若さ
アリスの目の前には湯気が立ち上るお茶。彼女の対面にはチェシャの母、サラが機嫌の良さそうな顔で頬杖を付いていた。
アリスが今し方話したのはチェシャ達とした探索の話。加えてその他。少し迷いはあれど、隠すのは難しかったので、グングニルについてはぼかしつつ、それ以外は包み隠さず話した。
「──それで、今はわたしの迷宮探索を手伝ってくれてます」
「なるほどねぇ。……なんだか納得してなさそうだけれど、それはどうして?」
アリスは目を泳がせる。
話している途中に浮かない顔をしていたからなのだが、彼女自身は気づいていない。
「えっと……正直、チェシャがわたしのことを手伝ってくれたり、そもそも色々助けてくれたのがどうしてか分からなくって……。都合が良過ぎる──ううん。お人好しすぎかなって」
チェシャにも以前話したこと。
「チェシャは、お父さんの教えに従っているからって言ってたんですけど、それでも──」
「納得できないってこと?」
「……はい」
「あの子もダメね。女の子に心配かけちゃ」
サラはクスクスと笑う。とても楽しそうだった。
自分の息子が女の子を連れて帰ってきたのだ心が浮き立つのを抑えられなかった。
「そうね……貴方達の仲ならもう知っていそうだけど、あの子の血は不思議なのよね」
「ふしぎ……」
第四試練で聞いたチェシャの血筋、黒血の獣。いずれは第四試練で出会した黒騎士と似たような存在になると言われたもの。
「多分。お父さんの血筋なのでしょうね。私としては息子には自由に生きて欲しいのだけれども……」
「何かあるんですか?」
「私も詳しくは知らないの。でも、この村にはお役目があるらしくて、あの子にしかそれが出来ない。お父さんが厳しいのはそれのせいだと思うけど……。ごめんね」
「いえっ! 大丈夫です」
詳しくは説明できないからと頭を下げたサラにアリスはワタワタと手を振り、彼女の頭を上げさせた。
「えーと、何の話……。そうそう。お人好しの話だったわ、……それはね?」
サラはアリスの目を覗き込む。
「単に寂しがりなだけなの」
「え?」
拍子抜け。そんな言葉が良く似合う顔だった。
それに彼からそんなことを感じさせる言葉を聞いたことがなかった。
「それだけじゃないかも知れないけど。放って置けなかったのよ、きっと」
「……?」
それは確かにチェシャはあの時に“なんとなく放って置けなかった”と言っていた。
「あの子に流れる血のせいだけど、時々タガみたいなものが外れるみたいでね。──あっ、ここ数年はマシよ?」
「小さい頃に村のみんなと疎遠になっちゃって。そのせいもあって孤独が怖い、と思うの……確証は無いけど」
「……」
アリスの疑問に対する答えは彼女の中にスッと落ちてきた。
「さっきの話を聞いたから言えるけど、アリスちゃんがあの子に感謝してる分くらい、チェシャはアリスちゃんに感謝してるわ」
「そう、ですか」
「ええ」
アリスにとってチェシャは近くて遠い存在だった。強くて、頼り甲斐があって、意外と抜けているところはあるけど、一番最初に動ける決断力があって──。
あくまで自分の時代の武器に縋っているだけの自分とは大違いだと、そう思っていた。
明らかになった真実。側から見れば虚勢を張っていただけのハリボテなのかもしれない。実力があるから、ハリボテとはいかなくとも、小心者ではある。
逆に言えば、アリスだって似たような人種なのだから、全く遠い存在などでは無い。時に隔てられても、所詮同じ人間だったというだけだ。
「そう、なんだ」
「……ふふっ」
アリスが見せた安堵するようにとろけた顔。対面に座る人が漏らした声で我に帰り、その顔はすぐにしまわれる。俯いたアリスは情けない顔を晒した羞恥で頬を紅く染めた。
「安心した?」
「……はい」
アリスは素直に頷く。今は虚勢を張らなくても良いと思った。
「ねぇ、アリスちゃん?」
「はい?」
「少し、お願いがあるの」
「お願い……何ですか?」
「あの子は逃げずに帰ってきた。だから、きっと大丈夫だとは思うの、けど、乗り越えられたかは分からない。だから──もしあの子が落ち込んだ時に慰めてあげて欲しいのよ」
具体的に何についてかはぼかされていたが、アリスに求められている事自体は単純だった。
──貰ったものを返せば良いんだよね?
