第005話 領内の森
領都リンナエスの北東側にある森の中を、少し前に五歳になったばかりの俺カルロス・リンナエスは散策している。
ミクランとアルメが後に従う。
“緑の民”である二人は森に入ると途端に生き生きする。
ミクランは表情に出さないので最初はわからなかったが、アルメは表情に出すので最初からわかりやすかった。
髪の色以外はそっくりな二人だが性格にはかなり違いがある。
亜熱帯の森は植物の密度が濃い。
大木から伸びた枝が空を覆い尽くし、春の陽気も届かない。
森までの道中で日差しにあたり熱を貯めていた肌が、森の空気で冷却されるのが心地よい。
ツタやツルが複雑に絡まりあい、木々の間を繋いでいる。
樹肌には苔がつき、シダ植物の大群が地肌を隠している。
景色は目の前のささやかな空間のみ。
視界が狭い。
この大きな森はリンナエス男爵家の私有林で領民が立ち入ることはない。
そして凄腕のプラントハンターであるアレクセイは、領内にあるこの大人しそうな森にさして興味をもっていない。
森は無粋な者たちの足跡を付けられることなく春を謳歌している。
「うおお、あれはヒスカズラだ!」
俺ははじめて実物を見たヒスイカズラに駆け寄る。
ヒスイカズラは熱帯から亜熱帯地域に自生するツル性の植物で、名前の通りヒスイ色の花を咲かせる。
光沢のある勾玉状の花は人工物にしか見えず、実物を一度でも見たら忘れられないインパクトがある。
「カル様、あれはマクロポトリスです。ヒスイなんちゃらではありません」
護衛として俺の後ろをついて歩くミクランが指摘した。
「ミクラン、カル様がつけたヒスイカズラという名もなかなか良い。イェイ」
アルメの“イェイ”は5年経っても継続使用だ。
もう王都では流行っていないと思う。
いつか王都に行く機会を得た際にショックを受けなければ良いけれど。
「カル様の植物の知識は、緑の民の私たちでさえ舌をまくほどですが、その次々に新しい名前をつけていく癖だけはどうにかしていただけませんか」
「あはは……、新しい名前をつけているわけではないんだけどね」
頭をかいて誤魔化す。
セディとミクランとアルメの3人が、前世からの記憶にあった植物と同じだったことからも早々にわかったことだが、この世界の植物は前の世界の植物と非常によく似ていた。
一つの点を除いて、姿形、形質、名前までそっくりそのまま同じだ。
植物好きな俺としては、喜ぶべきか悲しむべきか判断に迷う。
前世での知識が役に立つという点では幸い。
期待していた異世界の未知の植物たちは幻想に終わってしまった。
とはいえ俺はそれほど落胆してはいない。
一つの異なる点というのが、一つではあるけれど決定的な違いだからだ。
この世界の植物は魔力を生み出し、その魔力を宿している。
植物体内に蓄えた魔力により、様々な効果を得ている。
例えば、蓄えた魔力で水属性の効果を発する木は、木なのに燃えにくい。
それは木材として加工した後でも効果を失わないため、建材に利用すれば、それだけで防火住宅が建てられる。
「実物をはじめて見るけど、ものすごく偽物っぽい感じがする花だな」
マクロポトリスの“緑の民”はどんな姿をしているのだろうか。
宇宙人のような何かを想像しかかってやめた。
「カル様は時々、特にはじめて見るとおっしゃる植物がありますが、カル様がアレクセイ様から森に入る許可を得たのは先日五歳の誕生日を迎えた時であり、森に入るのは今回でまだ三回目です。この森のほとんどの植物はご覧になるがはじめてです」
ミクランの鋭い指摘。
俺はヒスイカズラの観察に夢中で聞こえなかった振りをする。
下手な言い訳が300年の経験に敵わないことは実証済みだ。
「更に言いますと、最初からでしたのでもう慣れてしまいましたが、はじめて見るほとんどすべての植物をカル様は離れた位置から一目見るだけで同定されますね。それも一切の間違えがありません」
「あははは……、ずっと書斎に籠って本ばかり読んでいたからね。植物図鑑の挿絵の精度が素晴らしいよね。動物関連のものは割といい加減なラフ絵ばかりだったけど」
