芽吹くは純真たる欲念
それは俺がまだ村の人達の狩りを手伝い始めて間もない頃だった。
「チェシャ坊! そっち行ったぞ!」
「分かってる!」
面倒見のいいおっちゃんの指示に叫び返して、槍を構える。向かってくるのは村の人達に追い回された鹿。
傷を重ねながらもなんとか逃げる鹿に渾身の突き出し。
その頃はまだまだ拙い技術に過ぎなかったけど、槍は無事に鹿の頭を貫いた。
弱り果てていたせいで大した悲鳴も上げずに鹿はその場に崩れ落ちた。
「良くやった!」
おっちゃんに乱雑に頭を撫でられる。
「やめてよっ」
照れ隠しもあって、頭を撫でる大きな手から逃げ出す。
なんて事ないただの日常。
「おいっ! お前らっ! 早く逃げろっ!」
そんな俺たちに声をかけてきたのはまだ成人して間もない若い男性。頭から血を流していて、足取りも覚束なかった。
「なっ、どうしたんだ!?」
「馬鹿でかい鹿のバケモンだ! ありゃあ魔物だ。早くフェリスさんに応援を頼まないとっ! みんなが死んじまうっ!」
僅かな逡巡の後、おっちゃんは口を開いた。
「分かった。お前はフェリスさんに応援を呼んできてくれ。チェシャ坊、お前は俺と一緒に来い。俺が引きつけている間に逃げるのが難しそうな奴を助けるんだ」
「分かった」
「きっ、気をつけろよ!」
俺たちは血だらけの男性を置いて悲鳴が聞こえ出した場所に向かって進む。
まだ慣れない険しい山の地形に四苦八苦しながらも、その中をスイスイと進むおっちゃんに遅れないように必死で走る。
「……いたぞっ!」
そこに居たのは今思い出してみるとまるでビッグディアーの様な奴だった。
自然界には到底見かけない様な体格の大鹿。今も尚、村の腕自慢たちが必死に立ち向かい、吹き飛ばされている。
「チェシャ坊はあそこに倒れている奴らを遠ざけてくれっ。時間を稼ぐ!」
「うん!」
俺はそこら中に倒れている人達を助け起こして、肩を貸して、離脱の手伝いをする。まだ無事な人達もそれを手伝ってくれた。
鹿の方は、本来は前に出ない村の女性達も弓で援護に回っていた。矢の通りが悪い為、本来よりも近くからの援護だった。
そこには幼馴染だったシエットも居た。俺が狩りを手伝いだしてから、年齢的にも後一年ほど足りなかったが駄々をこねて入れてもらっていた。
鹿は飛んでくる矢を煩わしそうにしている。そして、突如、男性陣の包囲を跳躍で抜け出し、弓を構える女性陣にへと突撃をした。
甲高い悲鳴。
「シエット!」
シエットのすぐ横の女性が呆気なく角に突き刺される。即死だった。
鹿の頭がシエットに向けられる。
それを見た瞬間、地面を蹴った。けど、たかが少年の疾走。距離を詰めるのには時間がかかった。
「──や……いや……」
何故だかシエットの掠れ声がとても鮮明に聞こえた。体が熱くなる。すると、直ぐに鹿の元へと辿り着いた。きっと、後から思えば、それも流れる血が何かを強化したんだろう。
「~~~~っ!」
だけど、出来たことといえばシエットを突き飛ばして、身代わりになった程度。
「──かはっ!」
呆気なく腹に角が刺さった。血が口から溢れた。
それと同時に、腹から何かが湧き上がってくるのを感じた。そこからはもう無我夢中だった。
腹から角を強引に引き抜く。腹には風穴が開いていた。
でも、何も感じなかった。あるのはどこからか沸いてくる高ぶりだけ。
「っ!」
武器も何も持っていなかったから拳を握りしめて全力で殴る。知らぬ間に拳は黒くなっていた。
悲鳴。大鹿の痛哭。
大鹿は仰反る。また、殴る。両の拳で殴り続ける。
悲鳴は上がれどもただではいかないとばかりに大鹿も頭を振って角をぶつけてくる。
理性のかけらもない俺はそれをまともに食らって吹き飛ぶ。
だからなんだと。立ち上がって、拳を握りしめて、痛みに呻く大鹿を殴る。気づけば拳は黒の異形と化していた。
それから続いたのは無情な殺し合い。繰り広げられる生存競争。
左肩にも穴は開けられたけれど、腕は繋がっていた。左の拳は握りしめられ無かったから右の拳で大鹿を殴る。
異形の拳はその内に大鹿に風穴を開けた。
そして、大きな体躯が地に倒れる。
周りは血の海だった。そして、出血多量で死んでもおかしくないくらいにその血の海に俺は血を流し込んでいた。
僅かな理性が返ってくる。
思い出したのはシエットの安否。
風穴を作ったままの俺は異形に覆われたまま足がすくんで動けなかったらしいシエットに近づいた。
