真の再会
山女という魚を初めて食べた。
軽く焦げ目の付いた外側の皮はパリパリとしていて香ばしく、それでいて中身はふっくらと柔らかい。
僕が以前食べていた人工的な合成食とは比較対象にならないくらいに美味な代物だった。
「あの、どうでしたか?山女のお味は……?」
消えかかった焚き火を挟んで向かい側の小さな石に腰を下ろしている少女がぴくりと耳を揺らしながら尋ねる。
ちなみに今の彼女は制服のズボンに上は薄い黒のアンダーシャツ一枚というラフを通り越して雑な格好。しかし、裸でいられるよりは遥かにましだと思い、あえて何も言わないことに決めた。
「美味かったよ」
コミュニケーション能力の高い人ならここでもっと目の前の少女が喜ぶような答え方をするのだと思う。が、僕には素直な感想を言うのが精一杯であった。
彼女は何も答えなかったけれども代わりに満足そうな微笑みと忙しなく左右に揺れる尾がその答えとなって返ってくる。
その後、少女は戦闘用ナイフで黄色い柑橘類の果実の皮に切り込みを入れ始めた。
「それは?」
「これは、えっと、近くの木に生っていたものを採って来ただけなので何とも……多分ですが文旦かそれに近いものの類ではないかと思います」
「採って来ただけって……毒性のある果実だったらどうするのさ」
「安心してください」
少女が笑う。どこか自信に満ちた微笑みだった。
「この実は食べられます。私の感がそう言ってるんです」
彼女が切れ込みに指を入れ、その黄色く厚みのある皮を剥いた。
広がる柑橘系の甘酸っぱい香り。
少女は果実の剝き実の一つを手に取って、
「獣はこのまま食べるのですけど、ロイさんは初めてのようなので薄皮は剥いて食べた方がよいと思います」
そう言って丁寧に薄皮を取り去り、残った果実を差し出した。
「少し、酸味が強いかもしれませんが、壊血病の予防と思ってください」
壊血病。確か、ビタミンCの不足によって起こる皮膚や粘膜の出血を伴う病気だったか。
僕は自分の手のひらの上で光を受け、黄金色に輝く実と少女の顔を交互に見た。
「う、やっぱり私の感を疑ってるんですね」
みるみるうちに垂れていく獣耳。それを見て僕は少し慌てた。
「ち、違うよっ!そういうわけじゃなくて、ただ初めて食べるものだったから……」
「……本当に?」
強く頷く。
「では、はいどうぞ。口、開けてください」
彼女は自分の持っていた果実を摘まみ上げて僕の方へ、
「い、いいよ。自分で食べれる」
「そんなこと言わないで、はい、あーんってしてください」
いい年してそんな恥ずかしいことできるはずがない。内心ではそう思っていた。
けれども僕は少女の悪戯笑顔を前にどうしても自分を貫くことができなくて……。
結局僕はまたしても彼女に負けた。
途端に広がる酸味、その中に確かに甘味もある。
「どうですか?」
「……美味いな」
その言葉を少女は待っていたようだった。
柔らかく微笑んで、橙黄色の尾を左右に振る。
そして少女は薄皮を取り去ることなく果実を口の中に放り込み、美味しそうな唸り声を上げる。
両の足をぱたぱたと動かしつつ果実を頬張る彼女を見ながら僕は考えていた。
目の前の少女はやはり、自分が三十年以上前に出会った”彼女”と何か関係があるのだろうか。
三十年前の彼女はまだ幼かったがなんとなく目の前の少女に似ている気もする。
当の本人でなくてもその娘や親戚という可能性は十分にあるのではないか。
「ロイさん?」
こちらの顔を覗き込むようにして少女が言った。
首を傾げる際に頭の上の獣耳が微かに動く姿が愛らしくて思わず微笑む。
「どうしました?私の顔に何かついてますか?」
言いながら自分の頰に触れる少女。
僕は横に首を振った。
「いいや、少し考え事をしてただけさ」
「そう、ですか……」
小さく首を傾げたままでちらちらとこちらの様子を窺う少女。
大方、僕が何を思っていたのか知りたいが、それを問うのは忍びないというところであろう。
「昔……」
少しだけ迷ってから口を開いた。
少女が驚いたように顔を上げ、垂れ気味だった耳がぴんと立つ。
「もう三十年以上も前の事になるけど、獣の女の子を助けたことがある」
