1-E 矛盾を抱えた龍
「おはようございます、カエデ様」
「…………ひっ」
意識が戻り、ウィスタリアの笑顔を目にした途端。楓は短い悲鳴を上げ、暴れ出す。しかし彼女を拘束している束縛魔法の金糸が、それを阻止した。
しばらくして大人しくなったが、身体は小刻みに震え、目は虚ろ。優しい印象を受けた牧野楓は、もう何処にも居なかった。
楓は今、笑顔に対して恐怖を覚える体質になっている。電撃による拷問を受けた時、リラは笑っていた。その影響で、笑顔を見る。もしくは笑い声を聞く度に、あの痛みと恐怖がフラッシュバックする身体になってしまった。
「……ここまで変わり果ててしまうと、流石に心が痛みますね」
「ごめん。つい楽しくなっちゃって」
「いやあああああああ!!」
リラの声を耳にした瞬間、絶叫した。彼女の声そのものすら、恐怖の対象になっていた。
「……カエデ様、聞こえますか? これから実験を行います。かなり苦しい思いをするかもしれませんが、頑張って下さい」
「い、や……嫌……!」
涙ぐみながら、首を横に降る。
しかしどれだけ必死に拒否しても、ウィスタリアは意見を変えない。
「そんな事言われたって、あなたに拒否権はありませんよ。……さ、連れて行って下さい」
鉄格子の扉を開き、フードを被った魔導士数人が檻の中へと入ってくる。そして、抵抗できない楓の身体を掴んだ。
「やだぁぁ! 離してぇぇぇ!!」
「カエデ様。大人しくしてくれないと、またビリビリしちゃいますよ?」
リラが人差し指を突き立てる。彼女が雷魔法を使う合図だ。
「いやだあぁ! ビリビリは嫌だあああ!!」
「じゃあ、大人しくしてください」
「うっ……う……あ……っ」
涙を必死に堪えながらも、二人に連れられて檻の外に出る。
部屋を出て、薄暗い道をしばらく歩く。
「ウィス、タリア……さん」
その途中、楓はウィスタリアの方を見た。
「さん付けに戻したんですか。……少しショックです」
「ひっ、ご、ごめんなさい……」
「まあ良いですけど。……それで、どうかしたんですか?」
「……私を、見逃してください。怖いんです……痛いんです……早くお家に帰って、お母さんの作った料理が食べたい……」
「わかりました」
「……えっ」
「では、あなたの代わりに別の人を実験に使う事にしましょう。次に適合率が高かったのは確か……ユヅキ様でしたね」
「それは駄目!」
それまでの弱々しい態度から一転。力強い声音で、ウィスタリアを一蹴した。
「……どれだけ精神が壊れていても、自分が助かる為に他人を売ろうとは決してしないとは。想像していた以上に、あなたは強い人なのですね。心底羨ましいです」
「でも今のちょっとびっくりしたから、お仕置きするねー」
リラが雷魔法を発動しようとする。しかしそれを、ウィスタリアが手で制した。
「やめてください」
「……どうして止めるのさ」
「幾ら何でもやりすぎなんです。リラは大事な味方ですし、これまで黙認してきました。……ですが、カエデ様を見て少し考えを改める事にしました。これからは、己の欲求を満たしたいだけに誰かを傷付けるのはやめてください。……私たちは人間にとって悪かもしれませんが、外道にまで成り下がるつもりはありませんから」
「……わかったよ」
見るからに不機嫌そうな態度を見せながら、リラは渋々と手を下ろす。
「ありがとう、ございます……」
「勘違いしないでください。別にあなたに情が芽生えたとか、そんなんじゃありませんから。ただ、これ以上痛めつけても無駄だと思っただけです」
目の前に、大きめの鉄製扉が現れる。
「《解き放つは禁忌》」
ウィスタリアが、扉に付与していた触れた者に解除不能の呪いを与える魔法を『解除魔法』のディスペルを用いて解除した。
「……っ」
楓はその場で蹲った。この先に待ち受けている自分の未来を想像しただけで、酷い頭痛と吐き気に襲われたのだ。
「やっ、ぱり……や……」
「諦めてください。これがあなたの運命なんですから」
人の運命は、誰が定めるのだろう。恐らくは神だ。
何か悪い事をした訳でもないのに。何か恨まれた事をした覚えは無いのに。何故に、ここまでの仕打ちを神は自分に与えるのだろうか。
わからない。わからないからこそ、赤子のようにただ泣き喚く事しか出来ない。
「ど、うして……私が、こんな目に……!」
温かみの一切も無い冷ややかな地面に、楓の涙が落ちる。
「世の中は理不尽だらけですよ。善良な市民が不幸で死に、反対に不良な者は比較的幸福に生きて、満足して死ぬ。そんなのはザラにあります。それを認めなければ、人生なんてやってられませんよ」
扉が、誰の力も借りずにひとりでに開いた。
その先には、ここが王城の地下だという事を少し忘れられるくらいに広大な空間が広がっていた。天井は低いが、不思議と圧迫感は感じられない。
空間の中心には、巨大な物体が横たわっている。それがなんなのか、今の楓には皆目見当もつかなかった。
「ご覧ください、カエデ様。彼女は龍族の雌です。名はマカロニ。戦闘狂いの龍族の中では珍しく温厚な性格だったので、少々心苦しいですが、実験材料として利用させて貰ったのです」
「……もう、死んでるの……?」
「はい。ですが龍族が体内を流れる魔力量が多いため、まだ肉体は生きた状態を保っています。──《繋ぐは命》」
ウィスタリアが詠唱を始める。足元に浮かび上がった魔法陣の色は、黒く濁っていた。
「《二つの器を掛け合わせ・一つの可能性を発芽させる・生命の理に反逆し・決して断てぬ不可視の鎖を・今ここに》──繋ぎ止めろ、『エンディングコネクト』」
「っ!?」
龍の遺体から黒い糸のようなものが伸び、楓の胸元に突き刺さった。刺さった感覚はあるのに、痛みは感じなかった。
束縛魔法が解かれた。しかし今の楓に逃亡しようとする意思は残されておらず、これから自分に降り注ぐであろう災厄に、息を一つ吐いた。
「これより、マカロニの遺伝子とカエデ様の遺伝子を強制的に融合させます。それによりしばらく拒否反応が現れるので、気合いで耐えてください」
「気合いなんて……そんな無茶な──」
「『エンディングコネクト』」
「がッ──!!!?」
瞬間。まるで火炙りにされたかのように、全身が熱くなった。その場に倒れ、両手で頭を抱えながらのたうち回る。
痛い。熱い。痛くて熱い。熱くて痛い。痛いから熱い。熱いから痛い……!!
