第六十話:信じたくない告白
あの人が少年の双子のお兄さんなのか、と思いながら、玲治は喉元に突き付けられたままのナイフの感触を忘れようと努めていた。
(あんまり、似てないんだなぁ……)
「佳那汰にぃ、いい加減玲治を放してやってくれない?」
奈緒の声が何処と無く遠く感じる。玲治は奈緒を見る。“薬”で遊子に操られていたときに会ってはいるが、その時の記憶はないため、玲治は奈緒に久しぶりに会ったことになっている。
(奈緒さん、少し痩せた…のかなぁ……)
「それは出来ん相談だよ、奈緒。玲治を放したら、おまえたちは逃げるだろうからね」
「逃げない」
「信用出来ないね……九連日向君」
ソファーで眠っている弟が心配で椅子に座っていない日向に、遊子の声が掛かる。日向が彼女を睨み付ける。
「何だよ、」
「大人しく座って紅茶でも飲みなさい。話も出来やしない」
「うるさい!誰のせいで影がこんなに傷付いたと思ってるんだっ!!」
「あら、さっきまで弟に殺されそうになって萎れてたのに、いきなり威勢が良くなったわね」
遊子のからかい口調に、日向の顔が赤くなる。思わず飛び掛かりそうになった日向に、奈緒の厳しい声が飛ぶ。
「九連、止めなっ!!」
日向が唇を噛んで奈緒を見る。
「蓮本、何でっ…」
「此処はそいつのテリトリーだからね。下手なことして危なくなるのはあんたや影なんだよ」
「っ、」
「九連、ほら座って。これ以上影を傷付けたくないなら」
日向は遊子を睨み付けたままで奈緒の横の椅子に腰かけた。
「さ…て。改めて、こんにちは。九連日向君…そして蓮本奈緒さん」
遊子は長い指で紅茶を注いだカップを持ち、日向と奈緒を等分に見ながら今さらながらの挨拶をする。
「私がこの“屋敷”の主人にして芦原グループ次期当主、芦原遊子です。以後お見知り置きを……」
「遊子、前置きは良いわ……何が目的なの」
「連れないなぁ。つい最近久しぶりに会ったって言うのに、さ」
「あんたと話す気はないの。ただ玲治に手出しさせるわけにはいかないし……佳那汰にぃを元に戻して貰わないとね……」
遊子が微笑む。紅茶を一口含み、
「元に戻す、ってどういうことかしら?」
「…あくまでもしらばっくれる気なのね」
「ふふ、」
何が可笑しいのか、遊子は微笑んでばかりだ。
「どうやら玲治から色々吹き込まれたみたいね」
佳那汰に拘束されたままの玲治がビクッと身を震わせる。遊子の瞳が玲治に注がれる。玲治が恐怖に竦んで遊子から眼を離せないでいる。「遊子、」
「いい加減玲治は処分したいんだがね……」
遊子が椅子から立ち上がり、玲治に近づいて行く。奈緒が彼女を制止しようと立ち上がりかけるが、
「少しでも動いたら、玲治を刺すように佳那汰には命令してるからね」
という言葉に動きを止める。
「や…だ、来るな、」
「佳那汰の弟でなければさっさと処分してるところなんだがな」
「っ、」
「携帯のことと言い、大事なところで気を失ったり。お前には失望させられてばかりだよ」
遊子はこれみよがしにため息をついてみせ、玲治の頭を掴んだ。
「脳ミソ潰してやっても良いんだよ……?」
玲治の顔が恐怖に歪む。遊子が陰鬱に笑う。
「まぁ冗談だけどな」
頭から手を退けて、遊子は椅子に戻る。奈緒が尖った声を出す。「遊子、早く本題に入ってくれない?あんたの遊びに付き合ってる暇ないのよ」
「せっかちなところは相変わらず……か。全く嘆かわしいことだよ」
遊子は殊更のんびりした口調で言う。「……あんたのそういう人を食ったような態度も相変わらずね」
「ありがとう」
誉めてない、とぼやき、奈緒はダンッ!と机を拳で叩き付けた。
