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とある獣と人間のお話

 朝。

 珍しく鳥の囀りを聞いた。

 僕はここが天蓋区画の中ではないことを再認識しつつ目を開ける。

 寝袋から身を起こし、大きく伸びをひとつ。

 段々と鮮明になる視界に映るのはモスグリーン色の簡易テントの内壁と消灯されたキャンピングランプ、そして中身が半分程になった飲料水。

 これらは全て〈ラーグルフ〉に非常用として積み込まれていたものだ。

 自然分解可能容器の傍に置いてあったステンレス製のマグカップに飲料水を注ぎ、一気に飲み干す。

 朧気だった意識が覚醒に向かう。


「あれ、いない……」


 テント内を見回して獣の少女がこの場にいないことを知る。

 もしや、森に帰ってしまったのではと嫌な予感が脳裏をよぎり、僕はすぐにテントを抜け出した。

 昨夜の雨で濡れた地面は未だ乾いておらず、テントの周りには見事に小ぶりな足跡が残されている。

 少し考えて、僕はその足跡を追って森を進むことを決めた。

 ”獣’’は”人間”とは相容れない存在。故に本来ならば在るべき場所へと還る獣を追うことはしてはならない。

 それでも僕は追わずにはいられなかった。

 あの少女の顔立ちや一つ一つの言動が、()()によく似ていたから……。

 一筋頰をつたってきた汗を拭い、制服の襟を緩めた。

 空に占める雲の割合は間違いなく三割以下、いわゆる快晴である。

 太陽はまだ登り切ってはいない。朝とは言い難いにしろまだ真昼にはなっていないということだ。


「これは、暑くなりそうだな」


 近くの木に手を付いて一息、水を持って来なかったことを少し後悔する。

 天蓋区画の中は常に人間が過ごしやすい気温に設定されているが、外は違う。

 天蓋区画内の生活に慣れていたせいで感覚が狂い気味だが、第一〇七番天蓋区画のあるメネア連邦は広大な熱帯雨林を領土としているために気温と湿度が非常に高いのだ。


 水の跳ねる音がした。


 人間とて生物であることに変わりはない。

 身体の水分が少なくなると自然と水を欲するものだ。

 僕もその例に漏れず音のした方へと目を向ける。

 それほど遠くはない。

 足跡もそちらへ続いているようだったので僕は夢中で歩を進めた。

 すぐに木々がまばらになり、森が開ける。

 角が侵食され、丸みを帯びた大きな岩、そこに蔓延る苔類に何度も滑りながらも進んで行く。

 その先の景色を目にした時、僕は思わず言葉を失った。


 そこは滝壺と呼ばれる場所。

 大して広いわけでも、規模が大きいわけでもない。むしろこぢんまりとしていて落ち着きを感じる。

 しかし、そこは僕が以前写真で目にしたそれに比べて比較にならないほどに美しかった。

 奥の岩の隙間から白い飛沫を立てて流れ落ちる澄んだ水は昨夜の雨を感じさせないほどに透き通っていて、滝壺の底が鮮明に見て取れる。

 近場の岩に腰を下ろして一息ついた僕はすぐ傍の平たい岩に数種類の果実が大きな葉を皿にして置かれているのに気づいた。


「やっぱりここにいるんだ」


 頰を伝う汗を拭いつつ、小さく呟く。

 これらの果実の配置は明らかに人為的なものだ。

 おそらくはあの少女が食糧とするために早起きをして集めたのだろう。


――確かにラーグルフに積んであったメネア連邦軍の戦闘糧食(コンバットレーション)は美味しくないもんな。量もそんなに多いわけじゃないし……。


 僕は静かに岩の上の果実を見つめ自分もあの少女のように食糧を探すべきなのではと真剣に考える。


「ロイさん?」


 後ろから透き通るような、美しい声音が聞こえたのはそんな時だ。


「やぁ、おはよ……って、ッ?!」


 間違いなく彼女の声、嬉々として振り返った僕は思わず固まった。

 森の開けた部分に惜しみなく差し込む太陽光が彼女の白い肌を眩しく照らす。

 細く美しい脚が作り出す脚線美。

 少しだけ幼さを感じさせる腰のくびれ。

 控えめだが、確かにあると言える胸の膨らみ。

 つまるところ、彼女は服を着ていなかったのである。

 服どころか下着すら身につけていない状況。

 僕は慌てて目を背けた。


「ご、ごめん。その、知らなかったんだ」


 少しだけ間が空いた。

 この直後、僕は彼女の答えに驚愕する。


「ロイさん。顔が赤いようですけれど、体調が優れませんか?」


 下流の方から戻ってきたらしい彼女が小さな水の跳ねる音とともに歩み寄ってくる気配。


「え?い、いや、そういうことじゃなくて……僕は元気だけど、その……」


 ちらりと彼女を見やる。

 少女は人懐っこく笑った。ふわりと橙黄色の尾が揺れる。


「それは良かったです!あ、そうだ。ロイさん、これからご飯にしようかと思うのですけど一緒にどうですか?」

「え?あ、えーっと、その……」


 返答に困る僕。少女がはっとなり、しょんぼりとして両の耳を垂らす。


