増幅器
「わぁぁ~……家だ~!」
チェシャが闇夜の中で家のドアを開けた瞬間にアリスは靴を脱ぎ、駆け出し、勢いよくソファへと倒れ込む。二人が使い慣れたソファは二人が揃えたクッションと共に、優しくアリスを受け止めた。
二人は五日間の帰路を終えて、セントラルに戻ってきていた。ボイド達とは手紙で連絡を交わして、明日の朝にまた会う予定となっている。
「お風呂は?」
鍵をかけ、遅れて居間に現れたチェシャは毛皮のコートを脱ぎながらアリスに尋ねる。
「入りたいっ!」
「りょーかい。あと、皺になるからせめて上着は脱ぎなよ」
「んっ!」
いそいそとチェシャのものと同じ素材のコートを脱いで、手に握ったそれを仰向けのままチェシャに差し出す。顔には任せたと言わんばかりにキリッとした表情がついていた。
まとめて仕舞っておいてとのことらしい。
「……はいはい」
コートは帰り道に買ったもの。中に着込んでいるとはいえ、やはり風を妨げることが出来るのは体感的にも異なるらしい。セントラルは本格的に寒くなってきているため、丁度良い買い物でもあった。
風呂場に向かう前に二階へと上がり、鞄を下ろして、チェシャのコートを彼の部屋のクローゼット、アリスのものもまた同様にと、コートを仕舞って、一階の洗面所を通り抜けて風呂場に出る。
地面は綺麗な石畳、壁面には魔石の取り付けられた冷水と温水それぞれの放水機がかけられている。中央にあるのが三mの正方形程はある蓋のついた浴槽。そのまた中央には格子の網目でできた排水溝があり、風呂場の扉から見て奥の角には両方に温水を貯めるための太い放水機。魔石もそれに見合ったサイズが取り付けられている。
チェシャは袖を捲り上げて、鍛えられた腕を晒した後に折り畳める蓋を外し、先端に雑巾をつけた棒で力を込めて丹念に浴槽を掃除する。
家に居れば毎日洗ってはいるが、今回は長い間掃除をしていないため、浴槽には目に見えるほど汚れが溜まっている。
「後で家も掃除しないとなぁ。……うっわ」
時々彼は雑巾を見て、汚れの溜まり具合にうへぇと顔を歪ませつつもまた拭きにかかる。一人で使うにはやや広いが、掃除をする分にはそれほどでもないため、男一人が黙々とやれば10分程度で片付いてしまった。
「っしょっと」
掃除を終わらせたチェシャは浴槽にある放水機に魔力を流して、水道の栓を開けてから起動する。放水機はゆっくりと冷水を流し始め、魔石によって温められることで温水へと変化し、浴槽に溜まっていく。
温水が溜まっていく様子をみて満足そうに頷いたチェシャは蓋を閉めて風呂場を出た。
「ううぅ~ん」
居間に戻ったチェシャがソファを見ると、仰向けのまま変わらぬ姿勢で寝たままのアリス。幸せそうに溶けている彼女の体をチェシャは優しく揺らす。
「ほら、起きて」
「んぅー?」
とろんとしたアリスの瞳がチェシャの顔に向けられる。その表情は破壊的で、彼の顔が他所へと向いてしまう。
「……。すぅ、はぁ」
一度ソファから離れたチェシャが深呼吸。寝てしまったアリスを起こそうとすることはさして珍しい状況ではなかったのだが、彼の反応は今までとは異なり、アリスとの距離感を計りかねているようだった。
「……荷物、置くか」
お風呂が沸くにはまだ時間が要る。どちらが入るにせよ今アリスを起こす必要はない。そのような状況もあり、彼女を起こすことを一度横に置いて、チェシャは自室に向かう。
時刻はとっくに深夜と呼べる頃。窓からは月明かりしか入らず、チェシャは暗い階段を登り、自室のドアを開いた。
「持っていけばよかったや」
彼は専用の台に立てかけてある斧槍をそっと撫でる。長旅には不向きな重量と大きさのそれは帰郷の旅には邪魔だったらしい。だからこそ役立つ時には頼もしい。斧槍を撫でる手はどこかじっとりとしていた。