「言われなくても、そのつもりです」
微笑を浮かべて頷いた。
出来るかどうかは分からないが、そうしたいという意思は言われなくとも彼女の中で確かに存在していた。
「ありがとう」
突然。
──カァァン!
と、遠くで澄んだ音がなった。
「あら?」
「何の音、ですか?」
揃って首を傾げる。響いた音はチェシャとナーザが槍を打ち合ったもの。
「多分、チェシャとナーザが試合でもしてるのでしょう。久しぶりでも帰ってきていきなりなんて、元気ねぇ」
「サラさんも元気じゃないんですか?」
「元気よ?」
「え」
アリスは話が違うじゃないかとぽかんと口を開ける。
「ごめんね、元気っていうよりは、若い、って感じね」
そう口にするサラの容姿は十分に若い。さらに頭の上に疑問符を浮かべるアリスにサラは言葉を重ねた。
「若いって、どういう意味だと思う?」
「……えーっと、元気、じゃないですよね?」
「まあ間違ってはいないけど、当たりでもないわね」
アリスはうんと考え込み、眉を顰めた。サラは何も言わず、アリスが考え付くのを待つ。
若いと元気は確かに等式では結べないものの、近似は出来るものなせいでその考えが彼女の頭から離れなかった。
静かになった居間に、時々チェシャ達が槍を打ち合う音が聞こえて来る。それは小さいものだったが、静かな家では聞き取ることが出来るものだった。
そうして槍が打ち合う音が聞こえなくなる頃、サラは口を開いた。
「アリスちゃんって」
ふとした声にアリスが顔を上げる。
「もし自分にとって都合が悪いのに、どうしようも出来ない事が起きたらどうする?」
「つごうが、悪い?」
ゆっくりとしたおうむ返し。あまり具体性のない問いだった。
「例えば……。どうしても勝てない魔物に出会った時とかかしら」
「……逃げます」
迷宮探索においての考えで言えば、勝てない敵には取り敢えず撤退が真っ先に思いつく。これに関してはほとんどの場合がそうと言えるものだが。
「誰かが犠牲にならなきゃいけない時は?」
「……どうしても、ですか?」
アリスが想像したのはいつもの五人での探索。彼女にとって大切な仲間でもある彼らが一人でも欠けるのは耐え難い事だった。
「もしかすると、砂漠の中から宝石を見つけるぐらいで、助かるかもね」
「…………じゃあ、みんなで頑張ります」
五人ならきっと大丈夫だと、そう信じたかった。
「じゃあ、そこで誰かが犠牲にならないと大勢の人が死ぬとしたら?」
「──っ」
アリスは立ち上がりたくなった。全てが後出し。それは狡いじゃないかと。
そう思って拳を握りしめ、ゆっくり解いて、自分を落ち着かせてから口を開いた。
「……あきらめ、ます」
たかが妄想、想像の話。それでも、この話はアリスにとってはとても重いものだった。
──まるで、わたしみたい。今の答えも。
「ふふ。ごめんね、意地の悪い質問して」
サラは机から少し身を乗り出してアリスの頭を優しく撫でた。そして、席に戻って言葉を続ける。
「若くなくなる、つまり歳を取るって諦めるのが早くなる事だと思うの。現実を知って、可能性を知って、不可能を知って、諦めるの」
どこか重みのある言葉。まるでそれら全てを熟知してるかの如くサラは語る。
「もし、少しでも結末に納得がいかないなら、抗ってみるのは大事よ? 大人は結果を悟って諦めちゃうんだけどね」
ふっと、サラはため息をついて目を伏せた。そして、もう湯気が登らなくなったお茶を口に含む。
冷め切ったお茶は、時が経って冷めてしまった情熱とどこか似ていた。
「……」
──わたしって若いのかなぁ。
アリスもまた目の前のお茶を最後まで飲み干す。同時に、いつの間にか熱くなっていた体が冷めたのを感じた。
それは完璧な結末を諦めた自分ともよく似ていた。