思い出の石
掘り炬燵の上に置かれた陶器の中で湯気を立てるお茶。それを懐炉代わりに手を温めて顔を緩めるアリスの横で、チェシャはセリカと対面で座っていた。
「もう一年ぐらい経つのね」
セリカは懐かしむように宙を見つめる。チェシャが村の中で遊ぶとなれば一緒にいたのはナーザとシエット。その関係の中でセリカには良く世話になっていた。
「はい」
村の外には出れないから近くでごっこ遊びや、追いかけっこなどとありふれた遊びをする程度だが、それでもチェシャに不満はなかった。時々服を汚してしまった時にはチェシャの両親にバレないようにセリカの手を借りたこともあり、そう言った日々も含めて彼の思い出だ。
「どう? やっぱり外に出ると色々と変わるでしょ?」
「……はい」
濃密な一年弱をチェシャは振り返る。
因縁でもあるのか彼には分からないけれど、大鹿から始まって、アリスと出会って、ボイド、クオリア、ソリッドとも出会って神の試練に挑む日々。人智を超えた試練の世界は刺激的で、幻想的だった。
──楽しくなって来たんだよなぁ。
村で学んだ槍捌きやその他道具の扱い。狩りとは全然違う生かした方ではあったけれど、戦いに役立った。
そして、今度は不覚にも死線に血湧き肉躍る彼自身がいた事も気付いた。
「セリカさんから見たチェシャって、どんな感じだったんですか?」
チェシャが過去を振り返っている間の沈黙でアリスがセリカに尋ねる。
「そうねー……。普通の子、かしら? 村長の息子ってだけで、私から見れば男の子な事には変わりなかったわ。あ、思い出した! ちょっと待ってて」
急に席を立ち、奥の部屋へと消えていくセリカ。アリスが首を傾げて、お茶を一口含んだ。
「何かあるの?」
「さぁ? 絵とかを描いた記憶は無いけど……」
「そういえば、チェシャは絵は描けるの?」
「全く。ナーザなら上手いと思うけどね。……アリスは?」
「んー……。出来たと思うんだけど、ね」
チェシャの問いにアリスは下唇に指を添えて小さく唸り、歯切れの悪い返事をする。
記憶の片隅には絵を描いた記憶があったようななかったような曖昧な何かが残っていた。
しかし、絵を描こうにもろくなものは描けないので気のせいだとも思っていた。
「今は無理ってこと? 絵って体が覚えてそうなものだけど」
チェシャは自身の経験を踏まえて言う。武器や器具の扱いにしろ、一度体が覚えればそう忘れないものだというもの。
「一、二年ならね。でも流石に時間が経ちすぎよ」
「そっか」
いくら体が覚えるとはいえ、千年も経てばブランクなどと言うレベルでは無いのは明白だった。
「……ん? 昔ならかけたかもしれないって事はどうして分かったの?」
納得したチェシャが先程のアリスの答えを掘り返す。
「えっと、グングニルで見つけたわたしの日記に描いてたのよ。絵」
「へー、どんな絵?」
「え……うーんと……」
「お待たせ~!」
アリスが答えを言い淀んでいる間に、木箱を抱えたセリカが帰ってくる。そして、掘り炬燵まで戻ってくるとその箱を置いた。中に何かがいくつか入っているらしく、木箱はガラガラと音を立てた。
「これは……?」
「……」
「いひひっ、知りたい?」
ニヤニヤするセリカにチェシャは複雑な顔をする。その両者を見たアリスは尚のこと木箱をじっと見つめた。
木箱の蓋がセリカに開けられて、中身が現れる。
「石?」
出てきたのは何の変哲もない小石の山。蹴るには良さそうな大きさから、拳大のものまで様々な姿形のものが入っていた。
「娘とナーザ君、チェシャ君の三人が出かけると拾ってくるのよねぇ。せがまれて取ってあるのだけど、ふふっ……懐かしいわ」
小石をよく見ると、削られた跡があり、日付と場所らしき文字が記されていた。
「何年、取ってたんですか?」
チェシャが複雑そうな顔を変えぬまま尋ねる。
「最後に入れたのがこれだから……。四年は開けてないわね。で、最初に入れたのがこれ。だから、9年前から。そう考えるとたかが小石でも馬鹿にならないわ。ひひひっ」
木箱一杯に詰められた小石を見て笑っている大人の絵面はともかく、アリスはいくつか小石を取り出して、記された文字を読み始めた。
「水切り一五回……。え、水の中から?」
「あー。あったな……」
アリスから見れば羞恥の色が垣間見得ていたチェシャの顔は目を細めて懐かしげにする。
たかが小石なのに懐かしい気持ちにさせてくれるのはなんだか面白かった。
「ナーザとシエットにせがまれて水切りを教えてたんだ。最初だから二人とも全然出来なかったんだけど、俺の使った石なら出来るって思ったみたいでさ……」
大変だったと呟くチェシャ。セントラルにいた頃には感じられなかった兄としての彼の姿に今度はアリスが目を細めた。
「ビショビショで帰ってくるものだから私も焦ったわ」
「焦る前に怒ってましたよ……」
「あら。ふふ、そうだっけ?」
「はい。……悪いのは俺らですけども」
「先走ったのは娘でしょう? それに、過ぎた話よ」
思い出話に花を咲かせる二人。アリスはその傍らで木箱の小石を掴んではそこに記された文字を読み続けていた。
「……あんまり見られるのは恥ずかしいんだけど」
黙々とチェシャの追憶を読み続けるアリスにチェシャは頰を掻きながら言った。しかし、彼女はチェシャの方を見向きもせず淡々と小石を漁り続ける。