けれど、彼女の表情はまだ恐怖に歪んでいた。
「し……えっ、と?」
「──ひっ!」
僅かな理性が感知したのは拒絶の感情。ここで意識を失っていたならば、何も思わなかったのかも知れない。
恐怖心からの視線。それから逃れようと振り向いた。
そこには怯えた目を向ける村人達の姿があった。
突き刺さる浴びた子のない視線。
どうして? そんな疑問がただただ俺を支配していた。それと同時に感じた疎外感。
知り合いだって友達だって例外なく俺を怯えた目で遠巻きに見ていた。どうせならば逃げて行ってくれればよかったのにと今なら思う。
今まで経験したことのないただひたすらに純粋な拒絶に恐怖。
それらへの防衛かは分からなかったけど、意識はそこで途絶えた。
数日眠って体に開けられた穴も含めて完全に完治はした。けれども、村の人達に植え付けた恐怖は治らなかった。外に出るたび向けられる畏怖の視線。逃げる様に家に帰る人。
一年も立つ頃には最低限の会話なら行える様にはなった。村を出る頃には普通に会話はできるようになった。
けれども、あの視線を思い出すと未だに自分が自分で無くなる気がする。
*
「──!」
誰かの声。血が湧く。けど、誰かはわからない。
「──ャ! ──シャ!」
ふと思った。それは俺が欲しいものだったと。安心して体を預けられる様な心地よい何かだったと。
いつまのにか憧憬よりも遥かに主人公に似合う人がいたと。あの小さな体で背負うには辛い物語を果たそうとしている人。
いつからか、それに向けるものが憧れや尊敬とは違うものになっていた。
渇望だった。
あれが欲しい、とただただ思った。
けれど、それを手に入れるには、そこへ辿り着くには自分は惨めで未熟で、情けなかった。虚勢を張ろうとも、誤魔化せなかった。
更に言えばそんな虚勢のツケは今回ってこようとしている。
この声はそういった事実を自覚させてくる。
「チェシャぁぁ!」
それでも。
憧憬で終わらせたくは無かった。手に入れたかった。
強欲さに自分でも驚く。思いの他、自分の心は黒かったらしい。
自分本位の暗い感情。真っ暗闇に灯された光に群がる蛾の如く澄んでいない感情。
それでも。
この感情を拒む必要は無いじゃないか。
強欲でいよう。拒まないでいよう。あの憧憬の隣に立てる様になろう。
だから、いい加減に返してもらうよ。俺の体。
*
振り下ろされる槍。
腕で弾く。腕は黒かったけれど、もう異形じゃない。
勇者に似合う黒い小手だ。
父さんは何かを感じて距離を取った。その間に落ちていた槍を手に取る。頭は冴え渡っていた。
「ごめん父さん、もう大丈夫」
父さんに向かって父さんを見据えずに、そう言った。
「あ、ああ」
視線が自分に向かっていないことを不思議に思ったんだろう。はっきりとしない返事が返ってくる。
でも、どうでもいい。
欲しいのは、アリスに失望されたくない。ただそれだけのこと。
その為ならこの力だって利用してやる。
体に溢れる力。今なら分かる。きっとこれは魔力みたいなもの。使い方はなんとなく分かる。
無秩序に溢れる力の手綱を握る。振り回されてたまるものか、俺に従え。
「っ!」
体中に力を張り巡らせる。
地面を爆砕させる。
この程度の距離なんて意味は無い。全身全霊の突き。
父さんは槍を押し当てて軌道を逸らそうとしてくる。
でも、温い。
軌道はそれやしない。槍は父さんの腹に命中する。肉を貫いた手応えはない。衝撃のみが返ってきて、父さんは後ろに飛んだ。
すぐさま追撃に移る。体勢を崩しているので回避されない様に槍を薙ぎ払う。
対して父さんは咄嗟に槍を盾にして防ぐ。でも、そんなものごと吹き飛ばす。
父さんの体は呆気なく地面を転がっていった。
それでも、黒い異形のせいかダメージはそれほどでもないみたいだった。
受け身をとって直ぐに立ち上がって反撃とばかりに槍を振るってくる。
でも、遅い。
迫ってきた槍を弾く。簡単なことだった。
掌底を腹へと打ち込む。くの字になって肺から空気を吐き出させた。
「──っ!」
これで、終わり。
確実に当てるために腹を狙う。掌底を打ち込んだせいか腹部分の異形は色が薄くなっていた。
これ以上にない詰みの一手。父さんの槍が動いたのは見えたけど、もう間に合わない。
槍を振るう。
返ってきたのは肉を刺し貫く、慣れても慣れない感触だった。