新たな歪み
僕は再び上下左右の区別もつかない真っ白な空間に居た。
以前にも見た夢の中の空間。
居るのはまたしても僕と彼の二人だけ。
――死にぞこなったな。ロイ。
目の前に立つ彼、レイが嗤った。
ああ、と僕は嘆息をこぼす。
結局こうだ。《突きの襲撃事件》の時も今回も……。
――僕は生きていてはいけないのに。
――じゃあどうする?自殺でも決め込むか?
――僕がそうしようとすると君は邪魔をするだろう?
――あたりめぇだろ。オレはまだ死ぬわけにはいかねぇ。
唇の端を釣り上げたままレイはこちらを見据える。
――オレは生きて、他人の生き血を啜ってでも生きて、必ず手に入れてやる。嫌とは言わせねぇ。
"何を"と問い返すその前に僕の意識は覚醒してしまった。
僕はゆっくりと瞼を開ける。
目に入ってきたのは知らない天井。備え付けられた照明が白系統の色の光で見知らぬ部屋を照らしている。
周りを見渡してみても寂しい部屋で、空の本棚と小さなテレビ、そして今自分が横になっているベッド以外の家具が見当たらない。
僕はぐるりと部屋を見回してそのまま流れるように視線を下へと向けた。
上半身に衣類は身に着けておらず、ただ肩部の傷を覆うように包帯が巻き付けてある。
「……ん?」
僕は視線を少しだけ横へとずらす。
一人の少年が、
いや、正確には少年に化けた“獣”の少女が、ベッドの側面に身を預け、静かに寝息を立てている。
「無理して付き添う必要無いのに……」
自然とそんな言葉が口からこぼれ出た。
唐突に部屋の電子ロックの開錠音が鳴り、僕は部屋の扉の方へと目を向ける。
続いてスライドドアが開く音。
軍靴の踵を微かに鳴らして入ってきた人物は僕にとって馴染み深い人だった。
彼は僕と目が合うと僅かに片眉を上げる。
「なんだ、起きてやがったか。せっかくお前の面に落書きでもしてやろうと思って来てやったってのに……」
残念そうに、そしてわざとらしく肩を落としたその男が手にした油性マーカーを軍服の胸ポケットに刺す。その襟に輝く階級章は間違いなく将官クラスのものだ。
「竜殺し……」
彼の名を呼ぶ。男はにやりと笑った。
「よう、明けの明星」
小さくため息。
「……なんでお前がここにいる?」
「そりゃお前、ここは俺の管轄だからな」
「ということはここは第一〇三番天蓋区画なのか」
「ご名答。まぁ、捜索隊がお前たちを発見したのはお前が気を失った後だったらしいがな」
シグルドは再びマーカーを手に未だ眠ったままのカトルにその手を伸ばす。
「おい、よせ……ッ!」
シグルドの腕を掴んで止めたはいいものの急に身を起こしたせいか肩口に激しい痛みがはしる。
思わず肩を抑えた僕にシグルドは哀れみの視線を向けた。
「阿保な奴だ。少しは自分の身を案じてみろ」
持っていたマーカーをくるりと回すとキャップを閉めて再び胸ポケットへ。
「心配しなくても女の顔に落書きなんてしねぇよ」
「そうは言っても、お前は平気でそういうことをやるようなやつだから焦りもするだろう」
言い終えてはっとなる。
「おい、待て。今、女の顔って言わなかった?」
「ああ、そうだな」
「どこで知った?」
僕の言葉に彼は薄く笑った。
昔から誤魔化す前にする彼の癖だ。僕は目を細める。
「答えろ」
「おお、怖いね。俺は彼女本人から直接聞いた。安心しろ、彼女のことを知っているのは捜索隊の隊員と極一部の士官だけだ」
「本当なんだろうな?」
シグルドのわざとらしい嘆息が返る。
「本当さ。まったく、この女も大概だったが、お前もお前だな。そんなに睨みつけなくたっていいだろう?」
軽く額を弾かれる。反射的に微かに痛んだ額へと手を伸ばした。
「べ、別に僕は睨みつけてなんて……」
「目が本気だった」
ふっ、とシグルドの口から軽い笑みが溢れ、目が幾分か細くなる。
僕は彼のこの表情をよく知っていた。
人を揶揄う時の目だ。
「ぶっちゃけ好きなんだろ?彼女のこと」
「なっ……馬鹿言え、彼女は獣だぞ?」
「獣だから愛せないってか?お前らしくもない」
「……ぐ」
勝ち誇ったような彼の微笑み。腹立たしくはあるが、何も言い返すことができない。
「ほら、素直に好きだって言っちまえ。俺がそれとなく脈ありだって伝えてやる」
「必要ない。というか、おっさんは恋愛話とは無縁の筈だろう?」
「何言ってやがる。今でも心は現役だぞ?」
誇らしげに笑って見せるシグルド。
「いい歳こいて、恥ずかしい奴だな」
僕は口からふっ、と笑いをこぼした。
それこそが彼の罠であるとも知らずに……。
「やっと笑ったな」
「……どういう意味?」
「いや、お前が死人さながらの表情をしてたからちゃんと生きてるか確かめただけさ」
ここでやっと僕はシグルドに一杯食わされたことに気づくのである。
「……余計なことをして」
小さく舌打ち。笑って流される。
それからシグルドは先程の笑顔から一転して真顔になり、その切れ長の瞳をこちらに向ける。
「お前、自分が死んだ方がいいって言ったんだってな」
彼の視線が僅かにカトルの方へと動く。その動作から彼女からの情報であると察しがついた。
