第七話:強迫観念
「また明日ね〜、奈緒」
「ん」
電車帰りの麻理花と駅前で別れ、奈緒は人でごった返す駅前を離れて行く。人気のない路地裏に入って、物憂げな表情でメール画面を開く。
(…遊子は確実にあの場にいた。あたしたちを見ていた)
メールの文面がひどく癪に障る。
(麻理花には絶対に手出しさせない)
姉・美緒の臨終の姿と麻理花の姿が重なって、奈緒は首を左右に振った。メールを削除しようとしたた奈緒だったが、
(…あれは、玲治?)
不意に上げた視線の先に見知った少年がいることに気づく。潰れたらしい商店の軒先に体育座りをし、ガックリと項垂れている。だが、恐らく玲治で間違いないだろうと思う。しかしこんなところで何をしているのだろう。
「…こんなとこで何してるの」
しかし玲治の反応はない。まさかこんな場所で居眠りか。
「こら、玲治!」
肩を掴んで揺さぶると、詰襟に包まれた体がビクッと震えた。
「玲治!」
玲治が緩慢な動作で顔を上げる。
「…玲治?」
何処かぼんやりし、霞がかったような瞳。だらしなく開いた口元。どちらかと言えば不安げな表情をしている玲治らしからぬ様子。嫌な予感がする。
「玲治!」
思わず玲治の頬を平手打ちする。
「!!」
玲治の目に光が戻る。呆然と己の頬を打った者の顔を見上げる。
「な…お、さん?」
「気づいた?」
奈緒は安堵の息をつき、玲治の目の前にしゃがみこんだ。
「何こんなとこで座り込んでんの」
「な、奈緒さん…どうして此処に?」
「…あたしが訊いてるんだけど」
「俺、俺は…兄さんを探していて、」
「兄さんって…佳那汰にぃのこと?」
「兄さんを…見つけて、」
ぶつぶつと呟く玲治を、奈緒は怪訝そうな顔で見る。どうも玲治の様子がおかしい、と危ぶんだところで
「あ、ああああああああっ!!」
という玲治の絶叫が響き渡った。ギョッと、奈緒は横にいる少年を見る。少年は頭を抱えて絶叫していた。
「あ、あああああっ!」
「ちょっ、どうしたの!玲治、大丈夫!?」
奈緒が手を触れようとすると、バシッと叩き落とされた。更に玲治らしくない行動に、奈緒は目を白黒させる。
「玲治、」
「…ろした」
「は?」
「俺、あの子を殺した」
「玲治、あんた何言ってんの?」
「奈緒さん、どうしよう、」
荒くなる呼気。顔は嘘のように土気色。救いを求めるように、少年が奈緒に手を伸ばす。
「と、とりあえず落ち着きなさい。どういうことなの、殺したって、誰を?」
「し、知らない男の子。公園で会って、きゅ、急に苛々してきてー気付いたら頭を石で殴ってた」「…」
「俺、自分がどうやってその公園に行ったのかも覚えてなくてーすべてが怖くなって、男の子を放置して逃げた」
俺、逃げたんだ。玲治はそう繰り返し、細い体をガタガタと震わせる。
「…嘘でしょう?」
玲治が人を殺す訳がない。想像すら出来ない。「う、嘘じゃないよ。確かに、この手で…」
「…」
まさか、と思う。
以前同じ屋敷で暮らしていたとき、一度だけこういうことがあった。殺人云々ではないが、見ず知らずの他人を暴行しようとしていたーそのときも光の無い目はぼんやりと淀んでいた。普段大人しい少年の強行に、周りの人間はまるで強い何かに操られているような感じだと口さがなく言っていたが、ー本当に?
「…佳那汰にぃと何かあった?」
「…え?」
「その…、男の子を殺す前に佳那汰にぃに会わなかった?…もしくは、芦原遊子に」
「何が、言いたいの」
「…玲治、あんただって気付いてるんじゃないの?自分があいつらにとってどういう存在なのか。あんたが思ってるほど、佳那汰にぃは、」
「に、兄さんを悪く言わないでよ!」
いきなり玲治が奈緒に牙を剥いた。だが全く迫力はなく、奈緒は全く恐怖しない。平然と続ける。
「あんたが佳那汰にぃを尊敬してるのは分かってる。虐待の嵐の中であんたを守ってくれたのは、佳那汰にぃだけだったから」
「そ、そうだよ!兄さんだって丈夫じゃなかったのに、俺を守るためにいつだって身を挺してくれてたんだ…!兄さんがいなかったら、俺は、俺はきっと死んでた。だから、俺は兄さんに恩返しをしないといけない。兄さんの力にならなきゃ、兄さんが喜んでくれることをしなきゃ、」
「玲治、」
「…そうだよ、俺は兄さんが喜んでくれるなら何だってするんだ。兄さんが笑ってくれるなら、」
奈緒は強迫観念にも似た玲治の兄へ対する想いに一種の恐怖を覚えた。腕に鳥肌が立つ。
「人だって、殺すよ」
にやり、と玲治が笑う。奈緒が絶句しているのを横目に見て、玲治がふふっと艶やかに笑う。血色を取り戻した唇の色が、まるで血の色のようだと思った。