「いい加減にしてくれない?ここの空気吸ってるだけで苛々してくるのに、あんたの戯れ言に付き合ってる暇は、」
「陽のこと、思い出すしね」
挟まれた遊子の言葉に、奈緒の顔が強張る。
「蓮本……?」
蒼白くなる奈緒が気がかりで、日向は気遣わしげな視線を送る。まただ、と思う。陽という名前が出る度に、奈緒の様子がおかしくなる。一体陽とは何者なのか。
「陽君は…関係ない」
「九連日向君が心配そうに見てるよ。まだ陽のこと、話してないのかい?」
奈緒の目線が日向に投げられる。微かに憂いの浮いた瞳を、奈緒はすぐに日向から逸らした。その逸らし方がひどく不自然な気がして、日向は自分でも意識せずに少しムッとしてしまった。
「話す必要はないよ。陽君のことと、九連たちのことは関係ないから」
「ふふ」
遊子は楽し気に微笑み、スーツの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。写されているものを悟り、奈緒はガタッと席を立っていた。
「な、んであんたが!」
遊子が見せつけるように、写真を日向の目先に翳す。ー穏やかそうな、顔立ち。柔和に微笑んだ瞳。何処か寂しげな雰囲気も滲んでいる。何より目立つのは、雪のように真っ白な髪。頭から雪を被っているのかとすら思う。華奢なものの、頼りないという感じはない。誰かと手を繋いでいるのか、左手が手らしきものを握っている。相手の体は全く写っていない。…写っていないが、写真の少年が握っている手は、奈緒のものではないかという予想があった。
「何であんたがその写真を……!!」
奈緒が遊子に掴みかかろうとするのを、遊子はあっさりと避けた。
「あたしが燃やしたはずだ、陽君と一緒にあたしが……!」
普段の彼女からは考えられないくらいに、奈緒が動揺していた。だがその様よりも、奈緒が口走った言葉に日向は眼を見開く。
(燃やした…?陽君と、一緒に……?)
「あぁ、簡単なことさ。焼き増ししただけさ。陽が、ね」
「陽君が?」
「陽は不安症だったろ?何でも予備がないと落ち着かなかった……あんたの写真にも同じことが言えたんだろうさ」
奈緒は信じられない、と言った風に眼を見開いている。
「嘘よ、だってこの写真はー、」
……ひどいことを言った日に撮ったものだ。陽君の存在を悪し様に罵り、陽君を蔑んだ日に撮ったものだ。なのに、どうして笑ってるの?あんなに、あなたを否定することを言ったのに、どうして笑えるの?自分を傷付けた人間の横で、どうしてそんな風に笑えるの?「信じなくても構わんさ。本人がいないから、陽に訊く訳にも行かないしね」
「……蓮本、大丈夫か、」
小刻みに震える奈緒のことが心配で、日向は思わず奈緒の肩を掴んでいた。だがその手はすげなく振り払われる。バチンッという音が、日向の鼓膜を叩いた。
「触らない方が良いよ、あたしには」
俯いたせいで、奈緒の横顔が見えない。だが奈緒が泣いているように、見えた。
「蓮本、」
戦慄く唇を一度噛み締め、奈緒は言った。やっぱり来るんじゃなかった、と思いながら。
「あたしは人殺しだから、触ると汚いよ」
「えっ、」
「その写真の子、あたしが殺したの」
大崎警部と別れた後、麻理花はようやく家の中に入った。ダイニングのテーブルの上に、一万円札とメモ書きが置いてある。
「勝手に食べて……か」
メモ書きを持ち、洗面所に行く。洗面台で栓をし、水を溜める。
「いつも同じ文面……紙の無駄だって何で分かんないのかな、あいつらは」
スカートのポケットから、百円ライターを取り出し口元を歪に歪めながら点火する。メモの端に火を点け、紙の焦げる臭いに喜悦を感じる。だがその喜悦はあっという間に霧散し、顔がすぐに無表情になる。手を放し、静かに燃える紙を溜めた水に落とす。