乱雑に置いた鞄の口を開いて、中身を全て吐き出させる。すると、彼が探索でも用いる道具や、財布等のものとは別にコンっと硬い音を立てて転がったものが一つ。
「……」
転がったそれを拾い上げ、何かを探すように辺りを見回す。辺りを見たところで彼の部屋にあるものは机とベット、クローゼットにタンスと、ありふれた最低限の家具だけ。寛ぐ時に使うものは大体居間に置いてしまっている。
「ここでいいか」
机のペン立ての横にそっとそれを置く。
ころんと回転したそれには。
過去の日付らしきものと、“シエットが誕生日を祝ってくれた日”と記されていた。
*
早朝の澄んだ空気が店内に入ると共にベルが鳴る。チェシャとアリスには久しぶりの音。
「しゃーせー。あっ、チェシャさんとアリスちゃんじゃないですか。お久しぶりです」
店番をしていたのはエプロンを着けたシェリー。括られた青髪が彼女のゆったりとした振る舞いに合わせて揺らめく。
「ん。ボイドは……」
「まだです。何か飲みます?」
「んー、コーヒーとミルク」
「かしこまりました~」
シェリーに話しかけたそうにうずうずしていたアリスは、流れるように会話を終えてカウンター裏に消えていったシェリーを残念そうに見送った。
「他に客は居ないからさ」
チェシャの言葉に渋々アリスは頷き、いつもの席に座ろうとして、目をパチパチと瞬きさせる。彼女の目線の先、いつもの場所にある椅子の数が六つになっていた。
「一つ多い……?」
「多分、ボイド達とカナン達を足したら六人だからじゃない?」
「そっか」
納得した彼女は適当な椅子にポンと腰掛ける。チェシャもそれに倣って席についた。
「今日はどうするんだっけ?」
「手紙通り、グングニルからだって。船は用意できてるらしいけど」
第五層に行って第二のロックを解除するのと、ボイドがスカーサハに聞きたいことがあるとのことで、グングニルを優先すると、彼からの手紙に書かれていた。
「ふぅん。……そういえば、船ってどんな感じなの?」
「どんな感じって?」
「みんなで櫂を持って漕ぐのかなぁって」
「それは……まだ聞いてないけど魔石で動く船なんてほとんどないから多分魔石ではないと、思う」
現在普及している魔石を扱う技術は複雑な事をさせることが出来ない。ハルクの家の風呂のように、一定の熱を発することや街灯のように一定の強さで光らせるなどのみ。身近に使われてはいても、意外と手の届かない場所は多いのだ。
船となれば、推進力を得るだけならば可能だが、魔石を使った装置は基本的に小刻みなオンオフやパワーの微調整に適さない。以前、チェシャ達が第二試練の暗中洞窟で使ったランプも使用者から魔力を吸い取るタイプではあるものの、光量の調節は光を収束、拡散でしか出来なかった。
これらの原因として、あくまで魔石はエネルギー源にすぎず、それを利用したものが安定したものとして確立された魔術を利用しているが故のものである。
アリスはチェシャの話を聞き、目線を落として考え込んだ後に口を開いた。
「……漕ぐ時はチェシャが漕いでね」
「どんな船かによるよ」
チェシャとしては不満なく、肯定よりの意見だったが、船の大きさによっては全員で漕がなければ進まないのも事実。故に彼は言葉を濁した。
しかし、アリスの文言は良いように扱おうとしているという意図で取られてもおかしくは無い。それは彼女にも自覚があり、虚を突かれた顔をする。
「……えっと、船によっては良いの?」
「興味はあるから」
彼の知る海原を旅する冒険譚に船というのは付き物。船に乗ること自体に興奮していたチェシャは機嫌が良かった。
「でも、飽きたら代わってもらうかも」
「そうよね」
妥当な返答に落ち着き、アリスは胸を撫で下ろす。
すると、背後で鈴の音が誰かの来店を告げる。
「しゃーせー。お二人さんはもう来てますよ」
「そうか。コーヒーを三つ頼む」
