第五十六話:悲劇への一歩
ガンッ、と頭を壁に打ち付けられ、一瞬意識が飛びそうになる。
「う、」
「訂正しろ、私のことは何も分からないと言えっ!!」
女医の激昂は止まらない。影の脇腹を蹴り上げ、苦悶の表情を浮かべる少年を冷たい床に押し付ける。
「…っ、ごめっ、ごめんなさいっ」
謝罪の言葉は聞き入れられることはなく、ピシャリと頬をはたかれる。
「御鶴城、そろそろ良いだろう。綺麗な肌に、あまり傷を付けたくないから」
折檻を眺めているだけだった遊子がようやく口を挟む。御鶴城を下がらせると、影を引っ張りあげる。
「はっ、はぁ…あっ?」
影の眼が驚愕に見開かれる。遊子がキスして来たのだ。舌があっさりと口内に侵入し、口腔を舐め回す。ゾクッと言い様のない感覚に、影は身を竦ませる。
「んっ、…ん!!」
逃れようと身を捩っても、遊子に肩を掴まれてピクリとも動けない。
(やだ、いやだっ…)
影が必死に耐えていると、始まった時と同様にキスは唐突に終えられた。
「はぁはぁ、はぁっ」
影は荒い息をつきながら後退する。体がやけに熱いけれど、気のせいだろうか。遊子が一歩を踏み出してきて、影は本能的に怯えて身を竦ませる。
「はぁ、はぁ…っ」
風邪をひいた時のように、体が熱を持っている。眼も霞んで来る。
「大分効いてきたみたいだね」
「……え?」
「“薬”。無味無臭だから、入れられても分からなかったでしょ」
「な、なんのこ、っ!?」
心臓がドクンッ、と大きく鼓動する。発作の前触れによく似たそれに、影の不安は膨らみ続ける。「んっ、…っ」
息が苦しい。眼がチカチカと瞬く。
「大丈夫。副作用はないから。ただ……」
「……」
「自分が自分じゃなくなっちゃうけどね」
「!!」
一瞬、更に強く心臓が鼓動する。影は胸を掻き抱き、眼をギュッと瞑る。
(苦しいよ、兄さん。苦しい、)
「次に目覚めた時、君は君であって君ではなくなってる」
「……」
反応を返す力すら残っていない。
「お休み、九連影君」
遊子のその言葉を最後に、影は意識を失った。
奈緒はたじろぐ日向の右腕を掴んで病室を出た。面会時間帯であるが、院内はおかしいくらいに静まっている。足音一つしない。
「は、蓮本何処行くんだよ」
「笹原っていう看護師を探すのよ。九連の話からして、そいつは遊子と関わりがある」
「だ、だけど」
「だけど、じゃない!影が心配なんでしょっ」
影が心配なのに間違いはないので、日向は頷いていた。
「なら話は簡単。御鶴城と一緒に病室に来た笹原って看護師に突撃するだけ!」
「で、でもっ」
「あ、ちょっとすみません!」
日向を無視して、奈緒はナースステーションにいた看護師に声をかけた。
「?どうされました?」
「笹原っていう看護師さんに会いたいんですが」
「ああ、笹原さんなら体調不良で早退されましたけど」
「早退?…分かりました、なら良いです」
奈緒はあっさり納得し、不思議顔の看護師を無視して、日向を引っ張って行く。ナースステーションが見えなくなったところで、
「仕方ない。直接乗り込むか……」
「蓮本?」
「病院出るよ」
「えっ、さすがにそれは」
奈緒ははぁ、と呆れたため息をつき、
「あんたは影、影言うわりには思い切りが足りないわよねぇ」
日向はムッとして奈緒を睨む。
「分かったよ!出てやるよ、幾らでも!」
自棄になって支離滅裂な言葉を吐く。奈緒がふふん、と不敵に微笑み、あ、俺失敗したかも…と日向が思ったのは言うまでもない。
玲治は、少年が気を失って崩れ落ちたのを見た瞬間、部屋に飛び込んでいた。だが御鶴城にあっさり拘束される。
「止めろ、余計な怪我をする気か」
御鶴城の低い声が心を震わせる。
「それでもダメだ!俺みたいな存在を作りたくないっ……」
兄に見放され、“薬”で良いように動かされる。そんな存在は自分だけで十分だ。少年が遊子に抱えられる。玲治は力の限り叫ぶ。
「彼に触るな、遊子っ……!!」
「………」
遊子が少年を抱えて玲治を振り返る。その眼には何の色もない。だが玲治は引かなかった。拳を作り、決して眼を逸らさない。「その子を放せ!」
「ほぅ。飼われている存在のくせに、主人にそんな口を聞くか」
「お、俺は飼われてなんかいないっ!」
「御鶴城、連れて行け。うるさくてかなわん」
「はい」
玲治を羽交い締めにしたまま、御鶴城は後ろに下がる。
「放せ、放せよ!」
それでも拘束をほどこうともがく玲治に業を煮やし、御鶴城は彼の腹に一発ぶちこんだ。
「んっ、ぐ……」
そして痛みに喘ぐ玲治を引き摺って部屋を出ていく。それを見届け、遊子は影を見た。涙の残る頬に舌を這わせ、妖艶に笑う。
「可愛い寝顔ね……」
It's show time、と遊子は小さく呟いた。
さあ影が遊子に捕らわれて大変です。最近出番が少ない上に良いとこなしの日向、頑張れ!って私が頑張らせるのですが……