それから彼女を助けた時の事を話した。
まだ幼い獣の少女が機神に襲われているのを見つけたこと。
その後一度だけ彼女の”秘密の場所”に連れて行ってもらったこと。
「君を見てると思い出すんだ。その助けた少女の事。どことなく雰囲気も似てるしさ」
目の前の少女は黙って話を聞いていた。
正確には何か考え事でもしているようで話を聞いていたのかすら定かではなかった。
「どうした?」
今度は僕が彼女の顔を覗き込む。
僅かに獣耳が揺れた。
「ロイさん。貴方は今、何歳なのですか?」
「え?」
その問いに僕は一瞬固まった。
すぐにまさかなと思う。脳裏に過った考えは短く吐いた息と共に切り捨てた。
「十七歳だけど?」
「……では、少し質問を変えます。ロイさんは私が何歳ぐらいに見えますか?」
僕は目の前の少女を見た。
艶のある肌と髪、どこか幼さを感じさせる円らで大きな黄玉の瞳、未だ成長過程にあると思われる身体の起伏。
少しばかり考えて僕は答える。
「十四、五歳?」
くすりと少女が笑う。
「残念、正解は三十八歳です」
「…………へ?」
僕は唖然とした。
「今、なんて?」
「私、こう見えても三十八歳なんです。……本当ですよ?」
彼女は微笑みを崩さずに言う。
僅かに間を置いて僕の口からふっと笑いが溢れた。
そのまま声を上げて笑う。
一度口から出てしまった笑いを堪えることは難しかった。
「そ、そこまで笑うことないじゃないですかぁ」
「い、いやぁ、ごめんごめん。僕の中での三十八歳はもっと大人びた人だと思ってたからついね」
「ロイさん、それ、私のこと子供だって言ってるように聞こえます……」
「ち、違うよ。そんなことないって……多分」
「た、たぶっ……うぅ、ロイさんは意地悪です」
少女は獣耳をだらりと垂らして項垂れてしまう。
聞こえない程度の小さな声で呟いただけのはずだったのだが流石は”獣”、五感が人間とは比べものにならないと言われている彼らの聴力は侮れない。
「ご、ごめん。今のはその、僕が悪かったって」
しばらく少女は何も答えなかった。
小さく嘆息。僕は必死にどうしたものかと考える。
「……ロイ・グロードベント」
ややあって僕の名を呼んだ彼女の声は今までと重みが違った。
「メネア連邦対機神特殊先鋭部隊所属。階級は上級大尉」
彼女が小さく発した言葉を聞いて僕は息を呑む。
僕が軍人として働いていたのは三十年以上も前の話だ。
しかもメネア連邦対機神特殊先鋭部隊はその名の通り対機神専用の部隊であり、”獣”との戦いには一度も参戦していない。
それに加えて彼女は僕の軍在籍時の階級まで答えてみせた。元軍所属の人間ならまだしも”獣”である彼女が僕の階級を答えられるはずがない。
つまり、彼女が僕の素性を言うことが出来る理由はただ一つだけ。
「……それを、どこで知ったんだ?」
「貴方に、聞いたんです。私が五つの時に」
ああ、と心の中に腑に落ちる感覚を覚える。
僕は三十年間長期治癒カプセルでの治療を受けた後、一年を衰えた筋肉のリハビリにあて、さらに二年を士官学校で過ごしている。彼女が五歳の時に僕と出会っているのならば、その年齢は妥当だ。
僕はやっと気づいた。
彼女が、彼女こそが僕が以前助けた”獣”の少女であるということを……。
「思い出して、くれましたか?」
力強く頷く。
こちらに向けられた黄玉の瞳。それを負けじと見つめ返す。
「君だったんだね。リン」
ゆっくりと噛み締めるように彼女の名を呼んだ。
僕が心の底から会いたいと願っていた人が目の前で優しく微笑む。
「お久しぶりです。ロイさん」
*
聞きたいことがいくつかあるのだと目の前に座る彼は言った。
私は少し考えて、それからゆっくりと頷く。
「分かりました。答えられる質問には何でも答えます」
「それじゃあまず一つ、リン、君が三十八歳っていうのは、その……やっぱり腑に落ちないっていうか、違和感があるというか……」
申し訳なさそうに彼は言った。
くすりと口から笑いが溢れる。
「それ、ロイさんが言います?」
彼が笑う。傍目にも明らかな苦笑いだった。
