第五十九話:兄弟の絆
日向は影を正気に戻せるのでしょうか…?
「か、げ…?」
折れていない方の右腕上腕を、何の手加減もなくサバイバルナイフで斬り付けられたのだ。しかも、双子の弟に、だ。
「影、何で…、」
呆然とする日向に、第二撃が襲いかかる。
「バカ九連っ!何ぼけっとしてんの!!」
奈緒に肩口を強く掴まれたことで、我に返った。
「!」
慌てて、しゃがみ込む。コンマ数秒の差で、日向の頭があった場所をナイフの軌道が通る。
「影、やめろっ!」
影の眼は光を反射していない。日向の姿も眼に入っていないような気がする。
「影!」
影は笑いもしなければ泣きもしない。ただ無表情に日向を追い続ける。またナイフが振り被られる。日向も奈緒も慌てて走る。
(これはもしかして、“薬”っ!?)
訳が分からない日向と反対に、奈緒は影の異変の理由に検討がついていた。
恐らく遊子に“薬”を呑まされたのだ。玲治と同じように。(っ、あの女!)
奈緒は遊子の寝室のドアを見た。今にも扉を開いてにやついた顔で姿を現しそうな気がする。
「影、どうしたんだよ、俺だ、九連日向だ!!」
日向が混乱しながらも影に叫ぶ。だが影の攻撃は止まない。
「影!!……うおっ!」
またナイフが振り被られ、日向は仰け反る。ハラリと数本の髪の毛が刃に切られて舞う。
「ずっと逃げ惑っているつもり?」
背後で笹原がクスクスと悪意のある笑みを溢す。笹原はこうなることを知っていたに違いない。奈緒がキッと彼女を睨み付けると、笹原はますます笑みを深くする。
「影!」
日向の声は影には届かない。だが笹原の言う通り、逃げ惑っているだけでは影を助けられない。日向は決心すると、自分からナイフの間合いに入った。
「九連、何して…っ!」
「近づかねぇと影を止められないだろ!」
「だからって…っ、」
またナイフが振り被られる。日向は少ししか避けず、その結果頬に赤い線が走る。
「九連!」
奈緒の声が遠い。
「っ、」
耳元に伸ばされた影の右手首を掴む。影が逃れようとするが、日向は必死に彼の手を押さえ込む。
「影、頼むからナイフを収めてくれっ!!」
「………」
影は無表情のまま、日向の手を払おうとする。だが日向も圧されっぱなしではない。
「悪い、影!」
とにかく影の眼を醒まさせなければ。日向は影に一言かけると、影の左足を払う。影の体がバランスを崩したのを見計らい、抵抗はあったが、影を床に倒す。
「っ、」
後頭部が床に激突するのを避けるため、頭を腕に抱えてやる。
「影、正気に戻れっ!」
兄の顔が身近に迫っても、影の眼は光を映さない。あまつさえ、日向を完全に敵だと認識したのか、鼻の頭に皺を寄せて威嚇をし始める。
「はな…せ!放せ!」
「俺だ、双子の兄貴の日向だ、何で分からないんだ!」
日向はやりきれない想いで叫んだ。
その悲痛な叫びが奈緒を我に返らせた。奈緒は笹原に近づき、グイッと彼女の襟首を掴み上げる。笹原は笑ったままだ。
「影に“薬”を呑ませたな!?」
「ふふ、何のこと?」
「ふざけるな、早く影を元に戻せ!」
「あんたにしては感情的ね。珍しい」
「あたしのことはどうだって、」
奈緒が更に笹原に怒鳴りつけようとした刹那、
「うあああああっ…!」
日向の苦痛を含んだ絶叫が聞こえて意識が笹原から日向に戻った。
「九連!」
奈緒は眼を疑った。力でも体格でも日向に劣る影が、自分を床に押し倒してきた日向を逆に押し倒しているのだ。しかも折れている左腕を掴み、ナイフを彼の首筋に突き付けている。日向が激痛に仰け反るのを無表情に見詰める影。笹原がははは、と高らかな哄笑を上げる。
「楽しい楽しいね!兄弟同士で殺し合い!!」
「っ…!」
奈緒は笹原を殴り付けたい衝動に駈られたが、今は日向を助ける方が先だ。奈緒は日向と影に走り寄ると、日向の上に馬乗りになっている影を羽交い締めにする。
「影、いい加減にしなさい!!」
「放せ、僕はこいつを殺すんだ、殺すんだ…!」
その言葉が、日向の痛みが浮いた顔に絶望を落とす。あまりの言葉に、心臓が嫌な音を立てて鼓動する。奈緒は影の異変は“薬”が原因と知っているが、日向には全く話していない。影の態度も言葉も本意のように聞こえてしまうかもしれない。日向が気掛かりだった。
「九連、影は…っ、」
「そんなに、…俺は邪魔だったのか、」
起き上がることもないままに日向が発した言葉に、奈緒は息を詰める。違うそうじゃない、と言おうとしても胸に何かがつかえたような感じがして言葉を発せなくなっている。日向はただ影だけを真っ直ぐに見つめている。それを受け、影が奈緒の腕の中で微かに強張ったのを感じた。
(“薬”の効果が薄れて来てる…の?)
