第五十二話:執着
拉致された影は……。
笹原は獲物を取られて苛立ちの渦中にいた。だが職場の仲間にはいつも通りの温厚な笑みを浮かべて挨拶をする。
(はぁ、あいつが邪魔しなけりゃ、九連日向君と楽しいことできたのにな)
弟のほうは遊子様に連れていかれたしな、と笹原は鬱々としたため息をつく。
「笹原さん、こっち手伝ってもらえる?」
「あ、は〜い」
頭の中ではふしだらなことを考えながら、笹原は人懐こい笑みで呼び声に応えたのだった。
「ん、」
「あ」
ぴくり、と日向の眉が震えて、麻理花は思わず声を漏らした。今日向に自分を認識されるわけにはいかない。正体を知られないままにしなければならないことがまだある。自分の本当の姿を日向に晒せるのはまだまだ先なのだ。麻理花は名残惜しげに日向の手を放した。
「いつか、本当の私を見てね。奈緒でも影君でもない、本当の私を、見てね」
額に静かにキスを落とし、麻理花はそっと微笑む。
「さぁ、半身は囚われてしまったわよ九連君。どうするの?」
一体何をされるのか、影は怖くて仕方なかった。
(兄さん…、)
笹原という看護師に腹を殴られ、気絶した日向は大丈夫なのだろうか。
(一体僕に何の用なんだろう……)
椅子に座らされ、女医が何歩か後ろに下がる。逃げ出そうと思えば逃げ出せるのに、体が言うことを聞かない。何より、
(逃げる素振りを見せただけで、きっと痛いことをされる……)
そう思うだけで、泣きたくなる。
「あ、あのっ」
「ん?」
芦原遊子が満面の笑顔で振り返る。
「ぼ、僕に何の用…ですか?」
部屋は何のへんてつもない、普通のつくりであまり広くはない。影と遊子が座っている回転椅子と、シンプルなパイプベッドが一つあるだけ。窓がない上に狭いため、影は息苦しさに喘いだ。
「っ、はっ、」
「少し問答をしてみたいと思ってね。君に興味があるんだ」
「興味……?」
「質問一。名前は?」
影の不審げな顔に構わず、遊子が問いを発する。名前も何も、呼んだじゃないか、と思ったのだ。その隙を突かれた。後ろにいた女医に、背後から顎を上げられた。
「んっ…」
「答えなさい」
「か、げ……九連影で、す」
顎を上げられたまま、第二の問いが投げ掛けられる。
「家族構成は?」
「っ、に、兄さんが一人、両親…は、かっ、いがいに、」
「兄の名は?」
「ひ、なた。九連日向……」
「……意識を急に無くしたりすることは?」
「……え?」
「誰かが自分の中にいると感じたことは?」
「あ、あの、それ、どういう意味ですか?」
影が戸惑いも露に尋ねると、
「ひあっ……!」
女医がいきなり首筋を撫でてきた。急な刺激に、影は思わず声を上げる。
「質問しているのは遊子様だ。貴様ではない」
低い声が心を震わせる。
「ご、ごめんなさいっ」
「御鶴城、そんなにいじめてやるな。これから私がいじめてやるんだからな、楽しみが減る」
「はい」
遊子はよろしい、と一つ頷くと質問を再開する。
「誰かに見られていると感じることは」
影は首を左右に何度も振る。
「最近体調におかしなところは?」
「な、ないです……」
「眼が赤くなることは?」
話が徐々におかしな方向に流れていく。影はまた首を振る。「……男と抱き合ったことはあるか?」
「っ!!」
影の脳裏に、会議室に閉じ込められたときの情景が蘇る。伸びてきた腕。光る白刃。餓えた獣の眼。
「………っ!!」
吐き気に、影は前屈みになる。
「感想は?」
感想?そんなの決まってる。気持ち悪かった。足をはいまわる手。引きちぎられたシャツの前。白刃が皮膚を裂く。生温かい舌が皮膚を這う。前を握られる。
「嫌だ、もう止めてっ!!」
眼を閉じ、耳を塞ぎ、影は叫ぶ。涙が止めどなく流れる。
「…おや」
遊子はあることに気付き、眉をくいっ、と上げる。好奇心にあふれた無邪気な瞳で、それを注視する。影の瞳から流れた涙の色が……赤い。
「……いらっしゃいませ」
不敵に笑む遊子に、俯いたままの影が小さく呟く。
「…全く、最悪な目覚めだ」
「その最悪に関わることが出来て、私は光栄に思うよ。赤い眼の君」
「うるさい、」
顔を上げた影の眼は赤く、不機嫌そうに目元から口元まで歪めている。煩わしそうに涙の痕を腕で拭う。
「んで、おれに何のよう?眠いんだけど」
「少し君と話したくてね。物凄く興味があるんだよ」
「おれはあんたに興味なんか更々ないけどな」
その言葉に引っ掛かったのか、女医が影に手を出そうとする。
「御鶴城、やめな」
だが遊子の一喝に手を引っ込めた。無表情に、微かに覗く苛立ち。それを知ってか知らずか、遊子は苦笑する。「…で、おれ、てか影を拉致って、心抉ってまで、あんたは何がしたいの?」
「君と手っ取り早く話せる方法はこれしかないような気がしてね。影くんの窮地に君は表れるようだしねぇ」
影はムッとしたように眼を細める。
「……」
「反論はなし、みたいだね」
「一つ訊かせろ」
「ん?」
「…日向は、あいつには手を出してないだろうな。あんたが興味あるのはおれだけなんだろ」
遊子は愉快げに口元を緩める。
「さぁ。あっちは笹原に任せてるから」
「っ、」
思わず立ち上がった影に、後ろから女医の声が飛ぶ。
「…あの方がいるから問題はない」
「あの方…?」
「九連日向をとても好いておられる方だ。その方がいれば、九連日向は安全と思ってくれて良い。九連日向を傷つける者は、その方が何人たりとも許さないだろうからな」
影は怪訝そうな顔で御鶴城を仰いだが、御鶴城は無表情で見返すだけだ。影ははぁ、と呆れたため息をはく。「教える気はないってことか。人を拉致るだけ拉致っといて適当だな」
「ありがとう」
「褒めてないぜ、おれは」
影はぼりぼりと面倒臭そうに頭を掻く。
「とにかく、日向には手を出すなよ」
「随分ご執心だな、兄貴に」
遊子の言葉に影は虚を突かれたような顔をする。
「……別に普通だろ。肉親なんだし」
「肉親…ね。本当にそれだけ?」
「……………」
影は遊子から眼を逸らす。何かを隠しているのは明白だが、影は口を開こうとしない。
「まぁいいか。制限時間がありそうだし、まだ訊きたいこともあるからな」
遊子の愉快げな声に、影はあからさまな舌打ちを残した。