わかんない
深夜。あまりにも弱弱しいアリスの様子を見て宿で休もうと四人は提案したが、本人が家に戻りたいと強く懇願したので、早くかつ割高な乗り合い馬車に乗って五人はセントラルに戻ってきた。
もうしばらく待てば日が昇るほどに夜は過ぎている。けれど、アリスはクッションを抱えたままソファに体を預け、虚空を見つめていた。風呂から出て、水を拭き取れていないままの濡れた髪がだらしなく彼女の表情を隠していた。
チェシャは湯飲みを二つ用意して、ソファの横にあるテーブルに置き、アリスの横に腰掛ける。
「で、どうしたの?」
「……」
まるで心に穴が空いたように焦点の定まらない目を垂らした髪の間から覗かせるアリス。
「……ねぇ」
「うん」
チェシャの答えに対して、間を空けてからアリスは口を開いた。チェシャはあくまでもいつも通りに、相槌を打つ。
「わたし、どうして頑張ってるのか、分かんない」
*
コントロールルームの奥にあるドアの先。そこには人が入れるサイズのカプセルの形をした機体があった。
それ以外には何もない部屋。アリスはその装置の中で横たわっている。
『アリス嬢、接続完了しました。念話可能です』
『ありがとう、スカーサハ。……早速聞きたいのだけれど、わたしって、人間?』
装置の中で、目を閉じたアリスが不安げな表情を見せる。
『人間の定義によります。森人のような新人類も含むのであれば人類です』
『はっきり言ってスカーサハ、わたしは一体何?』
『サイボーグ、と言えばご理解頂けますか?』
『サイボーグ……わたしの体には何処にもそんな部分は、無いはずよっ』
どこか、そう信じたいと言うような。否定というよりは願望が彼女の言葉にこもっていた。
『勿論、目に見える部分は限りなく人間です』
『どういう意味?』
『不思議に思ったことはありませんか? 千年も寝ていた人間が、いきなり迷宮探索に加わり、周りの人間と同じように動き、ましてや、習熟に時間のかかる銃を使いこなせることに』
青天の霹靂。彼女の表情と、その内心を推測すればそんな言葉が浮かぶだろう。
『勿論、弓などに比べれば銃を扱うこと自体は簡単です。ですが、精密に、狙った場所に当てることは多くの時間を要します』
『で、でも。それなら最初からもっと当てれた筈よ?』
第一試練において、アリスは前衛が居ないと正確に狙うのは厳しかった。
『それはアリス嬢の補助機能がアリス嬢に気付かないように行われているからです。サイボーグと知られれば、それだけで今の人間達には価値が有ります。知らぬが仏です』
『じゃあどうして今?』
『前マスターが、アリス嬢がこのことを受け入れないと最終プログラムの実行が出来ないようワタシに命令しています。故に、いつかは言わなければならないことでした。アリス嬢からここに来たことも都合が良かったのです。ともかく、ご理解頂けましたか?』
『……』
否定は、無かった。しかし、追い討ちと言わんばかりにスカーサハの言葉は止まらない。
『では、アリス嬢。両親の名前は、姿は、声は、覚えていますか? 親しかった人も覚えていますか?』
『そんなの──』
当たり前だ、と言おうとしたアリスの言葉が詰まる。そして、みるみるうちに顔色が青へと移り変わった。
シルエットさえも彼女の頭には残っていなかった。
『それは、アリス嬢がサイボーグである何よりの証拠です。アリス嬢の脳にはワタシとデータを送受信する為の端末が埋め込まれています。そして、データを受け取った際、手違いで脳の容量を超えてしまわないように、現存する記憶に上書きしています』
『……』
装置内には温度を管理する冷暖房があるにも拘らず、アリスの服はじっとりと濡れていた。
『勿論、アリス嬢のモチベーションの為にも上書きする記憶は重要度の低いものから行っていましたが、魔拳銃を完全に扱う知識が人間には多すぎるのが致命的でした』
『アリス嬢が魔拳銃を手に取った瞬間に偽装元の機能である拳銃機能のみ知識を送信してデータの減量を図りましたが、第四試練でのアリス嬢の要請でやむを得ず全データのインストールを実行しました』
淡々と真実を語るスカーサハ。アリスが言い返そうと口を開閉させるが、声は出ない。反論しようにも自分のせいである事を自覚してしまっていた。
『ご理解頂けましたか? ご理解頂けたのであれば、ボイド様の質問に答えられるようにアリス嬢にインストールしなければならない情報を上書きします』
スカーサハの合成音声は何故か人間らしいものに近づいている。だからこそ、非人道的なことをあっさりと語ることが異様に際立っていた。
脈絡なく話を押し進めようとするスカーサハの言葉にアリスは血が滲むほどに唇を噛み、拳を握りしめる。
『バカじゃないのっ!?』
そんな話をされて、引き受けられるものかと彼女は怒鳴る。そして、行き場のない怒りは移り変わり──
『……わたしは、どうして未来に来たのよっ!? どうしてわたしはこの体になることを受け入れたのっ!?』
悲痛な叫びとなった。叫びと共に振られた拳が機体を叩く。少女が出すには不似合いな力を発揮した腕は機体の開閉部分を破壊し、凹ませる。その行動もまた彼女に現実を叩きつけていた。
そして、彼女は今更理解した。自身の動機が、挑む相手に対してあまりにも不確かな事の理由を。覚悟を決めた筈なのに、覚悟を決めた理由がわからないことを。