「だってそうだろ。僕は何人、いや、何十人って人を殺してきた。命をもって償うのは当然のことだ」
「償いか。確かにそう考えることもできる。だが、お前に死んでほしくないと願ってる奴らのことは、どうする?その思いを捻じ曲げてでも死にたいか?」
「死んでほしくないと願っている人たち、はたしてそんな人がいるのか?」
僕は嗤った。自分を。
「逆にいないと思ってんのか?」
彼はため息混じりに言う。
「いや、いるかもしれない。けれど、そう思ってくれている人は多分、僕が人を殺したということを知らない。その事実を知ればきっと……」
「はぁ、話にならねぇ。お前のネガティブ思考は相変わらずだな」
シグルドは態とらしく肩を竦めた。
「俺は自分がこんなことを言うガラじゃないってのは分かってるが言わせてもらう。もう一度よく考えろ」
「……」
「おい、軍人だった頃の威勢のいい返事はどうした?」
「……わ、わかったよ」
渋々答える。
一泊置いてシグルドが踵を返した。
「んじゃ、俺は仕事があるんでな。失礼するぜ」
スライドドアの開く音、続いて閉まる音。そして最後に電子ロックの施錠音が鳴り、再び部屋が静寂に包まれる。
「……シグルド、君は僕に死ぬなって言うのか」
返る声はない。
僕は思った。人を殺した罪を背負い、それでもなお生き続けなければならないというのは一種の拷問だ。
「……僕は、どうしたらいいんだよ」
何故か震え出した右腕。拳を握る。
「ロイさん……?」
飛び込むように耳に入ってきた彼女の声に僕は弾かれたように顔を上げた。
見開かれた黄玉色の瞳と目が合う。
途端にその身体からは水蒸気のような、煙のようなものが立ち始める。
白い霧は瞬く間に彼の身体を包み、そして晴れる。
目の前にはここ最近で見慣れた黒髪の少女の姿。
「リン、術が……」
無言のままの彼女の瞳に僅かに涙が滲む。
「なんで、泣くの?」
「……だって」
とても小さな声だった。
「だって、ロイさんがいきなり倒れて、呼びかけても答えてくれなくて、本当にもう助からないかもしれないって、そう、思ってしまって……」
「それは、君が涙をこぼす理由にはならないよ。実際、僕はあそこで果ててもいいと思ってたんだから……」
何か言いたげに口を開いた彼女、けれどすぐに口を閉じる。
「僕は、僕は死んで当然の人間だ」
そして僕は自分が生きていた事実を素直に喜んでくれていた人に対して冷たく言い放った。
それが一種の地雷であるとも知らずに……。
右頬に刺さるような痛みを感じたのはその直後。
僕は一泊遅れて自分が彼女の平手打ちを受けたことを悟る。
「……どうして」
絞り出すように、しかし強い口調で彼女は言った。
「どうしてそんなこと平然と言えるんですか!」
打たれた直後のおぼろげな思考でも、彼女が怒っていることだけは分かった。
獣の特徴たるその尾がピンと伸び、毛が立っているのだ。
それは彼女の怒りを証明するには十分すぎるものであり、僕は唖然としてしまった。
今まで一度も怒りを表に出さなかった彼女が珍しく怒っている。
それを感じ取ることは出来ても、咄嗟に対応できないのが人間である。
僕もその例に漏れず何も言葉を返せぬまま、ただひりひりと痛む頬に手を伸ばした。
「……自分は死んで当然だとか、簡単にそんなこと言わないでください!自分が死んでも悲しむ人はいないなんて貴方は本当にそう思っているんですか?!」
彼女は両の拳をきつく握り、怒りに肩を震わせながら続ける。
「もしそうならロイさんはとんでもない分からず屋です。この際なのではっきり言いますが、悲しむ人がいないなんて嘘です!」
「……じゃあ」
ぽつりと頭に浮かんだ言葉が流れるように口を注いで出た。
「じゃあ、言ってみなよ!僕が死んで一体誰が悲しむって言うんだ!」
つい強気で言ってしまった。けれどそう思った時には言葉は既に発せられた後で、発した言葉を撤回することなどできない。
気付いた時には彼女の目尻に溜まっていた涙が大粒の雫となって頬を伝う。
「……ろ、ロイさんの馬鹿ッ!もう知りません!」
彼女が駆け出す。思わず伸ばした手は虚しく空を掴んだ。
ドアのスライド音と電子ロックの施錠音が僕一人だけになった部屋に酷く寂しく響いた。
*
ところで第一〇三番天蓋区画に一人の士官がいる。
彼はどこにでもいるような情報通信部の管理担当士官であるが、一つだけ忘れられない過去を持っていた。
彼は両親と兄、そして大切な幼馴染を“獣”との戦闘で失っていた。
そんな彼が軍の施設内で、何気ない日常の一面で、獣と遭遇したとすれば何を思うだろうか。
例えばそう、職場の廊下で泣きながら走り去る“獣”の雌性体とすれ違ったとすれば……。
彼は一瞬硬直し、驚嘆し、走り去るその後姿をもう一度確かめ、それからきつく歯噛みし、拳を握り占めるのだ。
彼は両親を、兄を、幼馴染を失った日の記憶を再び脳内で鮮明に描き、再度復讐を胸に誓うのだ。
そして彼は歩き出す。
向かうのは通信室。今、自分の目ではっきりと見た物を上に報告するために……。




