第001話 緑の民
ついさっきまで盛大に泣いていた俺は、メイドのエリーに抱きかかられている。
肉付きの良い柔らかい身体で抱き抱えられ心地は素晴らしい。
泣いていた理由は自分でもわからない。
目覚めたことを誰かに知らせたかっただけかもしれない。
まだほとんどの時間を眠って過ごしているため、時間経過が驚くほど早い。
赤ん坊の一日は実質的に数時間しかないのだ。
その数時間も大半はセディのおっぱいを飲んでいる時間だ。
前世では終わりかけの中年男だったが、その行為の意味に気がつく前から本能で飲んでいたので、意外にも気恥ずかしさはない。
短いサイクルで寝て起きてを繰り返しているので、日数の経過もわからない。
大人のように寝て起きたら次の日という単純さがない。
圧倒的情報不足の日々を過ごす中で、特に待ちわびている事が俺にはある。
これまでも仄かに明るさを感じていた目だ。
ここ数日、瞼越しにも徐々に感じる明るさが強くなっているのは間違いなかった。
そして今、ついに今にも開きそうなこの感覚。
網膜に飛び込んでくる光の量が激増する。
眩しくて何も見えない。
赤ん坊が目を開いたからといって、すぐに何かが見えるようになるわけではないことを理解した。
ともかく俺は眩しくて泣いた。
「ヒイイっ」
エリーが短く高音を発して息を吸った。
いつもは丁寧なエリーが、やや乱暴な手つきで俺をベッドに下ろす。
彼女は慌てて部屋から飛び出していったようだ。
セディを呼ぶヒステリックな大声が聞こえた。
何か良くない事態が発生したことは推測に易い。
だからといって、どうすることもできない。
眩しさに耐えられず目を閉じていた俺はそのまま眠ってしまった。
その夜、俺はセディに優しく起こされた。
寝ているところを起されるのはとても珍しい。
たいていの親はせっかく寝てくれている赤ん坊を起こしたりはしないだろう。
つまり、それほど大切な用件があるということだ。
俺はベッドに仰向けに寝かされている。
感じる気配はアレクセイとセディの二人分。
話し声はすぐ近くから聞こえる。俺のことを覗き込んでいるようだ。
夜なのか、光量不足でよくわからない。
その分眩しさはなく、俺は目を開けていられた。
二人のボヤけた輪郭だけがわかった。
この眼ではじめて見たのは両親ということになるのか。
自然に微笑んでいた。
だが二人の纏う空気はいつになく重たいものだった。
「あなた」
セディの優しい声が耳に心地よい。
しかしながら赤ん坊は寝不足に弱い。
泣き声を上げないことが精一杯で、もう俺の脳は殆ど機能していない。
すぐにでも意識が飛びそうだった。
「うむ」
アレクセイの返事には隠しきれない緊張感が含まれている。
「カルの右目の色はあなたと同じブラウンですが、左目が…」
「これを見たものは?」
「エリーが初め見ました。すぐに私が呼ばれたので、直接見たのはエリーだけです。決して口外しないようにと、その場で固く口止めをしました。ただ、アンネには話したかもしれません。あの二人はとても仲が良いから」
「わかった。なんとかしよう」
「アレク、あの二人にはなんの罪もありません」
「わかっている」
限界が訪れ、俺は再び眠りに落ちた。
数日が経ち、俺の目はもうすっかり機能している。
パッと一気に見えるようになったわけではなく、時間をかけて徐々に解像度が上がっていった。
あの日から、エリーとアンネの声を聞かなくなった。
代わりのメイドは現れず、セディが一人で俺の面倒を見ている。
聞こえる範囲から大人同士の会話が無くなり、ただでさえ不足している情報がより集まらなくなってしまった。
セディは常々声をかけてくれるが、それは赤ん坊相手の独り言のようなものであり、情報としての価値はない。
たまにやってくるアレクセイとセディとの会話を聞き漏らさないように、アレクセイの気配に敏感になったのは当然の成り行きだ。
アレクセイはその渋みのある言葉使いから想像していた通り、セディより二周りは年上の外見をしていた。
領主というだけあって着ているのはヒラヒラで派手な服だったが、その中に収まっているのは日頃の鍛錬で贅肉を削ぎ落した引き締まった体だ。
ブラウンの瞳に明るいブラウンの髪、顔も希少性を訴えるほどではないが整っていた。
若い頃はほどほどにもてただろうことが容易に想像できた。
だがしかし、アレクセイはプラントハンター。
