間章 リンの祈り
ちょうど半年が経った。
目が覚めると同時に私はそんなことを思う。
小さな欠伸を一つ。はだけた浴衣をそのままに布団から這い出る。
自室の畳を踏む感触、襖の隙間から差し込む光、漂う霊魂の雰囲気。何気ない”獣”の日常であるはずなのに私の心はまるで大穴でも空いてしまったかのように空虚だ。
半年前の今日、ある”人間”の青年が”獣”である私のためにたった一人で戦った。
彼のおかげで私は今こうして獣たちの住まう土地へと戻り、こうして生き長らえることが出来ているわけだが、肝心の彼はここにはいない。
自室の襖を開ける。途端に冬の冷たい空気が部屋の中へと流れ込んだ。
目の前には細い渓流が流れ、葉の落ちた木々が静かに佇む。
夜の間に雪でも降ったのか、一面の雪景色が広がっている。
私は縁側に腰掛けて、どんよりと曇った空を見上げた。
――必ずまた会えるさ。
以前、彼が私に言った言葉を思い出す。忘れられないその声を思い出すのはこれで何度目だろうか。
「……どうして」
分厚い雲に覆われた空に呟いてみる。
瞳の奥が熱い。流れ落ちた雫が一粒、浴衣に染みを作る。
ふと誰かが縁側の木板を踏みしめて歩く音がして、それがだんだんと近づいてくる。
音の方へと視線を向けると、丁度廊下を曲がって縁側に出てきた兄と目があった。
兄妹であるから瞳も髪も色は同じ。昔は短かったその黒髪を、最近では長く伸ばし、黄玉色の瞳は私よりも切れ長で、頭には長く尖った黒い獣耳と、臀部には私と同じ橙黄色の尾。
代々”獣”たちが受け継いできた技法で作られた独特の袴を見にまとった兄は切れ長の瞳を僅かに見開いて、
「また、泣いているのか。リン」
「……ごめんなさい」
「いちいち謝るな。悪い癖だ」
私よりも五十歳上の兄は溜め息混じりに言う。五十年というのはかなりの差に思えるかもしれないが、何百年という寿命を持つ“獣”にとっては珍しくもない。
「でも、私……」
「お前があの人間の男に入れ込んでいたのは私も知っている。だが、起きてしまったことは変えられない。その男が合流地点とやらに来なかったのが答えではないのか?」
「……違う」
目の奥が更に熱くなる。溢れて来ようとする涙を唇を噛んでなんとか堪えた。
「ロイさんは、ロイさんは……」
「生きていると?」
「……」
言うはずだった肯定の言葉はなぜか喉の奥に引っかかったまま出てこない。
兄は長く息をついて、
「お前がそれを信じ続けるのは構わない。が、お前をここまで送り届けた人間たち、彼らもお前を心配している。あまり苦労をかけさせるな」
「……はい」
それから兄は自身が羽織っていた茶羽織を私の肩に掛ける。
「冬場の朝は冷えるぞ」
私は肩に掛けられた兄の香りが漂うそれを少しだけ深く羽織り直す。
これも多分、兄なりの気遣いなのだろうとはすぐに察しがついた。
兄は昔から無愛想で、それが原因で周りを怯えさせてしまうこともあるのだけれど、根は優しく、そして私はそれをよく知っていた。
「む、これか……」
後方で兄の声。ゆっくりと首を巡らして襖が空いたままの自分の部屋を見る。
すると兄が勝手に部屋に入り、私の私物を漁っている姿が目に入った。
「ちょ、お兄様っ!」
兄の手にしていた折り畳まれた手拭いを慌てて取り返す。
「これは駄目です!」
「だが、それから奇妙な霊魂の気配を感じる」
兄が一歩こちらに寄った。
「リン、その手拭いの中には何が入っている?」
「えっと、その、駄目ったら駄目です!早くここから出て行ってくださいっ!」
無理矢理に兄の背を押して部屋の外へと追いやる。
「おい、リン……」
ぴしゃり、と兄が言い終える前に襖を閉じた。
自室の畳に膝をついて一息、ゆっくりと手拭いを開く。
中には鈍く金属光沢を放つ首飾り。
細い金属製のチェーンのその先に銀色の翼を模した流線型の飾りの付いたそれは以前、第一○三番天蓋区画で彼が買ってくれた物だ。
もともと対になっており、互いに強い繋がりが感じられていた首飾りだが、今は互いの距離のせいか霊魂たちの引き合う力は微弱。
今も彼がこの首飾りを持ち歩いていると信じて対になっているその片方から毎日祈りを捧げてはいるのだけれど、霊魂たちの引き合うその力に変化はない。
「ロイさん……」
翼の飾りを包み込むように手を合わせる。
たとえ彼が気づかないとしても、この祈りが少しでも彼の助けになればと、そう願う。
周りに漂う霊魂たちが、私の祈りに反応して輝き、その輝きを増してゆく。
「どうか……ご無事で……」