俺はヒスイカズラの勾玉のような形をした花の一つを千切り採った。ミクランとアルメが視線をそらす。
少し後ろめたさがあるものの、俺はそのままいつものように花を丁寧に分解して細部構造を確認する。
「カル様は領主様の跡取りという自覚が足りません。屋敷でお仕えする者たちはもとより領民たちもカル様の言葉を気安く訂正するはできません。このような散策時にマクロポトリスをヒスイカズラと私たちにおっしゃる程度であれば、問題はありません。しかし、食事の際に何の前置きもなく、ツベロサムにジャガイモと名付けたり、カロタをニンジンと名付けたり、セパをタマネギと名付けたりすれば、給仕の者たちはどうお返事して良いものかと困ってしまいます」
ミクランの小言にはもうすっかり慣れた。
「スマンスマン。わかっているんだけど、気を抜いた時につい言ってしまうんだよ」
「気を抜いた時に新しい名前を考えつくなんて、カル様はすごいんだな」
アルメは変なところで感心する。
ミクランとアルメがそうであったように、前世での植物の学名がそのままこの世界の植物の一般名として広まっている。
植物学者だった前世の知識のおかげで困ることはなかったが、ジャガイモやニンジンなどの日常レベルで慣れ親しんだ一般名については、口から出てしまうことが度々だった。
ここは話を逸らすのが正解。
ちょうど目の前にあった植物に駆け出す。
見た目は五歳児なので行動に不自然な感じはないはずだ。
「あっ、あっちに見えるのはマイソルじゃなく、ツンベルギアのマイソレンシスじゃないか」
マイソルヤハズカズラは、ヒスイカズラと同じくツル性の植物で、ヒスイカズラほど派手ではないが、黄色と赤茶色のコントラストの美しい目立つ花を咲かせている。
ただし、俺の記憶が間違っていなければ、その自生地はヒスイカズラとは随分離れている。
「やっぱりマイソレンシスだ」
植物園の温室内でしか見る機会のなかった花だ。
二人が追いついてくる前に急いで花を摘み取り、分解した。
「カル様、そのように一人で先に進まれては危険です」
ミクランが注意するのはもっともで、領内にあるこの豊かな森に魔物はいないとされているが、野生動物は多く生息している。
その中には五歳の子供ではとても太刀打ちできないような凶暴な肉食獣も含まれている。
“緑の民”であるミクランとアルメが一緒でなければ、到底この森に入ることはできない。
“緑の民”である彼女たちは少女のような見た目とは裏腹にかなり強い。
ハンターギルドとプラントハンターギルドが国をまたぎ大きな力を有するこの世界では、魔物や緑獣たちの強さの統一規格が作られている。
報奨金の設定やハンターの成果はこの分類が基準となるので、重要な規格だ。
混乱を避けるために両ギルドで統一の規格として定められていた。
強い方から順に、Ⅰ類、Ⅱ類、Ⅲ類と大枠での分類がある。
さらにそのそれぞれがA、B、Cの三つに細分化されている。
つまり魔物、緑獣、緑の民はその脅威度別に以下の九つのクラスに分けられている。
ⅠA類、ⅠB類、ⅠC類
ⅡA類、ⅡB類、ⅡC類
ⅢA類、ⅢB類、ⅢC類
通常、人間の領域に近くにいるような魔物ならⅢ類のどこかに分類されている。
ⅢC類であれば一般人でも複数で協力すればなんとか対応できる強さだ。
ⅢB類やⅢA類になるときちんと訓練された兵士やハンターでないと対応できない。
主にハンターたちの獲物になっているのもⅢ類の魔物や緑獣たちだ。
Ⅱ類クラスが出たら大騒ぎになる。
街に出没したらある程度の被害は避けられず、大勢の兵士を派遣して討伐しなければいけない。
ミクランとアルメはこの基準でⅡC類だ。
二人とならこんな領内の大人しい森ではなく、領外の『森海』だっていけるだろう。
そもそも二人は『森海』からやってきたのだ。
「本に書かれていた通り、マクロポトリスとマイソレンシスが同じ地域にあるんだな」
「それはそうだよ。カル様はたまに変なことに興味を持つね」
「あっちのはプルメリアだよな。あの赤い花が咲いている木」
「はい、カル様。あれはプルメリアのルブラです」
俺が何を不思議に思っているか、この世界しか知らないミクランたちにはわからない。
