても彼らには聞こえない位置まで遠のいたを確認するとアリスにに話しかけた。
「アリスちゃん、少しお話良いかしら?」