「赤目にも言われた…俺がいなければ影はもっと自由、みたいなことを。俺が、邪魔してるって、」
「……っ、」
影の無表情だった顔に、波紋が広がる。羽交い締めにされてもがいていた体がピタリと抵抗を止める。
「………殺して良いよ」
「九連、あんたっ」
「俺を殺して影が自由になれるなら。それで影が楽に、生きられるなら。俺はそれが良いと思う」
「…いさん?」
「今まで、ごめんな。守ってるつもりで、ただ影を甘やかしてるだけだった。たぶん俺は怖かったんだな、影に追いて行かれるのが。俺が必要なくなるのが、怖かったんだ」
影も奈緒も日向の言葉を聞きながら身動ぎ一つ出来ないでいる。だが奈緒は影の気配から鬼気迫るものが消えていきつつあるのを感じていた。“薬”の効力が消えつつあるのか、それとも。
(九連、)
「……俺が、甘えてたんだろうな。影に」
そうだ。影が誰かと親しくして、自分から離れていく気がして怖かったんだ。確かに影に甘えさせていた。でも、一番甘えてたのは自分だったんだ。
「お前が殺したいなら、殺してくれ。それで、影の気が楽になるなら。笑えるなら」
日向は顔を強張らせたままの影に、苦笑を向ける。
「俺を殺したいほど憎んでるなら、」
ナイフを握っている右手を掴む。影がビクッと震える。日向は影を見詰めたまま、
「…殺して良い」
と、言った。影の体がガクガクと震え始める。その様に良くない兆候を感じ取り、奈緒は影の拘束を解いた。影は力なく床に膝を着く。震える手で握ったナイフを、日向の上で刃先を彼に向けて構える。いつでも振り下ろせる、そんな状況。
「影、遠慮なくやってくれ。俺のことは、気にするな」
「……っ、」
何かを断ち切るかのように首を何度か左右に振った後、影は意を決したように呼気を吐き出し、勢いをつけてナイフを日向に、
「今までありがとな。影が家族で、弟で、良かった」
「!!」
その、瞬間。影の手からナイフが滑り落ち、かつんと乾いた音を立てて床に転がった。
「………影?」
日向が呼び掛けると、影は眼を見開いて彼を見返していた。唇は蒼白で、大きな瞳から大粒の涙を零す。
「にい、さん…」
「影!?」
「ぼ、くは……兄さんをころ、そうと………」
「影、お前……」
戸惑っている日向だったが、いきなり影が自分の方に倒れ込んで来て、慌てて小柄なその体を支える。
「影、おいっ、影っ!」
影の体は酷い熱を持っていて、呼吸が荒い。熱がある、と日向は慌てる。日向が呼び掛けても、気を失っているようで、影はぐったりとしたままだ。
「…何とか、なったみたいね」
気が抜けた奈緒は安堵の息をはいたが、飛び込んで来た拍手に音の方向をキッと睨み付けた。「遊子!」
墨のように真っ黒な黒髪の、長身の女。愉快そうに満面の、しかし何処か歪な笑みを浮かべ、拍手をしている。影を抱えたままの日向が敵がい心たっぷりに遊子を見据える。
「いやいや、素晴らしい兄弟愛を見せて貰った。まさか“薬”の効力をそんな下らんもので打ち消せるとは思っていなかったよ。うん、満足だ」
「下らないだと!?影に何をした!」
激昂した日向が怒鳴り付ける。遊子が笑う。
「何もしてないさ。ただ興味があっただけさ」
「興味?」
「影君に、さ。こんな細身の体の“中”にどんな化け物を飼っているのか、とね」
化け物、という言葉に日向が怒りに顔を歪める。
「影は化け物なんかじゃない!」
「怒った顔、良いね。お姉さんは尖った男の子は大好きだよ」
「…っ」
「そして奈緒。昔とは打って変わって随分感情的になったじゃないか。私は嬉しいよ」
日向は奈緒を見る。やはり奈緒と目の前の女は古い知り合いなのだ。でも、どういう?奈緒はこんな研究所みたいな内観の家で育ったとでも言うのか?こんな、不気味な女と、暮らしていたのか?視線を向けられた奈緒は顔を青ざめさせながらも気丈に遊子を睨み付けている。
「それはどうも」
「ふふっ、ひねくれているのは相変わらず、か。変わってない部分もまた良い」
「どうでも良いけど、もう帰っても良いかしら。あんたの下らない遊びに付き合ってる暇、あたしたちにはないんだけど」
「あぁ、それは困る。まだ遊び足りないから」
遊子がそう言った矢先、奈緒は眼を見開いた。
「玲治、佳那汰にぃ、」
「奈緒、さん…」
日向たちの背後から、佳那汰と玲治、二人の兄弟が現れたのだ。しかも佳那汰は玲治の首に腕を回し、玲治が身動きできないように拘束している。抜き身のナイフを持って。
「あんたたちが帰る素振りを見せた瞬間、玲治はあの世行きだよ?」
遊子の笑いを含んだ声に、奈緒は唇を噛んだ。
「あんたは何処まで……っ!!」
「さぁ、運動をして喉が渇いたでしょう。一服入れましょう」
そして場違いなにこやかな笑みを、その白い顔に刻んだのだった。
……戻せましたね。ひと安心してもまだまだ“屋敷”からは帰れません。波瀾は続きます。