「僕は、仕事で重傷を負っちゃってさ。三十年間長期治癒カプセルに入っていたからその間歳を取らなかったってだけ……あ、もしかしてリンも?」
「い、いえ、私は、治癒カプセルに入っていたわけではなくて、えーっと」
少しだけ迷った。彼が納得できるだけの説明を自分が出来るか分からなかったからだ。
生温い風が私の頰を撫で、そして消える。
悪戯だ。とすぐに気づいた。自然の風は吹き抜けることはあっても消える事などない。
先程から私たちの会話を面白がって周りに漂う霊魂たちが増えてきている。
今の風は霊魂たちが私を急かそうとして吹かせたに違いない。
小さく息を吸う。正直に話すことを決めた。
「……”獣”が”人間”に比べて長命だから、という説明で納得していただけますか?」
「えっと、というと?」
「人間は百年と少ししか生きられないと聞きます。けれど獣は違うんです。例えば私のように狐の特徴を持つ者は中型獣種ですから三百年、いえ、四百年は平気で生きることができるんです」
私は意識して自分の耳と尻尾を動かして見せる。
彼は口を開けてぽかんとしていた。
それを見た霊魂たちが笑うのが聞こえる。
「……や、やっぱり、信じられません、よね。すみません」
「どうして謝る?君が僕に嘘をつく理由は無い」
彼の言葉にぴょこんと無意識に頭の獣耳が跳ねてしまった。
「人間は長く獣と接してこなかったからね。分かってることは数えるほどしかないんだ。何を言われても不思議じゃない。それに今君が僕に嘘を言って君が得するわけじゃないだろ?」
彼は少し考えて、
「すぐ答えられなかったのは驚いたのとリンがもし人間だったら何歳ぐらいなのかなって思っただけ」
「私が人間だったら、ですか?」
「ん、ああ、気にしなくていいよ。僕の勝手な妄想だ」
彼は再び苦笑した。
確かに、私がもし人間だったなら何歳ぐらいになるのだろうか。
今まで考えたこともなかったので分からない。
不意に兄を含め、私の家族と呼べる者たちが未だに私のことを子供扱いしていることを思い出した。
“人間”に比べて長命な”獣”。その大人たる基準は設けられていない。
三十年以上生きてきて、私もとっくに成体として成長できたと思っていたのだけど……。
もしかするとそれはただの自己満足に過ぎなかったのかもしれない。
そう思うとどうしてか胸の奥から不快感が湧いてきて……。
「おーい、リン?」
目の前で手を振られ、はっと我に返る。
「え、あ、はい。な、何でしょう?」
「もしかして、怒ってる?」
「怒ってません……」
「いや、怒ってるよね……?」
「怒ってない、です」
言って、視線を逸らす。いや、目を背ける気は無かったのだけれど身体が勝手に動いてしまった。
焦った様子の彼が頭を下げる。
「ご、ごめん。僕が変なこと聞いたから」
「い、いえ、そうではなくてですね。ごめんなさい。私、勝手に……」
訪れる沈黙。
お互い腫れ物を扱うようにちらちらと相手の様子を伺うだけの時間が過ぎる。
「あのさ……」
「あの……」
二人の声が重なる。私も、そして目の前にいる彼もこの沈黙を終わらせようと必死だったのだろう。
「ろ、ロイさん。お先にどうぞ」
「いや、君からでいいよ」
お互いに遠慮し、譲り合う。
結局返す言葉を見出せずに黙ってしまった私を見て、彼は一度困ったように頰を掻いてから言った。
「もう一つ質問してもいいかな?」
「か、構いません」
「君は、どうやってカトルの姿をしていたんだ?変装というわけじゃなさそうだったし……」
気まずそうに述べるロイ。ちらりと視線を向けると丁度目が合った。
お互いに慌てて視線を逸らす。
「あ、いや、答えにくいなら無理しなくてもいいんだけど……」
「いえ、だ、大丈夫です。……えっと化けの秘術についてですね」
「……術?」
彼が首を傾げた。
集まっている霊魂たちがこれまた面白がって姿を現そうとする。
普段は見えない彼らは時に自分の意思で姿を見せることがあるのだ。
私が幼い頃読んでいた人間の書物にはこれを精霊や妖精と記していた。
――み、皆さん、待ってください。今姿を見せては驚かせてしまいますっ!
