雪は解けずとも
翌日。
「あ、おはよ」
顔だけ洗って寝巻き姿のまま居間に現れたアリスは既に身支度を整え、食卓に座るチェシャに声をかけた。
「……お、おはよう」
恥ずかしい姿を晒してしまったことを後ろ暗く思っていたチェシャは目線を合わせぬまま挨拶を返す。普段であれば新聞を読んでる等ではないかぎり、顔を上げはする。アリスは小首を傾げた。
「サラさんもおはようございます」
「おはようアリスちゃん。朝ご飯はまだだから先に身支度を済ませておいで」
「分かりました」
アリスはぺこりと軽い会釈をして居間を出る。
ナーザとフェリスは用事があるらしくチェシャを置いて出て行ったため、ここには居ない。
居間から出て行くアリスを見届けたサラは妙な振る舞いをする息子に呆れ、ため息をついた。
「何かあったの?」
「いや、ない訳じゃないけど……」
チェシャの歯切れの悪い返答。
──恥ずかしい。
アリスに見栄を張っていた自分の中身を曝け出したというのは彼にとって羞恥に悶えるものだった。
慰められたというならば、尚のこと。
──分からない、な。
受け入れられたことによる嬉しさ、安心。それと同時に感じる気恥ずかしさ。顔は背けつつも彼の目線はアリスを追っていた。
そんな様々な感情が渦巻くチェシャの顔をしらばく見つめていたサラは途端に吹き出した。
「ふふふっ」
「なにさ」
「若いわねぇ」
サラのその言葉に重さはなく、楽しそうな声だった。
「……」
「ごめんね。からかうつもりはなかったの」
「良いけどさ」
納得の言葉はともかく、チェシャの顔は不貞腐れたままだった。
「それより、今日は何をするつもり? アリスちゃんからはあんまり長居はしないって聞いたけど」
「とりあえず、シエットの所に顔出しに行く」
「シエットちゃんなら昨日来てたわよ?」
「え?」
チェシャは呆気に取られた顔で目を見開く。
「あなたが寝てた間に来てくれたのよ。アリスちゃんとちょっと睨み合ってたけど、直ぐに帰って行ったわ。多分、今日来てもおかしくないわね」
「まじかー……睨み合ってた?」
「うん、どちらかと言えばシエットちゃんが勝手に睨みつけてた感じだけどね?」
「いや、そこじゃなくて」
「……信じられないことは仕方ないかも知れないけど、あなたも悪いのよ?」
「え、俺のせい?」
チェシャにはサラの話を理解出来なかった。疑問符が彼の頭に浮かんでいく。香ばしく焼き上がるスクランブルエッグの匂いだけが風に流されて彼の思考を乱した。
「まぁ、せっかくゆっくり話せる機会なんだから、いってらっしゃい」
「言われなくても、行ってくるよ」
「よろしい。はいっ、出来たわよ」
焼き上がったスクランブルエッグを加えて、色鮮やかな野菜を挟み込んだサンドイッチ。パンも窯で焼いたもの。焼かれてから時間は経っているが、焼きたて特有の膨らみと匂いはまだ残っている。
「ありがと。……いただきます」
チェシャは纏まらない考えを一度頭の隅に追払い、目の前で食欲を煽るパンを食らいつくことにしたのだった。
*
玄関で靴を履き、チェシャとアリスは後ろで見送るサラの方に体を向けた。
「行って来る」
「サラさん、行って来ます」
「はい、いってらっしゃい。いつ頃帰ってくるつもり?」
「分からないけど暗くなる前には戻るよ」
「分かったわ」
「じゃっ」
チェシャは片手を上げてから扉を開いた。アリスは外からの冷気に体を震わせながらもサラに一礼して彼の後を追う。
澄んだ空気。チェシャは初めて自然な表情で故郷の新鮮な空気を吸えた。周りの雪は降り積もれど、彼の胸に積もっていた悩みの色がもう消え失せている。
「胸、スッキリした?」
彼の内心はアリスにはお見通しらしく、ニヤニヤした顔で彼の目を覗き込む。
「……うん」
チェシャは素直に頷くも、真の立役者であるアリスから顔を背ける。顔は冷気のせいかは分からないが、赤らんでいた。
「んっ、ん! ──昨日、シエットが来たって聞いたけどほんと?」
わざとらしい咳払いでチェシャは話を変えたが、彼の姿にクスクス笑いながらもアリスは話題に乗る。
「……薄い赤髪の女の子だよね? 来てたよ」
「睨みつけられたとかも言ってたけど」
「あー……まぁね。でも、気にしなくて良いよ」
「どうして?」
「あんまり言っちゃダメだけどね、正直愉快だったもん」
アリスは申し訳なさ半分、楽しさ半分の表情でそう言った。チェシャは睨み合っていたのに愉快と言う彼女の内心が理解ができず、更に眉を顰める。
「あははっ。だから気にしなくて良いって言ったじゃん」
チェシャの顔を見て笑うアリスはチェシャから見ればなんの陰りも見えなかった。故に彼はそれ以上追及する事をやめる。
「そう? なら良いけど」
夜の内に雪がたんと降り積もったのか、人が歩く道も雪で覆われている。二人は雪をザクザクと踏み締め、一本道を進んでいく。
「……懐かしいね。いっぱい積もる雪を歩くの」
「懐かしいって程じゃないよ。一節経って無いんじゃない?」
「そう?」
「うん……アリスの故郷は雪とか降らなかったの?」
チェシャはいつもよりも踏み入った話に切り替える。
「見たことない。綺麗な街や村もないし、何か降っても変な雨しか降らなかったし」