「詰まらない、」
麻理花は小さく呟き、握ったままだったライターを鏡に向かって投げ付けた。だが強化ガラス仕様の鏡は割れることなく平然と麻理花を映し出していた。
「蓮本、今何て……」
奈緒の言葉は聞こえた。だが、認めたくなかった。ただの悪い冗談だと思いたかった。
「聞こえなかった?その写真の子を殺したって言ったの」
「な、何こんなときに変な嘘吐いてるんだよ、」
動揺を隠せない日向に、奈緒が顔を向ける。相手を蔑むそれに、日向はたじろぐ。
「な、何だよ」
「本当のことだと言ってるでしょう。あたしの言葉を否定出来る程、九連はあたしのこと知ってるの?」
その言い方に、日向は思わずムッとする。
「なっ、何だよその言い方っ…!俺はただ、」
「ただ、何?」
日向はぐっ、と詰まる。見ていた遊子がクスッと笑う。奈緒は日向から顔を逸らし、冷めた瞳で彼女を見返す。
「そう、その眼だ。あんたにはその眼が似合う」
「それはどうも。で、陽君の写真を持ち出してあんたは何がしたいの?影を拉致したことと何か関係があるの?」
「………赤い眼、」
遊子が漏らした言葉に、日向が反応する。ビクッと肩を震わせ、ソファーで眠る弟に眼を遣る。
「少し話したよ。実に興味深いー君も何故自分の半身があんな“化け物”を内に飼っているのか気になるだろ?」
「そ、それは」
「しかも赤い眼の影の出現には本人の危機と、“痣”が関係あるようだし」
日向は思わず“痣”のある場所を押さえた。遊子が笑う。
「……そうか、君にもあるのか」
「な、」
今まで玲治にナイフを突き付けていた佳那汰がいきなり動いた。突き放された玲治が床にへたり込み、苦しそうに喘いで呼吸を整える。
「なにすっ、」
佳那汰は日向を羽交い締めにすると、いきなりシャツをたくしあげてきた。無遠慮に素肌を撫でられ、日向は気持ち悪さに身を捩る。
「んっ、止めろよっ…」
「佳那汰、ストップ」
遊子に制止され、這い回っていた佳那汰の手が止まる。遊子が近付き、しゃがみこんで日向の“痣”に触れた。右の肋骨の近くにある、不定形の“痣”。
「っ、」
ぞわっ、と言い知れぬ寒気が背筋を駆け上がり、日向は身震いした。
「君には別人格は居ないようだな………」
感慨深げに遊子は言いながら、“痣”に舌を這わせてきた。ねっとりと舐められ、日向は悲鳴を上げる。
「やっ、止めろよっ!」
「くすくす、経験のない女の子みたいな反応だな」
かあっ、と顔が赤くなるのを止められない。
「おや、なかなか格好良いから盛んなのかと思っていたが、意外に経験がないのかな」
何故か奈緒を見ながら、意味深な口調で。奈緒は相変わらず冷たい瞳で、日向を見るともなしに見ている。拘束されている日向を助けてくれそうな気配はない。
「……あたしが手取り足取り教えてるとでも思ってた?」
「蓮本っ……!」
「男の方が可愛い反応するわね。……女は不感症か」
「俺と蓮本はそんな関係じゃない……!!」
だんだんと自分が置かれている状況に苛立ちを感じ、日向は怒鳴った。腕を払い、佳那汰の手から逃れる。そしてソファーで眠る影を揺すって起こそうとする。
「影、帰るぞ!起きろ!!」
影がうっすら眼を開け、日向はホッと息を吐く。だが、
「っ!!」
「この“屋敷”の主人は私だ。勝手な真似は、許さんよ」
今までになく気迫のこもった遊子の声を聞きながら日向の意識は闇に呑まれて行く。消えゆく意識の片隅で、あぁ俺は殴られたんだとやけに冷静に悟っていた。
奈緒は本当に人殺しなんでしょうか?そして意識を失った日向は……。