二人の勇者は密かに嗤う
第一◯三番天蓋区画メネア連邦軍統括司令オフィスにて。
一頻りの書類仕事を終えて、シグルド・レイハードは長時間のデスクワークで疲弊した両目の目頭を押さえつつ息を吐いた。
こういう仕事は性に合わないなと思う。
俺のような人間にはこんな書類仕事よりも荒事の方が向いていると今までに何度思ったことか。
「そういえば、今日あいつらはデートしてるんだったか」
窓の外に広がる偽りの快晴を眺め、にやりと笑う。
珍しく転がってきた良い話のネタだ。後でたっぷりと感想を聞いてやろう。
“上”からの通信連絡文が届いたのはそんな時だった。
電子音とともにアンティークのデスクの上に画面型のホログラムが展開。
また厄介事を押し付けられるのではなかろうかと思った俺は溜め息をついてから自分の指紋を読み込ませ、記録文を開く。
思わず体が強張った。
添付されていたのは一枚の画像。
艶のある黒髪を靡かせて走る少女の後ろ姿。
それだけなら何も問題はない。けれどその少女は”人間”に無いものを持っていた。
頭から真っ直ぐ伸びた尖った形の耳と臀部から伸びる橙黄色の毛に覆われた尾。それらはまごう事無き”獣”の特徴である。
俺は写真とともに添えられた文を目で追う。
《第一◯三番天蓋区画軍事基地内にて”獣”の姿を確認。おそらく斥候と思われる。直ちに捕縛、拘束することを要求する》
「……これは、まずいな」
自然と漏れ出たそんな言葉が、自分以外に誰もいないオフィスに小さく響く。
流れるようにホログラムの画面をスクロール、上層部からの命令の続きが表示される。
《なお、一週間後までに目標を捕えられない、または、音信不通の場合は治安維持機甲隊の派遣も検討される》
治安維持機甲隊、上層部の直属であるそれらの隊は通常の任務で動くことは少なく、テロ攻撃などの不測の事態や今回のように後々危険を及ぼすと上層部が判断した場合でのみ行動する。
また、彼らは任務遂行のためなら手段を選ばないことで有名であり、もし派遣されれば”保護”扱いとしている彼女もすぐに捉えられてしまうことだろう。
――治安維持機甲隊が派遣されれば何処に隠れていようが炙り出される。
知れずと奥歯を噛み締めていた。
いったい誰が。頭の片隅をそんな疑問が過ぎる。
基地の防犯カメラの映像は複数回に渡って念入りにチェックし、必要があれば修正や加工を加えた上で保存しているし、彼女に割り当てた部屋は特殊な加工ガラスを使用する事で外から中の様子を確認できないようになっている。
となれば考えられるのは一つだ。思わず舌打ちする。
「誰だか知らねぇがやってくれるじゃねぇか」
*
一日中天蓋区画の中を歩き回って重く感じる足を引きずるように前に押し出して歩を進める。
たった今、僕はリンとともに出発点である軍基地に戻り基地へ入るための手続きと身体検査を受け終えたところだ。
スクリーンの空は先程完全に暗くなり、今は空一面にわざとらしく星が輝いている。
「今日は楽しめた?」
基地の中でも最も巨大な施設である総合棟。保護扱いである僕たちの部屋が設けられているその建物に向けてゆっくりと歩きつつ僕はリンに言った。
「はい、とても……!」
微笑むリン。その控えめな胸元には昼間に購入したネックレスが鈍く輝く。
「結局、君はそれしか買わなかったね」
翼を模してあるというその小さな飾りを横目に言う。
開始直後はお互いの無計画が影響してふらふらと彷徨っていただけだった今回の外出も、途中、ミレイナからメールでアドバイスを受けてからは、路面電車に乗車しての移動したり、天蓋区画内で最も大きいショッピングモールに立ち寄ったりとそれなりに充実したものになったと思う。
けれども彼女は自分の手元に残るものをネックレス以外何一つ買わなかった。
