序章
機体の登場は第四部分からです。
残酷描写にご注意下さい。
一面に広がるシロツメクサの平原に少年は幼い少女と二人、腰を下ろしている。
目の前には一筋の清流、その水の透明度の高さに少年がどれほど驚いたかは言うまでも無い。
空はどこまでも透き通った蒼。吸い込まれそうになる感覚を少年は絶対に忘れまいと心に誓った。
「ここは私の秘密の場所なんです」
山ほどあるシロツメクサで花冠を作りながら、幼い少女ははにかむ。
人間であればその年齢は五、六歳といったところか。
風に揺れる黒髪、僅かに潤んだ黄玉の澄んだ瞳、頭の上から飛び出した黒い獣耳は猫のそれにしては長く、尖っている。そして、彼女の臀部から伸び、僅かに揺れながら地面のシロツメクサを撫でている橙黄色の、狐を思わせる尾。
彼女は獣だった。
人間とほとんど変わらない見た目をしているが、その身体の一部に別種の動物の特徴を持つ不思議な種族。
彼女は黒い耳を持つ不思議な狐の獣だ。
少年も少女につられて笑う。
幸せな時間だと少年は思った。けれど少年は、おそらくは目の前にいる少女も、自分たちが長くこうしてはいられないことを知っている。
少女とは違い、少年は"人間"だ。
人間は自らと似た容姿をしていながら身体に他の動物の特徴を有し、更には現実にはありえない不思議な力をも操ると言われる獣たちを忌むべきものとして嫌悪し、軽蔑し、幾度となく争いを繰り返してきた。
つまりは敵同士なのだ。
ではなぜ少年と少女はこうして笑い合うことが出来ているのか。
それには至極普通のありふれた理由があった。
かつて人間が獣を滅ぼすために作り上げた十八種の〈機神〉と呼ばれる存在。その一つに襲われていた少女を少年が助けた。
ただそれだけ、それだけの理由で敵同士の彼らは互いに笑い合うことができている。
「助けていただいてありがとうございます」
少女がその幼さに似合わず、完璧な作法で頭を下げる。
貴族や王族という概念が獣にあるのかは分からなかったが、随分としつけの良い少女のように思えた。
「一つだけ、聞いてもいい?」
花冠を作る少女に少年は問う。
「何ですか?」
少女の首がこくんと傾く。尖った獣耳がぴくりと揺れた。
「教えて欲しいんだ。君の名前を……」
「私、ですか?」
幼い"獣"の少女がその黄玉色の瞳を一度、瞬く。
「リン、私の名前はリン、です」
そう言って少女は華のような可憐な笑みを浮かべた。
目が覚めた。
狭い賃貸アパートのリビングで毛布に包まっていた青年はゆっくりと半身を起こす。
アパートの窓、閉ざされたカーテンの隙間から差し込む 偽物の太陽光。その光を身体にに受けながら大きな欠伸を一つ。
「……リン……」
久々に懐かしい夢を見たなと思う。
あれは何年前のことだったか。確か自分が十五か、十六のときだった気がする。対して少女の方はまだとても幼かった。
当時、メネア連邦対機神特殊先鋭部隊、通称上限越えの勇者たちの一員であった青年が、全ての生命にとっての敵である〈機神〉に襲われているところを助けたのがきっかけで知り合った。
だが、それきりだった。
彼女とはあのシロツメクサの平原で話して以降、会えていない。
会えなくなってしまったのだ。彼女と別れた直後、十八体いる〈機神〉の一つ〈九番目のエルナト〉にメネア連邦政府の拠点があった第九十番天蓋区画が襲撃された《突きの襲撃事件》での戦いにおいて、十二人で構成されていたオーバーブレイブスは壊滅。
生き残ったのは青年を含めて三人だけで、その全員が事件後すぐに治癒カプセルに入れられて長期にわたる再生治療を受けた。
三十年。それが治癒カプセルと呼ばれる円筒型の装置の中で青年が過ごした時間だ。
カプセル治療の副作用である低温睡眠システムによる影響で成長することも、老いることもできず、その間の記憶すら無い空白の時間。
それだけの時を経てもなお、彼女と言葉を交わしたあの日の景色は鮮明に僕の記憶に刻み込まれている。
「もう随分昔のこと……のはずなんだけどな」
そんなことを呟きながらのそのそと粗末な毛布から這い出し、洗面所へ。
少しだけ動きを止めて目の前の鏡を見る。
どこか覇気の無い黒髪緑眼の顔がこちらを見つめ返してきた。
短い深呼吸を一つ。
蛇口に設けられた指紋認証機に指を翳す。これだけでシステムが水温と水量を自動調節した水を提供してくれるのだから便利なものだ。
顔を洗い、歯を磨いて、自分の通う工業士官学校の制服の袖に腕を通す。
それから胸には学校指定の名札を付ける。薄い金属製のプレートに刻まれているのは《ロイ・グロードベント》の文字。自分の名だ。
鏡の前に立って思わず苦笑。この学校の制服はどこか軍服のような感じがして、あまり好きではない。
それから朝食に固い楕円形のパンに少量の野菜とハムを挟んだものを用意。
自分の住まう工業地区ではありふれたものだが、これらの食材は全て合成食、つまり味と見た目が似ているだけの偽物である。
正直言って美味いとは言えないが、本物の食材はそれこそ目玉が飛び出るほどの価格で市場を出回っているので、簡単には手に入らない。
そして食事の後に啜る安物のインスタントコーヒー。これも全て人口的に作られた味が似ているだけの偽物に過ぎないが、それでも無いよりはましだと、いつの間にかそう思うようになってからは毎朝飲むのが日課となってしまった。
ゆっくりと飲んでいたつもりだったけれど、今朝の夢のことを考えていたせいかすぐにカップは空になってしまった。
ゆっくりと息を吐いてカップを皿に乗せる。
白磁製のカップがかちゃりと小さな音を立てた。
続いて視線が向かうのは部屋の壁に掛けられた古いデジタル式の電波時計。
画面には《機工暦812年 7月16日 7:53》の文字。
家を出るにはまだ少し早い時間だ。
少し思案した末に家を出ることに決め、通学鞄を手に取る。
いつも通学鞄を立てかけているチェストの上には額に入った一枚の写真。いつもは素通りしてしまうことが多いのだが、今日は不思議とそれに目がとまった。
その写真を木製の額縁ごと手に取る。
写っているのはいつか彼女と見たシロツメクサの草原。
オーバーブレイブス時代の自分の機体であった人型機甲兵器。〈インパルス・フレーム〉の映像記録装置からデータを取り出し、現像してもらったものである。
「もし、君に会えるなら、もう一度……」