自分の知らないチェシャの姿がたくさんあるのに見ないわけにはいかなかった。
「だって、面白いもの」
飛んできた答えにチェシャは肩をすくめる他無く、そんな二人をセリカは暖かく見守っていた。
*
アリスの作業は彼女自身ではなく、部屋の扉を開けた主に中断された。
「ただいまっ! ……チェシャ!?」
扉を開けたのは頭の上に髪を纏め、お団子を作っている短髪の少女。セリカと同じ朱色の髪と額を隠さないその姿も相まって、活発な雰囲気を出している。
「お邪魔してるよ、シエット」
「おかえり。お父さんにちゃんと渡してきた?」
「勿論よ」
自信満々に答えたシエットはアリスの姿を見つけると途端に彼女を睨みつけた。アリスはそれを相手にしない。
「……ふんっ」
「シエット、手を洗ったらこっちにいらっしゃい」
「……分かった」
「……はぁ。ごめんねアリスちゃん」
ぶっきらぼうな返事を返したシエットは足音を荒立て、洗面所らしき場所に消えていく。そんな彼女の代わりとセリカが目を伏せてアリスに謝った。
「いえ、気にしてませんから」
「それはそれで……な気もするけど──えっと、単に会いにきたんだよね?」
アリスの少し食い気味な即答に苦笑したセリカは咳払いで話題を切り替え、チェシャに尋ねる。
「はい」
「そっかそっか。お菓子あった方がいいかしら?」
「……良かったら」
少し悩んでからチェシャは頷きを返す。
「分かったわ」
セリカも席を立ち、炬燵には二人が残される。すると、アリスがチェシャの耳に口を近づけた。
「ねぇ。シエットさんってどんな人?」
「んと、悪い子、じゃないよ。ただ、思い切りが良いというか一度走ったら止まらないというか──」
「……大体わかった」
アリスの事を睨みつけたのは事実のため、チェシャは歯切れの悪いフォローを入れる。しかし、それはアリスによって遮られ、チェシャは目を伏せて顎を摩った。
「やっぱ一人で来るべきだったかな……」
「ううん。逆よ」
チェシャの呟きをアリスはキッパリと否定する。間もない否定にチェシャは思わず体を震わせた。
「……その根拠は?」
「うーん、勘?」
「長生きの勘なら信頼できるか」
「真顔でそんな納得しないでくれる? あと、長生きって言われるのなんかヤダ」
「あははっ。ごめん、でもちょっと弱くない?」
アリスが勘と言うのはあまり多くはない。どちらかと言えば彼女は理論派で、チェシャの方が感覚派だ。その背景の元にチェシャが疑念を示した。
「そうね……わたしがシエットさんの立場ならどう思うかなって」
「ん……? どう言う意味?」
「ふふっ、分からないならいいの」
「え?」
不服そうなチェシャが言及しようと口を開きかけた所で荒い足音が部屋に帰って来る。
「ママは?」
「お菓子取りに行ってくれてるよ」
「ふーん」
シエットは空いている掘り炬燵のスペースに足を入れ、アリスの対面に座る。
沈黙。どこか重い空気にチェシャがみじろぎする。
「…………もう、元気、なの?」
じっとアリスの目を見つめていたシエットはそれをやめてチェシャに尋ねる。その声には心配の色が濃く、濃く乗せられていた。
「うん。それに、父さんの方が危なかったし」
「そうだけど、また“成った”んでしょ?」
「あー、ん。……でも、良くはなった」
その答えにシエットはアリスの方をチラリと見た。彼女の目つきにもう鋭さは無かった。
「そう。なら……良いけど」
胸を撫で下ろしたシエットは佇まいを整えて、また口を開いた。
「神の試練、だっけ? どんな所なのっ? 凄いって聞いたよ」
そう尋ねる彼女の顔色は好奇心一色で、それはチェシャがよく知っていた彼女の一面だった。
「確かに凄い。どう言えば良いかな……」
「……別世界って感じ?」
言葉を探すチェシャにアリスがおずおずと助け舟を出す。自身の声に反応したシエットの目が鋭くない事を確認したアリスは炬燵の下で握られていた拳をそっと解いた。
「へぇ。例えば例えばっ?」
「あっ、うーんと……今まで感動したのは雪山かな。どこを見ても真っ白だったの」
家に帰ってきたばかりのシエットとは全く異なる調子の彼女にアリスは困惑しながらも今までの探索記から絞り込む。
「そうそう。そこの迷宮にさ、氷の洞窟みたいなのがあったんだ。あれも綺麗で凄かったなぁ……」
チェシャが語ったのは大惨事連の小迷宮、氷中洞窟の波を凍らせてくり抜いたかのような非現実的な光景。アリスもそれに同意するように頷き、シエットが彼らの話から想像したのか頰を緩ませた。
「良いなぁ。アタシも行ってみたいっ!」
「うーん。確かに凄いけどそれと同じくらい、いいやそれ以上に危ないんだよ?」
「アタシだって槍も弓も練習したんだからっ」
「でも、ナーザに勝てないでしょ?」
「そ、それはアタシは弓もやってるもの。両方アリならアタシが勝つわよ」
「向こうじゃそんな言い訳、通用しないよ?」
シエットがチェシャに言い返そうとして、言葉が思いつかなかったのか眉を寄せて口を尖らせた。
「……。アリス、さんもチェシャと同じくらい強いの?」
「……ああ、そうだよ。方向は違うけど」
「……」
それを聞いたシエットは腕を組んで考え込む。
敬愛する彼が信頼する人。彼がどうしてそこまで信頼を置くのかは謎だった。
そのまましばらくすると、炬燵を両手でバンと叩き、腰を浮かせ、
「アリスさんっ、勝負っ、しませんか?」
そう言った。