彼女は首元のそれに目を向けて、そして掌で掬うようにそれを持ち上げる。
チェーンの擦れ合う微かな音がした。
「いいんです。私はこれがとても気に入りましたから」
「……そうか」
「ロイさんは……」
ちらりとこちらを窺う黄玉色の瞳。
「ロイさんは楽しかったですか?」
「……うん、十分楽しめたさ」
「今、ちょっと考えましたね?」
彼女の眉が怪訝そうによる。
「いや、そんなことないって」
「それならいいんですけど」
彼女の表情が綻ぶ。
そして僕たちはちょうど総合棟の正面口へと差し掛かる。
防弾ガラス製のスライドドアの傍で静かに佇む女性士官が一人、目に入った。
襟元に輝く階級章は少佐のもの。
――この人、確か……。
僕の脳裏にシグルドのオフィスで秘書として働いていた彼女の姿が思い出される。
「ロイ・グロードベント元上級大尉」
凛とした声。僕は自然と足を止める。
「レイハード中将がお待ちです。至急、統括司令オフィスへ」
「……わかった」
僕の身体が女性士官の表情から何かを察し、僅かに力む。
一呼吸おいてリンに向き直った。
「リン、先に部屋に戻ってて。僕は少し話をしてくる」
「え、あ、はい。分かりました。お気をつけて」
「気をつけてって、大袈裟だな。大丈夫だよ」
僕は彼女に軽く手を振って別れた。
この時の僕は多分、これから知らされることの内容なんて全く想像できていなかったのだと思う。
そして総合棟の上層階に位置する統括司令オフィス。
事の次第を聞かされた僕は両の拳を強く握って、奥歯をきつく噛み締めて、全身を襲う震えの波を必死に抑えていた。
目の前には展開されたホログラム、そしてアンティークの椅子に深く腰かけたまま険しい表情でこちらを見つめるシグルド。
僕は上層部から下されたというその命令の事実を知った。
全身を襲う震えはきっと行き場を無くした憎悪なのだとすぐに分かった。
“人間”とはやはり異分子の一つも受け入れられない哀れな生き物なのだ。
人種、文化、性別、さまざまな差別の果てに”獣”。
“人間”にとって”獣”とは対等ではなく家畜。故に明確な力関係が存在しなければならない。
そんな考えが今も消えることなく残っているのだ。
「……シグルド。捕縛された獣はどうなる?」
「馬鹿なことを聞くな。知ってんだろ?」
「…………」
確かに知っている。軍の規定では獣が捕縛された場合、尋問の後処刑することとなっているが実際は違う。
捕縛された獣たちはみな研究資料として様々な実験の後に使い潰されて死んでゆく。
思わず口を継いで出そうになった舌打ちを呑み込む。
「今、俺たちも対抗策を講じている。大丈夫、いざとなりゃあ……」
「止めろ」
「まだ何も言ってねぇって」
「お前の考えてることは分かる」
シグルドの黒眼を見つめる。その視線が僅かに斜め下に逸れた。
「分かってるだろう。リンへ協力すれば死罪は免れない」
「それでも俺は……」
「馬鹿を言うな。昔のお前ならそれでよかったかもしれない。けど今は違う。お前一人の判断でお前の部下も全員罪に問われることになるんだぞ」
「……じゃあどうするってんだ?シラを切り通すのは無理だぜ。治安維持機甲隊が――」
シグルドが不自然に言葉を切る。
しばしの沈黙。
そしてゆっくりと口を開いた。
「お前、まさか一人でやるつもりか?」
僕は無言のまま眼差しだけを向ける。
「無理だ。機甲隊だぞ……!」
「無理難題には慣れてるだろう?」
僕は笑った。いや、嗤った。
相手はその黒曜の瞳を見開いて、それから同じように嗤う。
「全く、お前は跳んだ馬鹿野郎だ。明けの明星」
「パイロットだった頃のお前ほどじゃないさ、竜殺し」
それから、ふ、と嗤うことをやめてシグルドはこちらを見つめる。
そしていつもよりも低い、統括司令としての声と口調で言う。
「分かった。最低限のバックアップはこちらで行おう」