この世界のプラントハンターがどういった者たちなのかはまだわからない。
それでも、赤ん坊の予感が告げている。この世界においてもプラントハンターは植物の敵。
だって、プラントのハンターなのだから。
あとはアレクセイが害の少ない、つまり腕の悪いプラントハンターであればと期待するだけだ。
母セディは想像していた以上に美人だった。
きめ細やかで均質な透き通った白い肌、整った顔立ちに濃いえんじ色の髪。
一流の製作者によって生み出されたビスクドール、それは人ではありえないようなフォルムだった。
目を閉じたビスクドール。
セディの両目は常に閉じられている。
ただし、セディの所作は、まるで周囲がはっきりと見えているかのような優雅なもの。
そう、人ではありえない。
目が見えるようになったことで、俺は自分の持つ能力の一つを知った。
転生者が特別な能力を授かる。そういうお約束があることは俺も知っていた。学生たちとの雑談も意外なところで役立つものだ。
その記念すべき一つ目の能力というのは、“緑の民を見分けることができる”というものだ。
この世界にはあるという魔法に関係しているのかもしれないが、今は知りようがない。
この能力の名前さえわからない。
≪診る≫ことに意識を集中すると、セディの身体は頭のてっぺんから指の先まで淡く光って見える。
この淡い光が魔力だ。この世界では人でも魔力を持つ者は多く存在する。
ちなみにアレクセイも魔力を持っていた。
だから俺が≪診る≫とアレクセイも淡く光ってみえた。
この能力において“魔力を持つ人間”と“緑の民”を見分けるポイントは一つだ。
両者にははっきりとした違いがある。
セディには、胸の真ん中、人であれば左側に少し寄っている心臓の右隣りに光の塊があった。
“植物核”
“緑の民”とは膨大な魔力を宿した植物が人に姿を変えた存在だ。
光を抱く“植物核”の中心に意識を集中すると、植物だった頃の残滓が見える。残滓といってもそれは希薄で曖昧なものではなく明確なイメージとして俺に伝わってくる。
つまりこの能力では、単に人間と“緑の民”が区別できるだけでなく、その“緑の民”がどの種の植物から生まれた存在なのかもわかる。
外見からは人間にしか見えないセディは、人間ではなく植物だ。妖精、精霊という単語が頭によぎる。
三度の飯より植物が好き、植物原理主義者の俺は、言葉にならない感動に身を震わせた。
だって、母親が植物なのだ。
その感動はセディにおしっこと勘違いされお股を確認されてしまったのだが、それは余計な話だ。
この世界には“緑の民”の他に、同じく植物が動物の姿に変化した“緑獣”が存在する。
俺は植物から生まれる“緑の民”や“緑獣”という存在を知り大興奮だった。
植物研究者としての俺の本能がプニプニの手足を意味もなくばたつかせる。
もう一つわかったことがある。
そこに意味があるのかないのかはわからないが、セディは俺が前世で最後に見た植物だった。
俺に死因になった植物ともいえる。
俺がセディの子供としてこの世界に転生した理由はわからない。
それでも、ほんの僅かでも、そこに繋がりのようなものが見えた気がした。
父親アレクセイはプラントハンターで人間。
母親セディは“緑の民”。
この異世界において“狩る者”と“狩られる者”という組み合わせ。
二人の間にどのような過去があって今に至ったのかはわからない。
俺が成長したら、そのうち教えてもらえるのかもしれない。
というわけで、なんと俺は“人と植物のハーフ”ということになる。
俺のような存在が俺以外にも存在するのかについては、もちろんまだ知る由も無い。
たぶん唯一無二の存在ではないかと、そういう予感めいたものはある。
目を覚ました俺を抱え上げられた。
独り言のように、けれどはっきりとした口調でセディは言った。
「カル、あなたならきっと“緑の民”と人との架け橋になってくれるわ」
柔らかい感触に夢見心地の俺は条件反射のように口を動かす。
“緑の民”は植物だ。
それはきっとか弱い存在だろう。
それに比べ、人間は強い。
がさつであり、傲慢であり、貪欲であり、残虐であり、個人であればまだマシだが、集団になると手が付けられない。
前世の俺は人間が持つ醜い欲のために殺された。
“人と緑の民の架け橋に”
セディの言葉は俺の中で自動的に変換される。
“緑の民のために全力を尽くせ”