「変な雨?」
「うん。酸性雨って言うんだけどね。植物にその雨が当たると溶けちゃうの」
「溶ける?」
「そう。まあ、見てみなくちゃ分からないけどね」
「そうなんだ」
ボイドなら分かるのかなとチェシャは思う中、ふと湧いてきた疑問をぶつけた。
「じゃあ、綺麗な景色とかを見に行ったりしなかったの?」
チェシャが気にしたのは“綺麗な街や村もない”の部分。古代技術の文明力ならば、世界のどこにだって行けることが出来るはずなのに、アリスの話はどこか失望のようなものがあった。
「うーん……ほら、私の時代は生きるので必死だったから」
「あ」
彼女がここに来たのは突然現れた迷宮とそこから溢れ出た迷宮生物の所為なのだ。それを鑑みれば、呑気に観光など出来はしないだろう。
「物心が無かったくらいにはまだ綺麗な場所だったかもしれないけど、もう……覚えてないから」
儚さを感じさせる顔でアリスは力なく笑う。チェシャはその顔に手を伸ばそうとして──辞めた。
「じゃあさ」
代わりにキッパリとした口調で言う。彼の目標は達せられた。その代わりに出来た新しい目標。
「全部終わったら色んな所を見に行こうよ」
「チェシャも? 村には、戻らないの?」
彼女の言葉はチェシャに念押しのような何かを感じさせる。
「はっ、なんで戻るんだよ。アリスに着いて行くに決まってるじゃん」
「そうなの?」
「そうだよ」
きっとその旅はアリスが心の底から楽しむだろうとチェシャは確信していた。年の変わらない少女が人類の守護などと大それた使命などを負う必要など何処にも無い、彼女には年相応に生きて欲しいと。
それが彼に思いつける恩返しだった。
「……ふふっ。楽しみにするねっ」
「っ」
「あっ、待ってよぉ!」
安心したようにアリスは破顔する。まさしくチェシャが望んでいた年相応の笑み。チェシャはその笑みに魅入ってしまい、赤くなった顔を隠すようにアリスと歩調を合わすのをやめて少し先を歩いて行った。
*
「ここ?」
「うん」
立ち並ぶ家屋のうちの一つ。チェシャは扉の前に立ってノックをする。
「すみませーん!」
「は~い?」
チェシャの声に反応したのは低い女性の声。木製の床を踏みしめる音がリズム良く響き、音が近づいた後に扉が開けられた。
「あらっ、チェシャ君じゃないの。おかえりなさい」
「ただいま、セリカさん」
扉を開けたのは短い朱色の髪の女性。この辺りの気温は高くないのに生地の薄く動きやすい服を纏っているからか、前髪が上げられて額が見えているせいか、活発な雰囲気を纏っている。
「こっちの女の子は……彼女か何か?」
からかう気満々のニヤニヤした顔でセリカは尋ねる。チェシャの後に続いて挨拶をしようとしたアリスはその問いに出鼻をくじかれ、顔を俯かせた。
「ん……と、セントラルで探索者をやってるんだけど、同じパーティの仲間のアリス」
「は、初めまして」
流石に自己紹介をチェシャにさせるのは嫌らしく、セリカの目を見てから頭を軽く下げた。
「アリスちゃんね、よろしくっ。……他にも同じパーティメンバーの方は居ないの?」
僅かなチェシャの逡巡に訳知り顔で頷いたセリカはさらに質問を重ねる。二人で活躍する探索者はパーティとも呼ぶが、コンビとも呼べるため、彼女は他にも仲間が居るのだと推測していた。
「居るよ、けど、別行動中」
「そっか。……セントラルってことは神の試練よね。 詳しくはないけど、人数が減ったパーティでも大丈夫なの?」
「元々、他の迷宮ともその三人で探索してるって言ってたし、今は他の探索者のパーティと合同でやってる」
「ふんふん、三人だから……五人パーティって訳か。っと、忘れてた。何か用事かしら?」
「んー、用事ってほどじゃないけど……シエットに顔出しに来た。昨日来てくれたみたいだし」
「──やっぱり。あの子チェシャ君に会ってなかったのね」
「やっぱり?」
納得がいったと頷くセリカにチェシャはおうむ返しで尋ねる。彼がちらりと事情を知っていそうなアリスに目線を向けると、アリスは気まずそうな顔をしていた。
実の所些細な言い合いもあったので、原因の一端に加担していた身としては何も言えなかった。
「あの子、チェシャ君が帰ってきたって聞いてから、ご機嫌で出かけて行ったのに、帰ってきたらもう不機嫌でね。あはっ、あの時は面白いくらい真反対だったわねぇ」
コロコロと少女のようにセリカは笑う。それでいて、声の重みは確かに大人の女性。その二面性にアリスは興味深そうにセリカを見つめていた。
「そ、っか。──謝らないと」
チェシャにとってシエットはトラウマの火種でもあったが、同時に村を出る前の彼には数少ない友人だった。変なしこりを残したくなかった。
「シエットならちょっとお使いを頼んだから今は居ないのよ。戻ってくるまでお茶でもどう?」
「そうします」
「よし、じゃあ、上がって上がってっ!」
一足先に靴を脱いでセリカは家に戻っていく。彼女が抑えていた扉のドアノブを掴み、チェシャは後ろを振り返った。
「ん」
「あ、ありがと」
さりげなく、道を開けてくれたチェシャにお礼を言いつつアリスは玄関に足を踏み入れた。