『分かんないっ! なんにも分かんないよっ! このまま行くところまで行って散れっていうの!? どうして、どうしてっ、わたしの思い出は消えて、進む先だけ知っているの!?』
少女は叫ぶ。それはある種の抵抗だった。この現実を受け入れて絶望してしまうことからの抵抗。
『ワタシにはお答えすることは出来ません。前マスターによって千年前の一部データを抹消されています』
『お父さんが消したってこと?』
アリスは声も姿も思い出せない誰かに、肉親であるはずの誰かに、無意識な憎悪を膨らませた。アリスがその相手にどのような情を抱いてたかも彼女自身が思い出せない。
『その情報も含めて消去済みです。アリス嬢にマスター権が移っているのは前マスターがアリス嬢の覚醒と同時に譲渡するように命令されているからです』
『……』
『お帰りですか?』
無言でアリスは機体から出る。接続が途切れ、スカーサハの合成音声が部屋内に響いた。その声に返事をする事なく、アリスは部屋を出た。
*
「分からない……? 厄災を、どうにかするためじゃないの?」
アリスが零した言葉にチェシャは疑問符を浮かべる。
「そう、かも」
チェシャの目に映るのはかつて、記憶を取り戻した時に堅い決意を瞳に見せた少女の姿、誰にも未来を委ねないと自身の体で進もうとした彼女にチェシャは惹かれていた。しかし、今の瞳に輝きをなくして、焦点の定まらぬ目でぼうっと宙を見つめる彼女はまるで生きる意味を失って、無気力で、何かに絶望したような一人の悲しみを背負った少女の姿だった。
「違うの?」
「分かんない……分かんないのっ」
チェシャは困惑する。初めてアリス出会った時に彼女が名前を言おうとして、出てこなかったような──知っている筈なのに知らない──状況と酷似していた。
「……記憶が無くなったとか?」
それを思い出したチェシャはアリスに尋ねる。記憶を無くした経緯は違えど、無くなってしまったのは事実。的確な指摘にアリスがたじろぐのを見たチェシャは仰天する。
「そう、なんだ……」
チェシャは俯くアリスを見ながら思案する。
「今朝悩んでたのって、その事?」
「……」
返事は髪に隠された頭を縦に一振り。水に濡れて重い髪は弾むことなく、重く揺れるのみ。
「そっか……じゃあさ」
何でもないようにチェシャは話を切り替える。
「逃げる?」
「……っ!?」
アリスの髪が揺れる。
彼女にとって、とても魅力的な提案だった。
「俺としては、アリスが迷宮に行かないならそれでも全然良いんだ。そうだなぁ、一緒に海でも何でも見にいっても良いな。お金は……当分は持つか。尽きるまでに隣の大陸の迷宮でも潜れば良いんじゃない? あっちはどんな魔物でも魔石が出るって聞いたし、俺らもそこそこ強いと思うからさ」
湯飲みに口をつけ、喉を潤し、あくまでも楽観的に言葉を続ける。
「俺は、アリスがそこまで責任を負わなくていいと思ってる。本来は国とかが頑張るべき問題だろ? 俺らが背負う必要、何処にも無いでしょ」
首を傾げ、同意を求める。アリスは頭をどう振るかを迷うように彷徨わせた。チェシャは心の底からそう思っているように、当たり前の事を語るように、淡々と述べ続ける。
「ボイド達だって、あくまでグングニルの探索の為だけにアリスに付き添ってる。そりゃあ、少なくない時間は一緒に居たし、情はある。俺もそうだしさ」
「迷宮に潜るのは好きさ。新しい試練、どんな世界があるか楽しみだよ? でも、その先を求めている訳じゃない」
アリスは黙ったまま。けれど、彼の言葉に口を挟むこともなければ、首を横に振ることもなかった。
「結局、アリスがどうしたいか、じゃない?」
「逃げたい」
即答だった。当たり前だ。よく分からない指名やら、自分の体のことやら、全部忘れてチェシャと生きられるならば、皆と楽しい時を過ごせるならこれ以上良いことなど思いつかなかった。
「そ。じゃあ──」
けれど、次の言葉もチェシャの言葉を遮って続けられる。
「でも、逃げちゃダメなの」
「どうして?」
「それが──分かんない」
チェシャは困り顔で眉を顰めるが、アリスが本気で言っていることも分かっている。だから声を荒げることもなく、彼女の横で静かに言葉を待った。
アリスはチェシャが待っている事を悟って、言葉を探して──見つけれず、沈黙を耐えるようにクッションを持つ手にぎゅっと力を込める。
「……分かんないの」
怒りと不安と疑問、その他もろもろ。全てネガティブな感情が彼女の小さく漏らした言葉に込められていた。
「そっか」
チェシャは頷き、ふっと息を吐いて立ち上がった。
「……今日は寝よう。布団、整えとくから、それ飲んでて」
湯飲みに顔だけを一瞬向けて、チェシャは階段へと向かっていく。
「ねぇ」
その背をアリスが呼び止める。立ち止まったチェシャは振り返る事なく、口を開くこともなく続きを待った。
「どうして、一緒に居てくれるの?」
何処か、縋るような声だった。期待と不安が織り交ぜられた彼女の表情は今にも泣きそうだった。
「アリスが言うの?」
背を向けたまま呆れた声でチェシャが言った。僅かな苦笑もあった。
「……?」
「アリスが一緒に居てくれるって言ったじゃん」
それだけ言って、今度は立ち止まる気もなくチェシャはスタスタと階段を登って姿を消した。