「あ、ご、ごめんなさい。その、馴れ馴れし過ぎましたよね……」


 困ってる理由はそこじゃないんだよなぁと思いつつ頰を掻く僕。

 行き場を失った視線は泳いでいたと思う。


「い、いや、ちょうどお腹が空いたなと思ってたんだ」


 苦笑いとともにそう答えた。

 ちなみに空腹だったのは事実である。


「ほ、本当ですかっ!それはよかったです!」


 先程の柔らかい笑みとは少し異なり、今度は子供っぽさの残る無邪気な笑み。

 黒く、尖った獣耳がぴくりと跳ね、ふさふさの尾が左右に揺れる。


「ほら、見てください。今日はいいものが獲れたんです!」


 そう言ってこちらに見せてきたのは先ほどの果実と同じく皿代わりの大きな葉に乗せられた木の葉状の斑紋模様が特徴的な全長三十センチほどの川魚。


「えっと、これは?」

「山女、です!」



 山女は塩焼きにすると美味しいらしい。

 こんな山奥で塩など手に入るはずがないと思っていたが、戦闘糧食の中に小さなパックの塩がいくつかあったことを思い出し、それを使うことにした。

 内臓とエラ、それと腹身周辺の血合いを綺麗に落とした山女をS字になるように串に刺し(串は少女が持ってきたがどこからどう見ても対人兵装の鉄杭だった)、ヒレを中心に塩をふる。

 滝壺にほど近い河原に火を構え、山女を火にかける。


「それにしても暑いなぁ」


 揺れる焚き火を見つめ、再び汗を拭う。

 手で仰いだりもしてみるが、それで暑さが柔らぐことはない。

 僕は滝壺の方へと目を向けた。

 立派な尾と黒い獣耳を持つ少女が一人、一糸纏わぬ姿で水と戯れている。

 水飛沫をあげながら比較的浅い水辺を駆け、時折驚いて水面を跳ねる魚を見つけてはそれを追いかける。その繰り返し。


「君さぁ」


 少し大きな声で呼びかける。

 少女が足を止め振り返る。長い黒髪がふわりと靡いた。


「何ですか?」


 彼女は十分に声が聞こえる位置まで近づいてきた上で言った。

 相変わらず何の躊躇も見られない。まるで自分の裸体を晒すことを当然のことだとでも思っているようだ。

 だがそれはこちらにとって目に毒というもの。

 僕は一度、深く嘆息する。


「制服はどうしたのさ、昨日はちゃんと着てただろ?」


 少女は少しだけ首を傾げたように見えた。


「制服ですか?ちゃんとありますよ。先程山女を獲った場所の近くに畳んで置いてあるはずです」

「……取りに行かないのか?」

「安心してください。日が沈む前にはちゃんと取りに行きますから!」


 控えめな腰のくびれに手を当てて胸を張る少女。羞恥心の欠片もないその姿に僕は一瞬目を奪われ、そして慌てて目を逸らす。


「……いや、それじゃ困る。頼むから服を着てくれないかな?」

「えぇー、それは……ちょっと面倒くさい、です」

「お願いだよ。人間の女性は好きな男の前でしか裸体を見せないんだ。だから、君にずっとそんな姿でいられるのは、ちょっと……」


 少女の尾がふるりと揺れた。


「えっと、それなら大丈夫です。私、ロイさんのこと好きですから」

「え……?」


 僕は一瞬動きを止めた。

 しかし、すぐに彼女の言っている”好き”が友人や仲間としてのそれであると理解し、安堵とも嘆息ともつかない息を漏らす。


「いや、そうことじゃなくて……」

「では、どういうことなのですか?」


 問い返されて僕は口を噤んだ。彼女の言っていることは間違いなく正論で、何と言い返せばいいものかと悩む。

 もう一度少女に視線を向けた。

 真っ白な素肌と少女の勝ち誇ったような微笑みは僕の心臓の鼓動を速くするには十分すぎて、僕は何と答えたらよいのか分からなくなる。


「……とにかく、服を着てくれ。頼むから」


 結局口から出てきたのはそんな言葉で、それが彼女の満足できる回答だとは僕自身も思わなかった。


「むぅ。ロイさん、それは質問に対する答えになっていませんよ?」

「…………ごめん」


 頰を膨らませつつ言う少女に蚊の鳴くような声で謝罪。

 それを聞いた彼女がくすりと優しく笑った。どうやら本気で気を悪くしたわけではないらしい。


「ロイさんがそこまで言うなら仕方ありません。後で制服を取りに行きますよ」

「今じゃないの……?」


彼女が唇に人差し指をあてがって少し考える。


「んー、もう少しだけこのままでいます」

「ど、どうして……?」

「それは……」


 少女が一歩前に出た。互いの距離が近くなればなるほど僕の視界に映る彼女の素の身体が強調される。

 そして向けられるあどけない笑顔。


「貴方の慌ててる姿が可愛いから、です」


 言われて思わず赤面した。恥じらいの影響か自然と彼女の身体から視線が逸れて傍らの雨林へと向かう。

 この日、僕は"獣"が自身のありのままを見せることに羞恥しない生き物なのだと知った。

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