必死に彼らに言い聞かせる。
通じてはいるだろうが、彼らが聞くはずがない。
何せ霊魂という存在は大の悪戯好きなのだから……。
「ん?」
葉ずれの音が絶えず聞こえる森の中にぽつりと一つ小さな光の粒が姿を現し、彼がそれに気づいた。
ふわふわと宙を漂うそれは一つまた一つと数を増してゆく。
思わず頭を抱える。
「へぇ、不思議なこともあるもんだ」
もっと派手に驚くものかと思っていたけれど彼の反応は意外にもあっさりしていた。
「えっと、あの、驚かないのですか?」
「リンの言うこととそれに伴う珍事にいちいち驚いていたら身がもたない気がする」
彼が近くを漂う小さな光球に指先で触れる。
クルルッ、という小さな音。
それが霊魂の笑い声であると彼も気づいたようで微笑みを返していた。
「あの、ロイさん。その子たちをあまり甘やかさないでくださいね。ほっとくととことん調子に乗るんですから」
「その子……この光の粒たちは生き物なのか?」
「いえ、彼らは自身の死を認識できていない死者の魂、私たちは霊魂と呼んでいます。普段は見えないんですけど、ロイさんに興味があるみたいですね」
私も近づいてきた霊魂に指先で触れる。
ルルッ、という笑い声とともに光球が微かに振動した。
「……ロイさん。見ていてください」
私は立ち上がり、両の掌を祈るように合わせる。
そして頭の中でカトル・デュランという少年をイメージする。
このイメージ象が鮮明であればあるほど術はより繊細で強固なものとなるのだ。
兄の友人であったというその少年の姿は幼い頃から秘術の練習で使用していたものであり、比較的化けやすい。
霊魂たちが私の周りに集まり、一瞬の間に私の姿を少年へと変えた。
彼の翠玉色の瞳が見開かれる。
「つまりこういうことなんですけど、理解できますかね?」
あえて〈変声の秘術〉は使わずに言った。
「……驚いたな。リンはその霊魂の力を使って化けているのか?」
「うーん。少し違いますね。私たちは霊魂に力を貸していただいている側なんです。すべて霊魂の機嫌次第ですので時々化けれなかったり、対価を要求されたりします」
「へぇ、都合よく化けれるわけじゃないんだ」
顎に手をあてがい興味深そうに頷く彼。
「ええ、あと術者本人の感情にも流されやすいので、化けた状態の維持は結構大変です……」
苦笑しつつ術を解く。拘束を解かれた霊魂たちの一部が彼の方へ漂っていくのが窺える。
どうやら彼も私と同じく霊魂に好かれる体質のようだ。
――でも、ロイさん自身は自分が気に入られてるなんて思いもしていないのでしょうね。
微笑する。少しして彼の視線が自分の胸部に向いているのに気づいた。
視線を下ろすと無意識に自分がシャツの胸元をつまんで仰いでいる。
「リン、暑いの?」
「……す、少し」
「ごめん。僕が服を着ろなんて無理を言ったから」
「い、いえ。それは、私も人間について勉強不足だった所もありますし……」
彼は僅かに目を細めた。ずっと昔から変わらない優しい眼差し。
「僕は戻って機体の調整を行うから君はもう少しここで涼んでおくといいよ」
思わず見とれてしまっていた私に彼はそう言って立ち上がる。
「そ、それなら私も」
「大丈夫、僕一人でできる。どうせラーグルフは動かない。レーダー類を復旧させてここら辺の地形を調べるだけさ」
それに、と彼は続ける。
「君、昔から好きだったよね、水遊び」
「それは……」
「だから僕のことは気にせず遊んでおいでよ。久々に自然と触れ合える良い機会だしさ」
向けられた優しい微笑みに、私は負けた。