プルメリアはマクロポトリスやマイソレンシスと同じ温度帯に生育する植物ではあるが、中米の原産だ。
東南アジアと中米、生息する地域がまるで異なる。
この世界の植物の分布は自然ではありえない。
どこか人為的な印象を受ける。
共通祖先から長い年月を費やしてゆっくりと進化し、それぞれの地域で細分化されていったのではなく、完成した植物をまるで誰かが集めてきたような不自然さ。
それは、大航海時代にプラントハンターたちが世界の海を渡って採集してきた、世界中の珍しい植物が詰め込まれた貴族の巨大な温室、そんなイメージだ。
他の森も確かめたいが、それが許されるのはまだまだ先だろう。
「この辺りの森はどこの森もこういう感じの植生なのか?」
「そう、だいたい同じ。ただ、優占種はその森ごとに異なる。イェイ」
「優占種とは、その森で一番多く生育している植物だな。植生が同じなのに優占種が異なるって変じゃないか」
「カル様、そうではありません。数なら樹木よりは草花の方が多くなりますし、体積なら草花は樹木には到底及びません。優占種というのはそういう表面上のものではなくて、魔力の占有率のことです。森の中で一番多く魔力を貯めている植物種がその森の優占種となります」
「極端な場合、森の中に数本しか生えていない種が優占種という場合さえあります」
「優占種からしか“緑の民”は生まれないよ」
アルメが何気なく付け足した言葉に俺は驚いた。
人には知られていない“緑の民”だけの知識だ。
その森で一番魔力を蓄えている優占種からしか“緑の民”が生まれない。
「それじゃあ、『森海』はどうなんだ。エクアラセア神聖王国の国土の七倍とも言われる広大な森だというが、そのような広大な森でも優占種からしか“緑の民”は生まれないのか?」
「カル様、森海とは一つの森ではありません。人間たちは巨大な一つの森だと認識しているようですが、森海は大小それぞれ万にもなる森が集まったものです」
「なるほど。万の森か。それで王国は森海を“緑の民”の領域とみなしているんだな、、、あっ、それじゃあ、この森にも優占種があり、その優占種から生まれた“緑の民”いるということになるのか」
一つの森に優占種は一種のみ、その優占種からしか“緑の民”は生まれない。
そしてこれはミクランから以前教えてもらっていたことだが、一種の植物から生まれる緑の民は基本的に一人だけ。
“緑の民”の存在が珍しい理由はここにある。
仮にこの世界に存在する植物の種類が地球と同じく三十万種ほどだとすると、“緑の民”の数も最大で三十万ほどということになる。三十万というとそこそこのボリュームに思えるが、人間の数に比べれば二桁少ない。
そして文明の発展と共に急速に増え続けていくであろう人間とは違い、“緑の民”が増えることはない。
「そうです。ただし、この森は人間の勢力圏内にあります。ここで生まれた緑の民はとっくの昔に他の安全な場所に移動していることでしょう。それに“緑の民”がいつ生まれるかは私たち“緑の民”にもわかりません」
「この森は昔から領主の占有地で限られた人しか入ってこない。身を隠すにはうってつけだろ。この森で生まれた“緑の民”がまだこの森の中にいる可能性はあるんじゃないか」
「カル様、それはない。人間と“緑の民”では時間の感覚が違う。“緑の民”はそもそもエクアラセア神聖王国がこの領域に拡大してくるずっと前から存在している。この森で生まれた“緑の民”は人の領域が広がってくるのに合わせて、南へ移動したと思われる」
アルメが否定した。
「近年になって生まれたかもしれないじゃないか。周囲が人の領域だから、出られずに隠れているかもしれない」
「その可能性がないとは言い切れない。低いとは思う。別の可能性としては、まだ生まれていないということも考えられる。イェイ」
「よし、じゃあ、当面の散策の目的を決めた。この森の優占種を調査しよう。運が良ければ“緑の民”に会えるかもしれない」
ミクランたちに出会ってからもう五年が経過している。
そろそろ他の“緑の民”にも会ってみたかった。