どれだけ惨めに泣き叫んでも、身を焦がす言葉では表し難い激痛は、一向に和らぐ気配を見せない。
「ああ、良い眺め……」
それを見据えながら、リラは恍惚の表情を浮かべていた。
「始まりました……!」
「ああああああああああ!!!!」
楓の白く透き通っていた肌を、痣に似た紫が侵食する。それは瞬く間に全身へと広がり、埋め尽くした。
艶のあった黒髪は色を失い、左の白眼が赤で塗り潰される。
「ぐッ、がっ、ギリャアアアアアアアアア!!」
絶叫する彼女の腹部を、巨大な前脚が突き破った。楓の遺伝子を、龍の遺伝子が食い破ろうとしていた。
直後に背中から、骨だけで構成された翼が生える。
そして彼女の首が。胴体が。下半身が。四足歩行の龍のものへと変貌を遂げる。
……しかしその姿は、誰が見ても完全ではなかった。全身の殆どに肉が付いておらず、骨を露出させていた。
まるで、自らが死んだ事に気付いていない、龍の亡骸だ。
『──────ッッッ!!』
『それ』の口から放たれた轟音が、空気と足元を震撼させる。
「ふふ……あは、あはははは……!! ようやく、ようやく『器』が完成しました……!」
ウィスタリアは両手を広げ、歓喜した。
「『死なない力を持つ異界人』と、『既に死した龍』。それらが一つとなった時に生じる、解決不可の矛盾。それこそが革命の引き金となり、悪夢を穿つ弾丸となる! ……そうですね、名付けるなら『矛盾を抱えた龍』。死してなお、生命で在り続ける亡霊……!」
牧野楓。彼女は平和を愛し、平穏を望んでいた。
しかしそんな彼女に課された運命は、あまりにも理不尽であった。
見知らぬ空の下に飛ばされ、地獄にも等しい苦悶を受け、終いには人では無くなった。
彼女は恨んだ。運命を。そしてこの世界を。
龍の遺伝子が混ざり合ったからだろうか。彼女を蝕んでいた痛みとそれによる恐怖心は、すっかり消え失せていた。一本の薪となり、憎悪という炎に焚べられたのだ。
憎め。憎め。全てを憎め。
声が聞こえる。それは他でもない、自分自身の声だ。
憎んでやるとも。自分をこんな目に遭わせた者と世界を。
こんな理不尽な世界に、優しさなんて必要ない。利用出来るものならば、どんなモノでも利用する。そんな非情を持て。
そして帰る。帰ってみせる。平和で平穏で退屈で、見慣れ見飽きたあの空の下に……全員で!!
「アアアアアアアああああああああああッッ!!」
帰還。ただそれだけを望んで、楓は己を捻じ曲げる。捻じ曲げて捻じ曲げて、己が己で無くなる未来を妨げた。
ドラゴンゾンビの身体は急速に縮み、元の人間の姿へと戻る。肌を侵していた紫はすっかり消え、髪も元の綺麗な黒になっていた。
ウィスタリアは目の前で起きた光景に驚き、両手で口元を覆い隠す。
楓は気合いで押さえ込んだのだ。己の体内を食い荒らす、龍の遺伝子を。
「まさか、これ程までとは思いませんでした……」
気を失い、うつ伏せに倒れた楓。彼女に魔導士数人が近付き、首元に黒い首輪を嵌めた。
「嬉しそうだね、リーア」
子供のように目を光らせているリーアの横顔を眺めながら、リラは謂う。
「はい……私は今、過去最高に幸せな気分です……!」
**
デイアント聖堂の中で、聖女カグヤは一人呟く。
「人であり、龍でありながら、人ではなく、しかし龍でもない。……この世に二つも存在しない、新たな生命体」
両手を広げ、天を仰いだ。
「ハッピーバースデー。この腐敗した世界を正す、愛しき死神よ」
**
ダランシアの隣国──セフィリィア王国の北東に聳える標高四千メティアを誇る山。その頂に、少女が一人佇んでいた。
青色の髪はショートボブ。頭頂部に生えた疑問符のような形をした謂わばアホ毛が、生きているかのように動いている。
突然、彼女のアホ毛が何かを察知したようにピンと立った。
慌てて振り返った方角には、ダランシア王国がある。そこから感じたのだ。ずっと探し続けていた、愛おしくて仕方ない者の魔力を。
「…………お母、さん」
琥珀色の輝きを湛えた瞳から、一縷の涙が零れ落ちた。