「かしこまりましたぁ」
来たのはボイド達三人。最初にソリッドがチェシャ達の姿を見つけ、駆け寄ってくる。
「よっす! 久しぶりっ!」
「ん。久しぶり」
「久しぶりね」
久しぶりの定義にもよるが、毎日のように顔を合わせていた人が急に十日以上も会わなければそれは久しいと言えるだろう。
ソリッドはチェシャとアリスの肩を軽く叩いてからから席に座り、その後を追ってクオリア二人の肩を叩いていく。
「二人とも元気だった?」
「ばっちり」
「私達は元気。クオリア達はっ?」
「装備も合わせてバッチリよ」
胸を張りながら言ったクオリアは新調したらしい薄く蒼の光を放つ剣を鞘から引き抜く。ミスリル製の剣は天井の光と窓から入る太陽の光を受けて鮮やかに光る。
「あれ、鎧は変わってないの?」
新調された剣を見たチェシャが尋ねる。彼の言う通り、鎧はいつものものと同じで、全身を覆う鉄製の軽鎧。
「いえ、変わってるわよ? 見た目じゃ分かりにくいけど、合金なの。全身分は作るだけでも高くなるし、ミスリルは魔力を込めないとあんまりだからね」
「そうだな。ミスリルは防具ならば魔力に対して非常に耐性の高い鉄に近い」
最後に席についたボイドが口を挟んだ。
「そうなんだ。……ボイドも久しぶり」
「久しぶりっ! ミスリル製、綺麗なのになぁ」
アリスは少し青みがかっている剣を見て呟く。
「勿論、魔力があるならその限りじゃないのよ? でも、あたしは魔力は持ってないからね」
「そっか」
チェシャは得心が言ったように頷く。この中で魔力を実用レベルまで持っていないのはチェシャとクオリア。共感出来るところは多い。
「ねぇ、ソリッドとボイドはミスリルで何か作らなかったの?」
チェシャが頷いている横でアリスはソリッドとボイドの装備を眺めていた。そして、大きな変化が見えなかったので不思議そうに尋ねる。
「私は無いがソリッドには作ったぞ。とっておきのをな」
ふっふっふと、まるで何かを企んでいるようにボイドは笑った。彼がとっておきと言うほどのものにチェシャが目を輝かせる。その脇からそっとシェリーが現れて人数の飲み物を置いていく。
すると、ソリッドが自分のコーヒーを引き寄せ、テーブルの籠に入れてある角砂糖をドバドバ流し込ませた。
「どんな?」
「アリス君のあれを参考にして作ったやつだ。……ソリッド」
「ほいほいっ!」
ボイドに指示されたソリッドは自身の鞄を漁り、腕輪のような物を取り出した。それをソリッドは手首にはめて、自慢げに掲げて見せる。ミスリル製らしい、薄く、蒼く輝く飾り気のない素直な腕輪。強いて言えば繋ぎ目のような線がぐるりと一周しているのが薄らに見える。
「おお~?」
しかし、錬金砲と違って見た目に迫力は少ない。期待していたチェシャが心なしか声を落とすのを見て、ソリッドは不敵に笑う。
「まあ見てろって」
そう言ってから目を閉じて集中しだす。
「……駆動、開始」
ふと、小さく溢したソリッドの声。チェシャとクオリアには気づけないが、ソリッドの周りにはかなりの量の魔力が渦巻いている。魔力に聡いアリスが思わず驚嘆し、口をぽかんと開けた。彼女の視界では陽炎のような揺らめきがソリッドの周り、特に腕輪部分に発生していた。
「ふう……」
勿論、此処で魔法にしても魔術にしても使うわけにはいかない。故に、ソリッドが息を吐くと共にアリスとボイドの視界にあった揺らめきが失せる。それでも今の現象を起こすだけで集中がいるのか、ソリッドの額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
「どうだ?」
自慢げなソリッドはチェシャに尋ねる。
「え……え?」
「──っ」
魔力の感知に乏しいチェシャにはソリッドの苦労を微塵も理解が出来なかったが、彼の後ろにいるアリスは仰天と言える程の顔をしていた。